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2001/04/04 毎日新聞朝刊
[社説]教科書 歴史の直視こそ未来を開く――検定制度は抜本的改革を
 
 2002年度から使用される小、中学校の教科書の検定結果が3日、文部科学省から公表された。現行教科書を「自虐的」などと批判してきた「新しい教科書をつくる会」主導の中学校歴史教科書(扶桑社)を含め、すべて合格した。
 扶桑社の歴史教科書に対しては、中国、韓国政府が、歴史をわい曲しているなどと懸念を表明したほか、国内からも批判が相次ぎ、検定結果が注目されていた。文部科学省の教科用図書検定調査審議会は、この教科書に137件の検定意見を付けた。執筆者側は、すべて修正に応じ、書き換えた。その結果「ストライクゾーンギリギリに入った」(検定関係者)と判断したわけである。
 妥当か否かは見解の分かれるところだろうが、現行の検定制度、基準によれば、そういう判断になることは分からなくはない。不合格にすべきだと主張するつもりはない。
 ただ、2点言っておきたい。
 一つは、扶桑社の歴史教科書は、教科書として優れているとは評価し難いということだ。検定合格後は、教科書を使う側の採択の問題になるが、中学生が学ぶのにふさわしいものとは思えないのである。
 
◇問題が多い扶桑社版
 もう一つは検定の廃止を視野に入れた改革に踏み出す時期にきているということだ。自由発行、自由採択にし、使う側の良識にゆだねる方が望ましい。
 扶桑社版歴史教科書の原本(白表紙)は、あまりに問題が多かった。まず、検定意見数が他社に比べて突出している。「豊臣秀吉と(スペインの)フェリペ2世は、たがいに相手の強大さを認めていた」のくだりに「そんな事実はない」と意見がついたのをはじめ、誤り、不正確との指摘だけで24件ある。基本的なところがずさんで、信頼性を欠く。
 内容面で問題なのは、日本を美化し、特に近現代史における日本の行動をやむを得なかったなどと正当化していることだ。植民地支配での加害行為や負の側面には、ほとんど触れていない。
 日本を悪者にしたくない心情は分からなくはないが、反省し、教訓としなければならないことまで自虐的と排斥したのでは、自らをおとしめる。さらに狭隘(きょうあい)なナショナリズム、排外主義に容易に結びつく。歴史を直視しなければ、他国の信頼を得られないだけでなく、日本の進路を危うくする。
 司馬遼太郎氏は、ナショナリズムを「お国自慢、村自慢、家自慢、親戚(しんせき)自慢、自分自慢」と定義し、上等な感情ではないと記している(「『昭和』という国家」)。「この(可燃性の高い)土俗的感情は、軽度な場合はユーモアになるが、重度の場合は血なまぐさくて、みぐるしい」とも述べる(「この国のかたち」)。
 白表紙にある「日本列島では、四大文明に先がけて『森林と岩清水の文明』があった」「(鎌倉美術は)イタリアよりはるかに早い、日本のバロック美術といってよい」などは軽度なお国自慢だろう。
 しかし、日露戦争後の情勢について「日本には、大国としての義務と協約の中で進む以外の、いかなる道も残されてはいなかった。こうした国際政治での日本の苦しみを、当時の中国人や朝鮮人は理解することができなかった」というあたりになると見苦しいものになってくる。
 検定は、これらを「理解し難い表現」などとして、修正させた。一般の書物なら問題にならないが、教科書だから、独自の史観の非常識さがあぶり出されたことになる。検定の皮肉な成果といえよう。
 見過ごせないのは、「つくる会」が、自らの史観を広める運動の舞台を学校としていることだ。いかなる歴史認識を持とうと自由である。議論を戦わすことも自由だ。ただ思想信条にもかかわる微妙な問題を教育の場にストレートに持ち込むのは好ましくない。まして検定でクギを刺されるような独善的議論を生徒に押し付けるならば無用の混乱を生じる。相当書き換えられたとはいえ、とても薦められる教科書ではない。
 ナショナリズムは、政治や経済がうまくいかない閉塞(へいそく)状況の時に火がつきやすい。教育改革国民会議の席で、浅利慶太委員は「うっ積した日本の状況は、右の人が火をつけると一気に爆発して右傾化すると見ている」と発言。教育基本法改正論議について、「国家至上主義的考え方や全体主義なものになってはならない」との表現を報告書に残すことの重要性を強調した。
 司馬氏は「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけて回るというのは、高度の政治的意図から出る操作というべきで、歴史は、何度もこの手でゆさぶられると一国一民族は潰滅(かいめつ)してしまうという多くの例を遺(のこ)している」と書き、昭和初年から太平洋戦争の敗北までを考えればいいと注記している。
 心して、足元を見つめていかなければならないと思う。
 
◇第三者機関で認定しては
 今回の検定は、検定制度そのものについて改めて考えさせられるものになった。歴史教科書のように、認識に大きな開きのある分野の検定は難しい。検定意見は正しいのか、意見を付けなかった個所はそれでいいのか、一つ一つ議論すれば、果てしのないものになる。
 問題なのは、間接的ではあれ検定に国が関与していることだ。検定意見が国のお墨付きと受け取られても仕方のない面があり、現に政府の姿勢と密接なつながりを持つ。時に恣意(しい)的に陥ることは、過去の教科書裁判でも指摘された。ストライクゾーンは社会情勢に翻弄(ほんろう)されることもあり、必ずしも一定ではない。
 検定は、最高裁判決でも示されたように、本来抑制的であるべきだ。理想的には、自由発行、自由採択に近づける方が望ましい。扶桑社版のようなものも含めて自由発行にし、採択の段階で、教育関係者や国民の側の吟味、選択にゆだねる方が、成熟社会にはふさわしい。
 一挙にそこまで行くのが無理であれば、専門家の知恵を借りる手もある。国と切り離した第三者機関を設立し、適当と認定した教科書のみ、採択リストに載せる。間違いが多かったり、本質的なところで問題のある教科書は、不認定とするのである。検討してほしい。


 
 
 
 
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