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1999/10/16 毎日新聞朝刊
[新教育の森]キーワードの軌跡 今週のテーマは・・・「教育基本法」
 
◇「日本人らしさ」を求め−−学校荒廃受け改正論
 戦後教育の憲法に相当する教育基本法の改正論議がにわかに高まってきた。この夏に自民党の教育改革実施本部が基本法についての勉強会を発足させたのに続き、小渕恵三首相も、先の自民党総裁選で見直しに言及するなど、教育改革政策の焦点になってきた感がある。教育基本法はどのような状況下で作られたのか。そして、なぜ今「改正」なのか。関係者の証言などを交えて検証する。【澤圭一郎】
 
■民主教育の骨格
 「当時の知識人、学者などそうそうたるメンバーで構成された委員会。議論も活発で、皆さんのいうことは『まさにごもっとも』だった」
 1946年8月、敗戦後の占領下に発足した「教育刷新委員会」について、元文部省事務次官で高等教育研究所理事長の天城勲さん(84)はそう振り返る。当時、天城さんは若手の文部官僚。官房審議室に所属し、日本の戦後教育を新たにどう作り上げるか腐心する立場にあった。
 刷新委員会は、連合国軍総司令部が米国から派遣した「米国教育使節団」(団長、G・D・スタッダード・イリノイ大総長)に応対した「日本側教育家委員会」(委員長、南原繁・東京大学長)が母体になっている。
 使節団は46年3月初旬から約1カ月間滞在し、学校を訪問したり、教師、教育学者らと積極的に懇談し「民主的教育」の骨格を示す報告書を作った。これには教育目的や教育行政、教員養成、大学教育など、戦後教育改革のほとんどが盛り込まれた。日本側委員会も、個人の尊重や教育委員会制度の創設、6・3・3制などの提言をまとめた。
 同委員会が刷新委員会に発展した時も、この提言が引き継がれ、これが教育基本法の土台になった。委員会は首相諮問機関で、初代会長には当時の安倍能成・前文相が就いた。メンバーは38人。安倍前文相をはじめ天野貞祐・第一高校長、務台理作・東京文理科大学長、小宮豊隆・東京音楽学校長らが集まり、このうち天野校長ら8人が第1特別委員会に所属して基本法の制定に努力した。
 教育基本法の公布・施行は47年3月31日。実質的な検討はおよそ半年で、委員会は9月7日の第1回総会以降、週1回程度のペースで精力的に審議を重ねた。並行して文部省でも基本法の素案を練った。
 委員会は11月には法案の骨格を決め、文部省が条文案を作成した。
 天城さんは「今ではいろんな審議会が『役所の隠れみの』ともいわれるが、当時の委員会は盛り込む文言を巡っても哲学問答が出るような、本当に審議会らしい審議会だった」と証言する。
 第1条の<人格の完成をめざし…>に対し「人格の完成でなく人間性の開発としてはどうか」と意見が出たり、<心身ともに健康な…>についても「健康という言葉は良い。これまでだと『健全』という言葉になっていたが」などと議論が交わされたという。新しい教育観を形成しようとした熱い思いが伝わってくる。
 
■21世紀を視野に
 明治以来、教育の基本理念を表したのは「教育勅語」だった。忠孝と融和を柱としたこの勅語は絶対化され、これが全体主義、軍国主義の温床になったと戦後は一転して指弾された。
 「新しい教育のよりどころが必要だった。刷新委員会発足前には新勅語が良いという意見もあったが、国民が決める法が良いということになった」と日本教育史を研究する佐藤秀夫・日本大教授(65)は説明する。基本法の成り立ちについても「今でも基本法は米国に押しつけられたという人もいるが、それは間違い。男女共学など意見が付いたものもあるが、条文は全部日本側で作った」という。
 一方、批判論は主にこの法の中に「日本らしさ」がないことを欠陥として主張してきた。50年代後半から60年代前半にかけて、文部大臣が「あまりにも無国籍」「日本人不在」などと突いた。
 今回の改正論議は自民党が火付け役になった。党教育改革実施本部(本部長・森山真弓衆院議員)は8月、「教育基本法等研究グループ」を発足させた。
 その趣意として森山本部長は「私見」と断りながら「基本法は立派だが、内容は万国共通。日本人としての自覚を持つような文が盛り込まれていない」と指摘する。具体的には「日本の文化・伝統を重んじるようなものを入れたい。今、日本人らしいルールが必要だと思う」と話す。
 文部省の総括政務次官となった河村建夫衆院議員(自民)は次官就任前「今の教育がどこでどうおかしくなったのか。21世紀の教育はどうあるべきかをしっかり考えないといけない。基本法論議を抜きにはできない」と語った。「教育勅語をもう一度ということでなく、日本人の精神のよりどころになるものが必要ではないか。分かりやすく具体的なものを取り入れたい。例えば徳育やスポーツ振興、家族のだんらんを増やそう、というもの」と挙げる。
 小渕首相も9月の党総裁選の遊説で「21世紀を前に解決しなければならない種々の問題がある。教育に関する基本法の問題もあろうかと思う」と述べ、見直しに積極的な姿勢を示した。
 「しかし」と佐藤教授はいう。「人間的価値は国によって違うのだろうか。日本的な道徳をという発想は民族差別の発想にもつながらないか」。さらに明治時代にも同じような議論があったと指摘する。
 明治政府は欧米を目標に近代化を進めたが、天皇の教育掛だった漢学者、元田永孚(ながざね)は1879年、「欧米化で昔の日本の良さがなくなり、モラルは崩れた。欧米化は止めるべきだ」という趣旨の「教学聖旨」を政府に出した。政府は「欧米の優れたものを取り入れないと外国と競えない」とこれを却下する。佐藤教授は「もし教学聖旨を取り入れていたら、日本の発展は遅れるか植民地になっただろう」とみる。
 
■「文化」の議論を
 教育学者の大田尭・東京大名誉教授(81)も「道徳や愛国心を法によって国民に示すのは民主主義とは反対の発想」とした上で「基本法がなくなるのが理想かもしれない」という。福祉や教育は人間個人の内面の問題で、その高い理想の支えがなければ法律は意味がない、と考えるのだ。
 だが、現実には学級崩壊やいじめ、対教師暴力、非行など、児童・生徒の荒れは止まらない。今回の基本法論議も、そこに端を発している。天城さんは「徳目などは法に入れない方がいい」としながら、もし何かを加えるなら「学校は何をなすべきか、地域社会や家庭はどのようにあるべきなのかを入れなければならない。日本独自の文化などを挙げる人もいるが、文化とは何を指すのかをしっかり議論しないと意味がない」と指摘した。
 
◇教育基本法(昭和22年3月31日 法律第25号)=前文省略
 第1条(教育の目的)教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
 第2条(教育の方針)教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。
 第3条(教育の機会均等)(1)すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。(2)国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。
 第4条(義務教育)(1)国民は、その保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う。(2)国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。
 第5条(男女共学)男女は、互いに敬重し、協力し合わなければならないものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない。
 第6条(学校教育)(1)法律に定める学校は、公の性質をもつものであって、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる。(2)法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。
 第7条(社会教育)(1)家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。(2)国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によって教育の目的の実現に努めなければならない。
 第8条(政治教育)(1)良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。(2)法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
 第9条(宗教教育)(1)宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。(2)国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。
 第10条(教育行政)(1)教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。(2)教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。
 第11条(補則)この法律に掲げる諸条項を実施するために必要がある場合には、適当な法令が制定されなければならない。
 
◆記者ノート
◇「心」を法で説くべきか
 数年前、オーストラリアで生活した時「君は自分の国をどう思うか」と現地の知人らに何回となく聞かれた。「治安は良いし、勤勉でもあるし」と、まず好きな面を話し、次いで「群れたがる。ものをはっきり言わない。いじめもあるなあ」と何となくよろしくない面を語った。
 一方、相手には「私の国はベスト」と自信たっぷりに断言する人もいて、悪い面まで話した自分がなんだか間抜けに思えたこともあった。私の「愛国心」はオリンピックで日本人選手を応援する程度だが、これで十分だと思っている。
 愛国心や道徳は、法が説くことではないと思う。いずれも大勢の人との交わりの中で、自然に心に醸し出されるものではないか。
 教育基本法に愛国心や徳育を盛り込むべきだという意見に賛同する人もいるだろう。今の若い人たちを見て「道徳の乱れ」を胸中で嘆く人は少なくないと思う。戦前の教育を律していた教育勅語を、昭和ヒトケタ世代の私の父母は今でも暗唱できる。さらに「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信ジ…など、なかなか良いことが書いてある。若い人にも読ませたい」ともいう。
 読めば「なるほど」とうなずく面もあると同時に「当たり前のことではないか」とも思う。
 愛国心や道徳を法に盛り込んで新たな教科を作り、入試科目にしてみたらどうだろう。その時、中高校生の道徳心は高まっているだろうか。


 
 
 
 
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