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つまり,酷使され,殺されるかもしれない奴隷の子がその虐待する側の王家の王宮で育つような立場になってしまう。彼は青年に達していくうちに,自分の生まれを悟りました。自分を愛し育ててくれた王家の人々は,実は自分の先祖や自分の家族を殺していく存在なのだ。アイデンティティが分裂するような状態で彼は青年期を迎えた。アイデンティティの危機にある人が,激情的になって他者を攻撃する,いま“キレる”と子供たちが言いますが,まさにそれと同じようにモーセは自分の同胞をいじめているエジプト人を道で見つけては,そのエジプト人を打ち殺すわけです。
 ここまでは彼の同胞愛として理解できるのですが,その後におもしろいのは,奴隷だったイスラエル人が,モーセが自分たちの味方をしてくれたとは思わずに,そんなにおまえが反逆的な行動をしたら,私たちの身も危ないのではないかと逆に同胞からうとんじられてしまったのです。ですから自分が一生懸命やったことがまったく意味をなさなくなった。
 さらに,自分を育ててくれたエジプト人を殺すというのは反逆するということですから,もう自分はそこにも帰れない。彼は王から追っ手をかけられて隣国に逃げます。そこで何とか落ち着いて住み,結婚して子供を生みます。そしてその子にゲルション(寄留の民・根無し草)という名前をつけた。つまり根無し草という名前を自分の赤子につけてしまった男です。一般に命名行為というのは,良い子になるようにという祝福の言葉のはずです。
 ここで皆さんの話に戻ってきますが,現代人はそこまで危機的状況ではないかもしれませんが,やはり現代社会の中で,さまざまなストレスや痛み,課題を抱えて生きているのだと思います。そういう人が,自分は何を叫んでいるのか,何が苦しいのかわからないままに生きている。こういう人がたくさんいます。

 

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