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6. サービスセンターの機能(きのう)
インフォメーションセンターの機能(きのう)
全日本(ぜんにほん)手(て)をつなぐ育成会事務局(いくせいかいじむきょく) 袖山啓子(そでやまけいこ)
 
●大会開催(たいかいかいさい)までと大会申し込み(たいかいもうしこみ)
 第(だい)14回(かい)国際育成会連盟世界会議(こくさいいくせいかいれんめいせかいかいぎ)メキシコ大会(たいかい)は、2006年(ねん)4月(がつ)以降(いこう)、徐々に(じょじょに)その全容(ぜんよう)が明らか(あきらか)になってきました。しかしなかなか詳細(しょうさい)な情報(じょうほう)を得る(える)ことができず、更に(さらに)直前(ちょくぜん)一週間(いっしゅうかん)ほどになってから入って来た(はいってきた)プログラムに関して(かんして)も何度(なんど)も変更(へんこう)が入る(はいる)という状況(じょうきょう)で、大きな(おおきな)期待(きたい)をもちつつも、のんびりそしてあわただしい半年間(はんとしかん)でした。
 この間(かん)、全国(ぜんこく)の皆様(みなさま)に呼びかけ(よびかけ)を行い(おこない)、総勢(そうぜい)74名(めい)、うち本人(ほんにん)23名(めい)の参加者(さんかしゃ)がメキシコ大会(たいかい)に登録(とうろく)しました。
 
●事前(じぜん)の準備(じゅんび)と発表者(はっぴょうしゃ)申し込み(もうしこみ)
 全日本(ぜんにほん)手(て)をつなぐ育成会(いくせいかい)では、事前(じぜん)の情報提供(じょうほうていきょう)、交流会企画等(こうりゅうかいきかくとう)を含めた(ふくめた)諸準備(しょじゅんび)及び(および)、本人(ほんにん)を含む(ふくむ)発表者(はっぴょうしゃ)をメキシコ大会(たいかい)へ送り出す(おくりだす)ために、4月(がつ)に準備委員会(じゅんびいいんかい)の前段階(ぜんだんかい)の会合(かいごう)を持ち(もち)、メキシコ大会(たいかい)準備委員会(じゅんびいいんかい)の立ち上げ(たちあげ)と、7名(めい)の方(かた)の委員委嘱(いいんいしょく)を決定(けってい)しました。準備委員会(じゅんびいいんかい)は6/6、7/13、9/27、lO/16に開催(かいさい)し、平行(へいこう)して分科会発表者(ぶんかかいはっぴょうしゃ)、展示発表者(てんじはっぴょうしゃ)の募集(ぼしゅう)、登録(とうろく)、発表支援(はっぴょうしえん)、発表者選考(はっぴょうしゃせんこう)に関わる(かかわる)推薦文(すいせんぶん)の作成(さくせい)等(とう)を行い(おこない)ました。
 
●インフォメーションセンター設置(せっち)・運営(うんえい)
 メキシコ大会事務局(たいかいじむきょく)とは、事前(じぜん)にメールでのやり取り(やりとり)を行い(おこない)、インフォメーションセンターのための机(つくえ)と椅子(いす)の予約(よやく)、最終的(さいしゅうてき)には現地(げんち)にて場所(ばしょ)の確保(かくほ)を行い(おこない)、大会期間中(たいかいきかんちゅう)は通訳(つうやく)イヤフォンセットの配布(はいふ)・回収(かいしゅう)、世界会議短信(せかいかいぎたんしん)、ニュースの発行(はっこう)・配布(はいふ)、大会(たいかい)プログラム等(とう)の変更(へんこう)のお知らせ(しらせ)等(とう)の周知(しゅうち)を行い(おこない)ました。
 
