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開始した。その結果、1947年1月にはアトリー=アウン・サン協定が締結され、同年2月には少数民族代表との連邦制国家設立に向けての話し合い(パンロン会議)がもたれた。4月の制憲議会選挙ではAFPFLが圧勝し、同国の独立準備が整った。しかし、カリスマ的指導者であったアウン・サンは、同年7月政敵ウー・ソオの部下によって暗殺されてしまい、祖国の独立をみることは出来なかった。

 

(4) 独立と議会制民主主義時代

1948年1月4日「ビルマ連邦」は独立を達成した。アウン・サンの後任となったウー・ヌが首相に就任した。しかし、独立直後から共産党やカレン民族などの少数民族勢力が武装反乱を開始し、さらに政治家が権力闘争を繰り広げたため、議会制民主主義は混乱した。1958年10月には、一時政権をネー・ウィン将軍に委譲する事態に至った。1960年2月の総選挙で首相に帰り咲いたウー・ヌは、仏教の国教化や少数民族に対する、より大きな自治権の賦与などの宥和政策を実行したが、むしろ国論の分裂を招き、国内情勢は混乱に陥った。

 

(5) ビルマ式社会主義時代

こうした国政の混乱を収めるため、1962年3月2日ネー・ウィン将軍率いる国軍はクーデターを決行し、彼を議長とする革命評議会を樹立した。ネー・ウィンは「ビルマ式社会主義」を基本理念に掲げ、唯一の合法政党として「ビルマ社会主義計画党(BSPP)」を結成した。社会主義理念の下、急速な産業の国有化が推進されたが、これは非ビルマ人の手から経済実権を取り戻すための「ビルマ化」政策に他ならなかった。しかし、非ビルマ人経営者の追放と行政機関・国有企業への大量の軍人の任命は、行政・経済効率を著しく低下させた。

1974年にはビルマ連邦社会主義共和国憲法が公布され、人民議会が召集された。ここに名目的ではあるが、軍政の民政移管が達成された。大統領にはネー・ウィンが就任した。しかし、軍政時代の経済の「ビルマ化」に伴う混乱は続いたままであり、ストライキや反政府集会が頻発した。1970年代終りから1980年代初めにかけて、経済は一旦回復するものの、1980年央までには再び悪化した。1987年には国連で後発開発途上国(LLDC)の認定を受けるに至り、経済危機は深まっていった。

 

(6) 民主化運動と軍事政権の登場

1988年3月、ヤンゴン市内で発生した些細な衝突をきっかけに、それまでの政治的抑圧と経済困難に対する市民の不満が爆発し、民主化を要求する運動が巻き起こった。1988年8月から9月にかけて、民主化運動は全国で最高潮に達した。しかし、9月18

 

 

 

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