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★★★メキシコ大会会議短信(たいかいかいぎたんしん)(第(だい)3報(ぽう))11月(がつ)9日(か) 本会議(ほんかいぎ)★★★
教育(きょういく)におけるインクルージョン
 会議(かいぎ)は3日目(みっかめ)に入り(はいり)ました。主催者(しゅさいしゃ)と参加者(さんかしゃ)の共同作業(きょうどうさぎょう)がふかまり、会場(かいじょう)は一段(いちだん)と熱気(ねっき)を帯びて(おびて)きました。
 今日(きょう)は朝(あさ)から何度(なんど)か停電(ていでん)があり、フロアは蒸し暑い(むしあつい)暗闇(くらやみ)になりました。停電(ていでん)はメキシコでは珍しく(めずらしく)ないとのこと。みな騒ぐ(さわぐ)ことなく平然(へいぜん)と暗闇(くらやみ)を歩いたり(あるいたり)、会話(かいわ)を続けて(つづけて)いました。(さすがに明かり(あかり)が戻った(もどった)ときは歓声(かんせい)があがりましたが)。
 一番(いちばん)の被害者(ひがいしゃ)は、シンポジウム進行役(しんこうやく)のゴードン・ポーターさんでした。彼(かれ)が用意(ようい)していたパワーポイントはコンピュータが使い物(つかいもの)にならなくなりました。しかし彼(かれ)の話(はなし)に、会場(かいじょう)は釘付け(くぎづけ)になりました。
 インクルージョン(教育(きょういく))とは、大きく(おおきく)いえば養護学校(ようごがっこう)や特殊学級(とくしゅがっきゅう)はもうやめようという方針(ほうしん)です。しかし、彼(かれ)は、その根本(こんぽん)にある考え(かんがえ)を静か(しずか)に語り(かたり)ました。
 「子(こ)どもの障害(しょうがい)に焦点(しょうてん)をあてる時代(じだい)は過去(かこ)のもの」「困って(こまって)いるのは子(こ)どもではなく、教員(きょういん)の方(ほう)である」「子(こ)どもを特別処遇(とくべつしょぐう)するのではなく、学校(がっこう)の創意工夫(そういくふう)を支援(しえん)せよ」。つまりインクルージョン教育(きょういく)とは、これまでの特殊教育(とくしゅきょういく)のパラダイム(視点(してん)、思想(しそう)の枠組み(わくぐみ))の転換(てんかん)の宣言(せんげん)なのでした。
(文責(ぶんせき):武居(たけい))
●インクルージョン教育(きょういく)とはなにか?
〜教育(きょういく)の質(しつ)と平等性(びょうどうせい)
ゴードン・ポーター(教員(きょういん)・カナダ)
 私(わたし)の教員歴(きょういんれき)は40年(ねん)になります。そういうとみな驚き(おどろき)ます。もっと若く(わかく)みえると言って(いって)くれます。でも赤い(あかい)服(ふく)をきたらサンタクロースに見える(みえる)でしょう(注(ちゅう):丸顔(まるがお)に白い(しろい)髭(ひげ)、くりくりした瞳(ひとみ)に大きな(おおきな)太鼓腹(たいこばら)の紳士(しんし)でした)。
 
 うまくいかない生徒(せいと)がいると、教員(きょういん)はこう考えて(かんがえて)きました。「彼(かれ)はちゃんと勉強(べんきょう)していない」と。
 実際(じっさい)はそう単純(たんじゅん)ではありません。「勉強(べんきょう)ができない」ということの背後(はいご)には、生徒(せいと)の能力(のうりょく)の問題(もんだい)、生徒(せいと)の家族(かぞく)の問題(もんだい)、生徒(せいと)がうけている性別(せいべつ)への期待(きたい)の差(さ)の問題(もんだい)、生徒(せいと)の宗教(しゅうきょう)の問題(もんだい)、生徒(せいと)の意欲(いよく)の問題(もんだい)・・・と実(じつ)にさまざまな社会的影響(しゃかいてきえいきょう)があるのです。しかし、実際(じっさい)は「できない生徒(せいと)」というモデルで見られて(みられて)いるだけなのです。
 
 しかし、先生(せんせい)たちの15%は別(べつ)のモデルを思い(おもい)ついています。「おそらく自分(じぶん)たちのやり方(かた)がうまくいっていない」と。そう考える(かんがえる)先生(せんせい)は、自分(じぶん)の戦略(せんりゃく)を集中(しゅうちゅう)して考え(かんがえ)、別(べつ)の方法(ほうほう)をやってみるなど、いろいろな工夫(くふう)をしています。
 
