日本財団 図書館


(2) イギリス植民地時代

しかし、コンバウン王朝の膨張政策は、英国植民地主義との対立をもたらすことになる。1824-26年の第1次英緬戦争でミャンマーはヤカイン及びタニンターイー地方を失い、1852年の第2次英緬戦争で下ビルマのバゴー(ペグー)地方を失った。ミンドン王はイギリスと通商協定を締結するなど開明的な政策を採ったが、両国の関係は好転せず、1885年の第3次英緬戦争へと至った。戦いに勝利した英国はティーボー王をインドに追放し、翌年1月1日上ビルマを併合した。こうしてミャンマーは完全に英国の植民地となった。

ミャンマーは英領インドの一州となった、平地帯のビルマ・プロパーは直接統治、少数民族が居住する山岳地帯は間接統治という、いわゆる「分割統治」が行われた。また、第2次英緬戦争以降政庁が置かれていたヤンゴンがミャンマー統治の中心地となった。植民地化された当初は英国に対する低抗運動が続いたが、このことがイギリスに警察機構や行政制度の整備と確立を急がせることとなった。

イギリスは下ビルマのデルタ地帯を、米の一大供給地と位置づけ開墾を奨励した。植民地支配下で、エーヤーワディー(イラワディー)・デルタはアジア随一の米作地帯へと変貌し、米の輸出量は急増した。しかし、その後フロンティアーが消滅し、また世界恐慌により米価が急落する中で、土地は次第に農民から高利貸し、商人、地主(これらは非ビルマ人であることが多い)の手に集積されていった。さらに、鉱工業・商業・金融等のいわゆる近代セクターも非ビルマ人の手に握られていた。こうして植民地ビルマにおいては、英国人を中心とする西洋人が上層、インド人や中国人の地主・金貸し・商人が中間層、ビルマ人の小作人・都市労働者が下層を構成するという「複合社会」が形成されていった。

1923年インドで実施されていた「両頭政治」がミャンマーにも導入され、立法・行政の権限の一部がミャンマー側に委譲された。この時期から民族運動が一層活発となった。また、1935年にはより広範な自治権を認める「ビルマ統治法」が制定され、37年ミャンマーはインドから分離された。

 

(3) 日本軍の侵攻

1942年日本軍がミャンマーに侵攻し、英国植民地政庁をインドヘと追いやった。日本は1943年8月、ミャンマーに名目的な「独立」を与えた。第2次大戦後、ミャンマーは再び英国の支配下に置かれたが、アウン・サンをリーダーとする地下抗日統一組織の「反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)」が、完全独立を求めて英国政府と交渉を

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION