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された。ここにラオス人民民主共和国が誕生し、これまでラオス愛国戦線、パテート・ラーオを背後から指導してきたラオス人民革命党が政治の表舞台に現れた。

 

(4) ラオス人民民主共和国の成立―1975年から1986年―

1975年12月、平和的手段で権力を掌握した人民革命党は社会主義国家建設へむけて新しい政策を実施した。新政権は資本主義的段階を通らず直接社会主義へ移行していくという理想を唱えており、農業の集団化、協同組合化、企業、商店、工場などの国有化が実行された。しかし、それまで大量に流入していた西側諸国からの援助がほぼ全面的に停止されており物不足が深刻化していたなかでのこうした措置は、人々の生活の窮乏や激しいインフレを招いた。政治的権力は掌握したものの、社会主義国家建設を目指す新政権に問題は山積していた。

急激な社会主義化による経済・社会の混乱が深まるなか、1979年、政府はこれまでの急激な社会主義政策の見直しを決定した。社会主義イデオロギーの追求よりも経済、社会の安定を優先せざるを得なくなったためである。政府は、自由経済原理を取り入れた諸改革を行うことで経済を活性化させようとしたが、中越関係の悪化によるラオス、中国関係の悪化という国際情勢も手伝って政府の改革は効果を上げなかった。

 

(5) 自由化、開放化へ―1986年から1990年―

経済の停滞が続くなか、社会主義陣営の一員として国際社会に身を置いていたラオスは、1985年ソ連でゴルバチョフによるペレストロイカ政策が開始されると、他の社会主義諸国と同様、大きな影響を受けた。1986年、人民革命党第4回党大会においてカイソーン党書記長は「チンタナカーン・マイ(新思考)政策」という改革路線を打ち出し、経済の自由化・開放化へ大きく踏み出した。党は、国有化などこれまでの急激な社会主義化の誤りや中央集権化の行き過ぎを認め、新経済メカニズムを導入して、社会主義の枠内での経済の自由化を促進することを決定した。これを受け、国営企業の民営化、外国投資法の制定、価格統制の廃止と流通の自由化、貿易の自由化などが次々と実行に移された。

さらにこの動きは、政治、社会面での自由化・開放化をももたらした。ラオスでは人民民主共和国成立以降、普通選挙が行われたことはなかったが、1988年、初めて地方レベルで普通選挙による立法機関が誕生した。続いて1989年には最高人民議会議員選挙も初めて行なわれ、第二期の最高人民議会が発足した。

また、この時期は対外関係でも変化が見られた。タイ、中国との関係改善である。1975年のラオス人民民主共和国成立以来、ラオス、タイ関係は常に緊迫していた。しかし、1988年発足したタイのチャチャイ内閣の、インドシナを「戦場から市場へ」と

 

 

 

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