●交流会企画(こうりゅうかいきかく)・開催(かいさい)
 成田(なりた)からは3つの飛行機(ひこうき)(国内線(こくないせん)を利用(りよう)の人(ひと)は4つ)を乗り継いで(のりついで)遠く(とおく)メキシコまで移動(いどう)するのですから、大会(たいかい)に参加(さんか)するだけでなく、現地(げんち)の親の会(おやのかい)との交流会(こうりゅうかい)を開催(かいさい)しようということで、メキシコ育成会(いくせいかい)(CONFE)との交流会(こうりゅうかい)を企画(きかく)しました。当日(とうじつ)の開催(かいさい)までは紆余曲折(うよきょくせつ)がありましたが、11月(がつ)8日(か)には総勢(そうぜい)150名(めい)ほどの参加者(さんかしゃ)が、階段状(かいだんじょう)の座席(ざせき)のある劇場(げきじょう)タイプの会場(かいじょう)に集い(つどい)、交流(こうりゅう)しました。
 翌(よく)9日(か)には国際育成会連盟(こくさいいくせいかいれんめい)アジア太平洋地区(たいへいようちく)のミーティングも開催(かいさい)し、近隣地域(きんりんちいき)における連携(れんけい)について模索(もさく)しました。
 また、スケジュールの都合上(つごうじょう)、中国(ちゅうごく)からの参加者(さんかしゃ)とは、小規模(しょうきぼ)の話し合い(はなしあい)の場(ば)を持ち(もち)、情報交換(じょうほうこうかん)をしました。
 さらに、1O日(か)には国際育成会連盟会長(こくさいいくせいかいれんめいかいちょう)との朝食会(ちょうしょくかい)を開催(かいさい)し、全日本(ぜんにほん)手(て)をつなぐ育成会(いくせいかい)からは理事等(りじとう)が参加(さんか)し、討議(とうぎ)を行い(おこない)ました。
 
●本人参加(ほんにんさんか)とその支援(しえん)
 11月(がつ)7日(か)のプレ会議(かいぎ)の本人会議(ほんにんかいぎ)において10人程度(じゅうにんていど)のスモールグループに分かれて(わかれて)、話し合い(はなしあい)を行い(おこない)、それを順次(じゅんじ)発表(はっぴょう)していくというワークショップが行われ(おこなわれ)ました。ここで多く(おおく)の日本人本人(にほんじんほんにん)が次々(つぎつぎ)に発表(はっぴょう)を行い(おこない)、その様子(ようす)を見た(みた)大会事務局(たいかいじむきょく)から、大会最終日(たいかいさいしゅうび)に発表(はっぴょう)する決議文作成(けつぎぶんさくせい)のグループに参加(さんか)して欲しい(ほしい)との要請(ようせい)を受け(うけ)ました。飛行機(ひこうき)の時間(じかん)の都合上(つごうじょう)、大会(たいかい)プラス観光(かんこう)のBコースに参加(さんか)の人(ひと)たちは、最終日(さいしゅうび)の朝(あさ)ホテルを発たなければ(たたなければ)ならず、大会参加(たいかいさんか)のみのAコース参加(さんか)の本人(ほんにん)にこの大役(たいやく)をお願い(ねがい)する形(かたち)で、本人発表(ほんにんはっぴょう)のための原稿(げんこう)の作成(さくせい)を支援(しえん)しました。
 
●会議通訳(かいぎつうやく)
 全日本(ぜんにほん)手(て)をつなぐ育成会(いくせいかい)では事前(じぜん)の発表者原稿等(はっぴょうしゃげんこうとう)の送付(そうふ)、現地(げんち)における大会諸資料(たいかいしょしりょう)の周知(しゅうち)を行い(おこない)、通訳環境(つうやくかんきょう)の整備(せいび)に努め(つとめ)ました。大会本部(たいかいほんぶ)では午前中(ごぜんちゅう)の全体会(ぜんたいかい)と午後(ごご)の分科会(ぶんかかい)1会場(かいじょう)に同時通訳(どうじつうやく)を、また全日本(ぜんにほん)手(て)をつなぐ育成会(いくせいかい)が1分科会場(ぶんかかいじょう)に同時通訳(どうじつうやく)を配置(はいち)しました。さらにプレ会議(かいぎ)の本人分科会(ほんにんぶんかかい)でもワークショップの発表者(はっぴょうしゃ)の支援(しえん)を含めた(ふくめた)通訳(つうやく)を行い(おこない)ました。
 