 先生(せんせい)には大きな(おおきな)問題(もんだい)があります。先生(せんせい)はほかの先生(せんせい)の支援(しえん)を受け(うけ)られないのです。サッカーでもゴルフでも一流(いちりゅう)のプロには、コーチがいるでしょう。同じ(おなじ)ように先生(せんせい)にも、よいコーチやトレーニングが必要(ひつよう)なのです。しかし、現実(げんじつ)には先生(せんせい)たちは、初任時代(しょにんじだい)からひとりで仕事(しごと)をしているのです。
 
 伝統的(でんとうてき)な特殊教育(とくしゅきょういく)の戦略(せんりゃく)とは、子(こ)どもの障害(しょうがい)に焦点(しょうてん)をあてて、そこに集中(しゅうちゅう)するものです。
 担任(たんにん)の先生(せんせい)が「この子(こ)には教え(おしえ)られない」といえば、この特別(とくべつ)のモデルが当て(あて)はめられるのです。しかし、それは特別(とくべつ)の環境(かんきょう)を用意(ようい)できる豊か(ゆたか)な国(くに)でのみ可能(かのう)なモデルでした。このモデルによって、貧しい(まずしい)国(くに)では障害児(しょうがいじ)を教育(きょういく)することは達成困難(たっせいこんなん)な課題(かだい)になりました。
 
ゴードン・ポーター氏(し)
 
 障害児教育(しょうがいじきょういく)の新しい(あたらしい)モデルとは、何(なに)でしょうか?「この子(こ)には教え(おしえ)られない」といったとき、子(こ)どもの障害(しょうがい)に焦点(しょうてん)をあてるのではなく、先生(せんせい)や学校(がっこう)や社会(しゃかい)の創意工夫(そういくふう)に焦点(しょうてん)をあてるのです。
 いまこの会場(かいじょう)に英語(えいご)のわからない人(ひと)がたくさんいますが、その人(ひと)たちが席(せき)を同じ(おなじ)にしていられるのは、イヤホンをつけているからですね。英語(えいご)がわからないことに焦点(しょうてん)をあてるのではなく、アプローチに焦点(しょうてん)をあてるのです。
 先生(せんせい)は、最新(さいしん)の学習能力評価法(がくしゅうのうりょくひょうかほう)について知る(しる)など、いつも自分(じぶん)の知識(ちしき)のアップデイトを図る(はかる)必要(ひつよう)があります。
 パワーポイントに図(ず)にしていたのですが、聞いて(きいて)ください。インテリジェンス(認識(にんしき))は言語(げんご)だけではないのです。視覚的(しかくてき)、数学的(すうがくてき)、音楽的(おんがくてき)、身体的(しんたいてき)と多元的(たげんてき)なのです。これをマルチ・インテリジェンスといい、いろいろなパターンがあるのです。
 
 同時(どうじ)に、先生(せんせい)は、自分(じぶん)をとりまく様々(さまざま)な資源(しげん)を理解(りかい)する必要(ひつよう)があります。
 教員組合(きょういんくみあい)、これは多く(おおく)の国(くに)で問題(もんだい)を起こして(おこして)います。創意工夫(そういくふう)を阻む(はばむ)原因(げんいん)にもなっています。学校組織(がっこうそしき)もそうです。PTAとの関係(かんけい)もあります。地域(ちいき)との関係(かんけい)もあります。こうした諸々(もろもろ)のことが、先生(せんせい)と生徒(せいと)の関係(かんけい)に大(だい)なり小(しょう)なり影響(えいきょう)を与えて(あたえて)いるのです。子(こ)どもの障害(しょうがい)だけに焦点(しょうてん)をあてていてもすまない場合(ばあい)もたくさんあるのではないでしょうか。
 
 先生(せんせい)が子(こ)どもの人権(じんけん)の問題(もんだい)を考える(かんがえる)ことも重要(じゅうよう)です。インクルージョンの障害(しょうがい)になることがたくさんあるからです。
 学校(がっこう)は、生徒(せいと)に学校(がっこう)に適応(てきおう)する義務(ぎむ)を求め(もとめ)ます。すると、生徒(せいと)がうまくいかないなら養護学校(ようごがっこう)に送る(おくる)ということを不思議(ふしぎ)に感じ(かんじ)なくなります。
 しかし本当(ほんとう)に必要(ひつよう)なことは、学校(がっこう)に適応(てきおう)する義務(ぎむ)を課す(かす)のではなく、適応(てきおう)する援助(えんじょ)を考え(かんがえ)、これを何度(なんど)も試して(ためして)みることなのです。
 もしあなたが200席(せき)ある小さな(ちいさな)映画館(えいがかん)のオーナーで、車椅子(くるまいす)の人(ひと)が来たら(きたら)どうしますか?200席(せき)あるけれど、車椅子(くるまいす)が入る(はいる)ところはありません。うしろに車椅子用(くるまいすよう)のスペースを数席(すうせき)用意(ようい)することは大変(たいへん)ですか?たしかに50台(だい)分(ぶん)の車椅子(くるまいす)のスペースを作って(つくって)と言われ(いわれ)たら、それは大変(たいへん)です。断る(ことわる)しかないかもしれません。しかし、数席(すうせき)ならできるはずです。
 同じ(おなじ)ことなのです。「この子(こ)どもとは、付き合う(つきあう)ことができない」という先生(せんせい)がいたら、子(こ)どもをどこかに追い(おい)やるのではなく、周囲(しゅうい)の協力(きょうりょく)を求め(もとめ)、付き合える(つきあえる)ような工夫(くふう)をすればいいのです。
 
