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次に、日単位と予測される患者の看護に関してであるが、これまでは特に延命処置をしない患者に対しても、頻繁にバイタル(T、P、BP、R)を測定し、In、Outをチェックしてきた。付き添っている家族はそのたびに、ナースの邪魔にならない場所によけてくれていたように思う。また、呼吸苦があり、上体を起こしていた方が患者にとっては楽であっても、BPが低下していれば上体を低くし下肢を挙上してきた。これらを何の疑問も抱かず、当然のごとくに行ってきた。しかしここでは、全く逆のことが行われていた。眠っている患者を起こさなくても測れるPの測定や呼吸状態の観察で状態の変化を把握し、できる限り負担を与えないようにしており、残された時間をできるだけ家族だけで過ごせるよう、たびたびの訪室も控えていた。また、患者が最も楽な体位でいられるよう介助していた。つまり、あくまで患者サイドに立った援助をしていた。これまで我々がしてきたことは、医療者の都合でしかなかったのではないだろうか?今にして、本当に申し訳なく思っている。

また、危篤状態の患者であっても、本人や家族が希望すれば入浴介助も行っているというのを聞き、驚いた。これまでの常識では考えられないことである。しかし、一般の病棟では末期はかなり辛い状態にあるため、望みはしないだろう。これは、症状コントロールができているからこそ可能なことと感じた。

次に、最期に着る服のことだが、ここでは事前にできれば患者本人に(場合によっては家族に)選んでもらっていた。これまでは浴衣以外着せたことがなく、芸能人でもない限りそういうものだと思っていた。ここにも本人の価値観に沿うということを見たように思う。また、稀に和服を希望する方もいることから、着付けの先生を講師に招いて寝たままの状態での着せ方も練習したというのを聞き、そこまで徹底したこだわりに驚きを隠せなかった。亡くなった後も患者のケアを続けている、という印象を受けた。

次に回診についてだが、これまで私が経験してきた回診は、診察後ドクターが知りたいことだけ尋ね、言いたいことだけ言う、患者が質問してきたら説得するといった、医療者側からの一方的なものだった。一人の患者にかける時間は、処置がなければ3〜5分といったところだ。しかしここでは、ドクターもナースも折り畳みの椅子を持って各部屋をまわり、ベッドサイドに座ってゆっくりと話をしていた。一般病棟では回診に長い時間をかけるのは困難なことであり、大切なのは時間の問題ではないが、患者の話が長くなるとイライラしだすドクターが多いことは事実であり、そこには患者は黙ってこちらの言うことを聞いていればいいんだという雰囲気さえ漂うこともしばしばである。しかしここでは、ドクターは患者の訴えを全く否定せず受けとめ共感する姿勢で関わっており、一方通行ではなかった。これは、簡単なようで非常に難しいことだと思う。とりわけ普段、説得する癖のついている我々にはなかなかできることではないと感じた。そしてその最大の原因は、患者は医療者に従うものという無意識の思い込みがあるためではないかと思った。

最後に、外来の見学を通し、治療主体の病院(特に大学病院)から、もう何もすることはないのでうちの病院においておくわけにはいかないといった内容の説明を受け、見放された思いでここの外来を訪れる患者も多いのではないかと感じた。ここでは、一患者につき45分という時間がもうけられており、実際にはそれ以上かかることもしばしばあるとのことだった。しかも、その全員が入院予約をするわけではなく、希望時すぐに入院できるとは限らないことから、他の施設にも相談に行くことや入院予約をとっておくことを勧めており、その人にとって最も良い方法をドクターも一緒になって考えてあげるという、これまでの常識では考えられないことが行われていた。利益の面から見れば、マイナスは生んでも決してプラスにはならないことだが、ここの外来に来るだけで癒される患者も多いのではないかと感じ、本来の医療のあり方を見たように思う。

 

 

 

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