中国(ちゅうごく)からの参加者(さんかしゃ)と情報交換(じょうほうこうかん)
前列右(ぜんれつみぎ)は中国知的障害者連盟(ちゅうごくちてきしょうがいしゃれんめい)の理事(りじ)
後列左(こうれつひだり)から2人目(ふたりめ)はそのお嬢さん(おじょうさん)でスペシャルオリンピックスの選手(せんしゅ)です
 
●その他(ほか)
 今回(こんかい)の会議(かいぎ)への参加(さんか)が叶わなかった(かなわなかった)皆様(みなさま)への情報発信(じょうほうはっしん)として、日本財団(にっぽんざいだん)の公益団体向け(こうえきだんたいむけ)のブログを利用(りよう)させていただき、会議(かいぎ)の様子(ようす)を更新(こうしん)しました。
 大会終了後(たいかいしゅうりょうご)は、参加者(さんかしゃ)に報告書(ほうこくしょ)への執筆(しっぴつ)を依頼(いらい)し、皆様(みなさま)のご協力(きょうりょく)により本報告書(ほんほうこくしょ)をまとめることができました。
 
7. まとめ
歴史的(れきしてき)な歩み(あゆみ)の中(なか)で
全日本(ぜんにほん)手(て)をつなぐ育成会(いくせいかい) 常務理事(じょうむりじ) 松友 了(まつとも りょう)
 
 熱い(あつい)メキシコから帰り(かえり)、寒い(さむい)日本(にほん)(東京(とうきょう))の日々(ひび)を暮らす(くらす)かと思い(おもい)きや、全国的(ぜんこくてき)に歴史的(れきしてき)な暖冬(だんとう)になり、少し(すこし)気が抜け(きがぬけ)ました。しかし、世界大会(せかいたいかい)へ向けた(むけた)想い(おもい)と大会(たいかい)で受けた(うけた)感動(かんどう)、確認(かくにん)した決意(けつい)は、何ら(なんら)変わり(かわり)ません。時間(じかん)が過ぎ行く中(すぎゆくなか)で、さらに膨らんで(ふくらんで)いきます。
 
