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による保護を認めさせた。フランスに敗れたラオス臨時人民政府はバンコクへ亡命し政権の正当性を訴え、ラオスの完全独立を主張した。1949年、フランスがフランス連合内でのラオス王国の独立を認めると、その独立をめぐっての解釈の違いから亡命政権は分裂し、解散した。亡命政権のメンバーの大半がラオスに帰国する一方、スパーヌウォンらはフランス連合内での独立を認めずフランスへの抵抗を続けた。

1950年、スパーヌウォン、カイソーン、ヌーハックらは、ネーオ・ラーオ・イサラ(自由ラオス戦線)を結成、ゲリラ戦を展開しラオス北部に解放区を建設していった。ネーオ・ラーオ・イサラを取り込もうとしたフランスは1953年、ラオス王国の完全独立を承認したが、解放区拡大の動きは止まらなかった。1954年、ディエンビエンフーが陥落すると、ジュネーブ会議が開催され、ラオスについても討議されることとなった。

 

(3) ラオス内戦から人民民主共和国へ―1954年から1975年―

ジュネーブ会議では、ラオスに関して、停戦、ラオス領内からの外国軍の撤退、国際監視委員会の設置、国内統一のための総選挙実施などを定めた協定が採択された。協定の実行は難航し連合政府が成立したのは1957年11月であったが、補欠選挙でネーオ・ラーオ・イサラを改称したネーオ・ラーオ・ハクサート(ラオス愛国戦線、この戦闘部隊をパテート・ラーオと呼ぶ)が勝利すると、危機感を強めた王国政府内の右派との間で再び戦闘が開始された。

内戦が開始されるとネーオ・ラーオ・ハクサート(左派)、右派、プーマを中心とする王国政府内中立派がそれぞれ対立しあい不安定な政治状況が続いた。そのなかで、左派と中立派が歩み寄り、1961年から1962年にかけて三派が停戦し、第二次連合政府が発足、1962年7月にはラオスの中立を定めたジュネーブ協定が調印された。しかし、ラオスの中立も長くは続かず、政治的混乱は続いた。1965年にはアメリカ軍による解放区への爆撃も開始され、右派とパテート・ラーオとの間の戦闘も激しさを増した。北ベトナム軍の支援を受け、解放区を拡大していったパテート・ラーオは、軍事的に優位に立つようになると王国政府側に和平交渉を呼びかけた。

王国政府とパテート・ラーオの間で和平会談が繰り返された結果、1973年2月、ラオス和平協定が調印され政治の膠着状態が終わった。1974年4月には第三次連合政府が発足し、軍事的な優位さを背景にパテート・ラーオが勢力を拡大していった。各地で革命行政委員会が樹立され、右派勢力の敗北が明らかとなると、アメリカは王国政府への援助を打ち切った。ウィエンチャンに革命行政委員会を樹立し全土掌握を完了したパテート・ラーオは1975年12月2日、全国人民代表大会を開催した。この大会でパテート・ラーオ勢力への権力の移譲が行われ、王制の廃止と共和制への移行が決定

 

 

 

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