すでに述べたように、こうした東南アジアの広汎な地域におけるインド化は、ベトナムの陸路を中心とした中国化とは、きわめて様相を異にしている。おそらくインド商人が連れてきた僧侶たちにより、支配層のインド化が平和裏に行われたのであろう。そのため、インド化は東南アジアの人々の物心すべてにわたるものではなかった。直接支配が伴わなかったために、民衆への影響は少なかったようである。むしろ、土着の指導層が、イデオロギーとして支配の原理を導入し、みずからの権威ずけをして、“未開”の過去との断絶を図ったのではなかろうか。
このような海路による外来文明の導入には面を覆うという特徴もあるが、限界もあった。それというのは、インド文明がイデオロギーとしてのみ東南アジアの地に入ったために、神と王との関係を正当化することができた。しかしながら、王による民衆の支配についての合理化は十分とはいえず、東南アジアの王朝の構造に脆弱さをもたらした一因となったのではなかろうか。
また、東南アジアのインド化に限界を与えた理由に、海路により渡航してきたインド人の人数が関係しているのではないかと考えられる。しかも、インドの商人たちの多くは男性であり、東南アジアには単身で来訪したと思われる。そのため、インド社会固有のカースト制度をこの地域にももたらすことはできなかった。それというのも、交通が不自由な時代には、インド商人の多くは土地の女性と結婚を余儀なくされたからであろう。すると、他のカーストや民族集団との通婚や食事を共にすることをタブーとするカースト・ルールは、かれらが東南アジアの地に到着するとほとんど同時に守ることができなくなったのである。このようにして、インド社会のもっとも基本であるカースト制度はこの地域に定着しなかったと考えられる。
今日でも、インドネシア東部のバリ島やロンボク島では、ヒンドゥー教が信仰され、ある種のカースト制度が残っている。しかしながら、存在しているのはカースト制度のイデオロギーと枠組みのブラフマーナ、サトリア、ウエーシャ、シュードラというヴァルナ(varna)だけであり、その実態を示すジャーティ(jati)は存在しない。その意味では、厳密にいうと、インド的なカースト制度は根着くことはなかった。
なお、島嶼部や半島部におけるイスラームの伝播であるが、前回の報告書にも述べたように、近世になり、東南アジアにポルトガルが進出し始めると、各地の首長たちがそれに脅威を感じ、インドのグジェラート地方から来たイスラム商人たちから、イスラーム教を積極的に導入し、村連合や島連合を形成する一助としたようである。