●世界大会(せかいたいかい)の思い出(おもいで)
 戦後(せんご)の障害者(しょうがいしゃ)の関わり(かかわり)において、国際育成会連盟(こくさいいくせいかいれんめい)(連盟(れんめい))はそびえる山脈(さんみゃく)のように偉大(いだい)なものがあります。それは、連盟(れんめい)が第2次世界大戦中(だいにじせかいたいせんちゅう)の暴虐(ぼうぎゃく)の歴史(れきし)に驚き(おどろき)、深い(ふかい)反省(はんせい)から出発(しゅっぱつ)したからです。ヒットラーが率いる(ひきいる)ナチス・ドイツは、計画的(けいかくてき)に障害者(しょうがいしゃ)を集団(しゅうだん)で虐殺(ぎゃくさつ)しており、それが戦後(せんご)の裁判(さいばん)で明らか(あきらか)になったのです。
 生命(せいめい)を守り(まもり)、人権(じんけん)を守る(まもる)ことが、連盟(れんめい)の出発点(しゅっぱつてん)でした。わが国(くに)でも定着(ていちゃく)した「ノーマライゼーション」の理念(りねん)は、デンマークで生まれ(うまれ)スウェーデンで発展(はってん)したものですが、それは育成会運動(いくせいかいうんどう)の中(なか)で誕生(たんじょう)し、育まれた(はぐくまれた)ものでした。そして、この姿勢(しせい)はその後(ご)も一貫(いっかん)しています。
 連盟(れんめい)の最大(さいだい)の事業(じぎょう)が、4年(ねん)に1度(いちど)の世界会議(せかいかいぎ)であり、私(わたし)はかなり以前(いぜん)からぜひ参加(さんか)したいと願って(ねがって)いました。それは、出席(しゅっせき)される方(かた)が著名(ちょめい)な専門家(せんもんか)であり、当事者(とうじしゃ)による体験(たいけん)に基づく(もとづく)報告(ほうこく)を耳(みみ)にすることが出来なかった(できなかった)からです。違和感(いわかん)がぬぐえなかったのです。
 1990年(ねん)の第10回大会(だいじゅっかいたいかい)(フランス・パリ)の時(とき)に、長年(ながねん)の願い(ねがい)が叶い(かない)ました。その時(とき)、わが国(くに)から初めて(はじめて)5人(にん)の知的障害(ちてきしょうがい)のある本人(ほんにん)が参加(さんか)し、その応援(おうえん)を心(こころ)に秘めた(ひめた)支援者(しえんしゃ)が同行(どうこう)しました。これが、その後(ご)のわが国(くに)の育成会運動(いくせいかいうんどう)はもちろん、政府(せいふ)の施策(せさく)を変えた(かえた)のです。
 その後(ご)は、不幸(ふこう)にしてペスト渦(うず)で断念(だんねん)したインド・ニューデリー大会(たいかい)(11回(かい))を除き(のぞき)、すべての会議(かいぎ)に本人諸氏(ほんにんしょし)を中心(ちゅうしん)に、主催国(しゅさいこく)についで多い(おおい)参加者(さんかしゃ)をもって参加(さんか)してきました。ご支援(しえん)いただいたすべての方々(かたがた)・団体(だんたい)に、この場(ば)をお借り(かり)して心(こころ)から御礼(おれい)申し上げ(もうしあげ)ます。
 この間(かん)、わが国(くに)の育成会運動(いくせいかいうんどう)は、世界(せかい)の動き(うごき)を視野(しや)において進めて(すすめて)くることが出来(でき)ました。まだ十分(じゅうぶん)に「連携(れんけい)して」とまではいえませんが、それを意識(いしき)できるようになって来ました(きました)。特に(とくに)、アジア太平洋地区(たいへいようちく)の交流(こうりゅう)が、具体的(ぐたいてき)に始まり(はじまり)ました。後(あと)は、政府(せいふ)の動き(うごき)に同じ(おなじ)視点(してん)と方向(ほうこう)を期待(きたい)します。世界会議(せかいかいぎ)への政府関係者(せいふかんけいしゃ)の参加(さんか)がないことが気に(きに)なりますが、次(つぎ)のドイツ・ベルリン大会(たいかい)への課題(かだい)としたいと思い(おもい)ます。
 
