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3 歴史

 

ラオスの主要民族ラーオ族の起源についてはいまだ謎の部分が多いが、ラーオ族は14世紀頃までにメコン河流域に定住し小さな「くに」を築いていたといわれている。それらの「くに」を征服しラーンサーン(百万頭の象の意味)王国に統合したのはファーグム王(在位1353年〜1373年)である。ファーグム王は、現在のラオスから東北タイにいたる地域に版図を拡大した。

この王国は、次第に勢力を伸張し、17世紀のスリニャウォンサー王の時代(在位1637年〜1694年)には芸術、仏教が栄えた黄金時代を迎えた。しかし、18世紀初頭、王位継承問題からルアンパバーン・ウィエンチャン、チャンパーサックを中心とする三つの王国に分裂し、18世紀末になるとこの三王国はすべてシャムの朝貢国となった。19世紀初頭、シャムの支配に反旗を翻したウィエンチャンのアヌ王が戦いに敗れると、ウィエンチャンは破壊された。ルアンパバーンはシャムとベトナムに朝貢することでかろうじて自律性を保ち、チャンパーサックは完全にシャムの支配下に置かれた。ラーンサーン王国がシャムの支配下で弱体化しているまさにこの時、フランスはラオスの植民地化を進めていた。

 

(1) フランス植民地時代―19世紀末から1945年―

19世紀半ば以降、ベトナム、カンボジアの植民地化を進めていたフランスは、1893年、シャムに圧力をかけフランス─シャム条約を締結し、メコン河左岸をフランスの保護領とした。その後、フランスは数度にわたってシャムとの間に条約を結び、フランス領ラオスを現在のラオスと同じ領域まで拡大した。

フランスはラオスを統治するにあたって分割統治を行い、愚民政策を取った。そのため、経済的なインフラを整備することもせず、近代教育の普及にも熱心ではなかった。官吏、教師、労働者などあらゆる分野にベトナム人を利用した。こうしたフランスの政策に変化が生じたのは、第二次世界大戦が勃発してからである。

1940年、フランスがドイツに降伏すると、ヴィシー政権は日本軍のインドシナヘの駐留を認め、実質的にはインドシナを日本軍が支配するが名目的にはフランスの主権が保持されるという体制ができあがった。弱体化を恐れたフランスは、親フランスのラオス人を育成しようと一種の文化政策を行ったが、これはラオス人の民族主義的な覚醒を促すことにつながった。1945年3月の日本軍によるクーデターでルアンパバーン王国が独立を宣言したのも束の間、日本の敗戦で独立が白紙に戻されると、民族主義的志向を持ったラオス人たちがラオス独立を求めて立ち上がった。

 

(2) ラオス独立へ―1945年から1954年―

日本の敗戦後、ラオス人民族主義者たちはラオス臨時人民政府を組織し独立を主張した。一方、フランスは1946年初頭から軍事行動によるラオス再侵略を開始した。4月末にはウィエンチャン、続いて王都ルアンパバーンを占領し、国王に再びフランス

 

 

 

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