●メキシコ大会(たいかい)の意義(いぎ)
 世界会議(せかいかいぎ)が中南米(ちゅうなんべい)で開催(かいさい)されるのは、第(だい)9回(かい)(1986年(ねん))のブラジル・リオデジャネイロ大会(たいかい)以来(いらい)のことです。今回(こんかい)は、文字通り(もじどおり)中米諸国(ちゅうべいしょこく)が総力(そうりょく)を挙げて(あげて)支援(しえん)していました。それは、メキシコが国連(こくれん)で障害者権利条約(しょうがいしゃけんりじょうやく)を提案(ていあん)し、共に(ともに)行動(こうどう)する姿(すがた)と同様(どうよう)です。
 ラテン特有(とくゆう)のおおらかさに、事務局(じむきょく)は翻弄(ほんろう)されましたが、大会(たいかい)の内容(ないよう)は報告(ほうこく)の通り(とおり)、今回(こんかい)も刺激的(しげきてき)なものでした。また、積極的(せっきょくてき)にわが国(くに)からも発表(はっぴょう)を行った(おこなった)ことは、まさに歴史的(れきしてき)な快挙(かいきょ)とさえいえるでしょう。それがまた、世界(せかい)の仲間(なかま)との交通(こうつう)に繋がった(つながった)ことを嬉しく(うれしく)思い(おもい)ます。
 世界(せかい)の育成会運動(いくせいかいうんどう)そのものが高い(たかい)問題意識(もんだいいしき)を持って(もって)いるのかも知れません(しれません)が、今回(こんかい)の大会(たいかい)のテーマはじつに次元(じげん)の高い(たかい)ものでした。それは、貧困問題(ひんこんもんだい)を視野(しや)に入れた(いれた)ものであり、権利(けんり)を基盤(きばん)にしたものでした。それを、世界的(せかいてき)な規模(きぼ)でどのように対応(たいおう)するか、というものです。
 世界会議(せかいかいぎ)の開催(かいさい)された時(とき)は、国連(こくれん)の障害者権利条約(しょうがいしゃけんりじょうやく)(案(あん))が、特別委員会(とくべついいんかい)で採択(さいたく)された直後(ちょくご)でした。12月(がつ)の総会(そうかい)での正式採択(せいしきさいたく)へ向けて(むけて)、まさに高揚(こうよう)していたといえるでしょう。そしてこの条約(じょうやく)は、メキシコ政府(せいふ)が提案(ていあん)し、連盟(れんめい)も成立(せいりつ)へ向けて(むけて)奮闘(ふんとう)していました。
 わが国(くに)では、千葉県(ちばけん)において、「障害者差別禁止条例(しょうがいしゃさべつきんしじょうれい)」が可決(かけつ)・成立(せいりつ)した直後(ちょくご)でした。そしてこの条例(じょうれい)も、育成会(いくせいかい)の仲間(なかま)が中心(ちゅうしん)になり、進めて(すすめて)きたものです。期せずして(きせずして)、国内外(こくないがい)において、人(ひと)の尊厳(そんげん)を守る(まもる)ための本質的(ほんしつてき)な取り組み(とりくみ)が進行(しんこう)し、成就(じょうじゅ)したのです。
 貧困(ひんこん)との闘い(たたかい)は、国連(こくれん)の目標(もくひょう)であり、連盟(れんめい)も各地区(かくちく)でセミナー等(とう)の取り組み(とりくみ)を行って(おこなって)おります。現在(げんざい)のわが国(くに)では、「格差(かくさ)」とか「ワーキング・プア」という言葉(ことば)で話題(わだい)になりますが、発展途上国(はってんとじょうこく)においては深刻(しんこく)な問題(もんだい)です。わが国(くに)の障害者(しょうがいしゃ)においても、大きな(おおきな)問題(もんだい)であります。
 私(わたし)たちはこの問題(もんだい)にもっと関心(かんしん)を払い(はらい)、取り組む(とりくむ)必要(ひつよう)があります。その意味(いみ)では、今大会(こんたいかい)の議論(ぎろん)は、大きな(おおきな)刺激(しげき)と参考(さんこう)になったといえるでしょう。障害者自立支援法(しょうがいしゃじりつしえんほう)での不毛(ふもう)な対立(たいりつ)を超えて(こえて)、本質的(ほんしつてき)な議論(ぎろん)と行動(こうどう)を行う(おこなう)必要(ひつよう)があります。
 次回(じかい)は、久しぶり(ひさしぶり)に欧州(おうしゅう)へ戻り(もどり)ます。欧州連合(おうしゅうれんごう)の中心地(ちゅうしんち)になったベルリンの地(ち)で、私(わたし)たちは呪われ(のろわれた)た過去(かこ)をどのように乗り越え(のりこえ)られたかを検証(けんしょう)します。その総括(そうかつ)のプロセスが、権利擁護(けんりようご)の確立(かくりつ)の試み(こころみ)であると考え(かんがえ)ます。その思い(おもい)を込め(こめ)、参加(さんか)への準備(じゅんび)に入りたい(はいりたい)と思い(おもい)ます。


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