 私(わたし)たちにとっての周囲(しゅうい)の協力(きょうりょく)とは、ソーシャルキャピタル(社会資本(しゃかいしほん))といいます。
 ソーシャルキャピタルとは、お互い(おたがい)に関わり(かかわり)(つむぎ)あってできあがっている一枚(いちまい)の布(ぬの)に似て(にて)います。それは、社会的(しゃかいてき)ネットワークによってできあがっているCOLLECTIVEVALUE、つまり多元的(たげんてき)な価値(かち)の集まり(あつまり)なのです。その価値群(かちぐん)とは何(なに)でしょうか。
 相互信頼(そうごしんらい)、相互支持性(そうごしじせい)、情報(じょうほう)、協力(きょうりょく)、共同行動(きょうどうこうどう)、より広い(ひろい)自己同一性(じこどういつせい)(BROADERIDENTITY)などです。
 
 みなさんは、ダイアモンドの粒(つぶ)が目(め)の前(まえ)に散らばって(ちらばって)いたら、ひとつひとつを丁寧(ていねい)に数える(かぞえる)でしょう。人(ひと)もひとり、ひとり丁寧(ていねい)に扱う(あつかう)べきなのです。
 
 みんなと同じ(おなじ)ように、障害児(しょうがいじ)はとくに社会資本(しゃかいしほん)が必要(ひつよう)なのです。
 障害児(しょうがいじ)はどこでそれを手(て)に入れたら(いれたら)よいのでしょう?子(こ)どもたちは、教室(きょうしつ)の中(なか)で、みんなと同じ(おなじ)地域(ちいき)の学校(がっこう)に通い(かよい)ながら社会資本(しゃかいしほん)を得て(えて)いくのです。そう、子(こ)どもたちの社会資本(しゃかいしほん)の獲得(かくとく)は、学校時代(がっこうじだい)からはじめるのです。インクルージョンは例外(れいがい)なくすべての子(こ)どもたちに届く(とどく)べきです。
 
 私(わたし)たちの大好き(だいすき)な子(こ)どもたち、すべてに届かなくて(とどかなくて)はなりません。そして、これを実現(じつげん)している学校(がっこう)は一流(いちりゅう)の学校(がっこう)といえるのです。
 私(わたし)は子(こ)どもたちが特別(とくべつ)のニーズのある子(こ)どもであることは否定(ひてい)しません。でもインクルーシヴ教育(きょういく)は、まず公教育(こうきょういく)で率先(そっせん)して試み(こころみ)、実現(じつげん)したいと思って(おもって)いるのです。
 
●私(わたし)を判断(はんだん)する人(ひと)は、私(わたし)を知らない(しらない)人(ひと)
ミア・ファラー(ダウン症(しょう)、レバノン)
ミア・ファラー氏(し)
 
 私(わたし)は、みなさんと同じ(おなじ)ように、学校(がっこう)で互い(たがい)に尊敬(そんけい)することを学習(がくしゅう)しました。
 アメリカの学校(がっこう)では、みんなと同じ(おなじ)学校(がっこう)に通い(かよい)ました。
 16歳(さい)でレバノンに戻り(もどり)ましたが、普通学校(ふつうがっこう)は私(わたし)の入学(にゅうがく)を認め(みとめ)ませんでした。
 すると、ともだちと映画(えいが)にいくことさえ、できなくなりました。
 私(わたし)が問題(もんだい)なの?違う(ちがう)。先生(せんせい)がわからないのが問題(もんだい)なのです。
 
 私(わたし)を見て(みて)、すぐに判断(はんだん)する人(ひと)は、私(わたし)をしらない人(ひと)です。
 障害(しょうがい)を見て(みて)、私(わたし)を見て(みて)いない人(ひと)なのです。
 
 ロー・マスト・インクルード・ミー
 (普通(ふつう)の人(ひと)に適用(てきよう)されるように)法律(ほうりつ)は、私(わたし)を含め(ふくめ)なさい!
 教育(きょういく)こそ、わたしの人生(じんせい)の土台(どだい)なのです。
 
インクルージョン(inclusion)の日本語訳について
◆本書では、インクルージョン inclusion(名詞)の日本語表記をあえて統一しませんでした。辞書には「包含」「包括」「算入」「包摂」「含有物」等と記されていますが、そのまま日本語表記を統一して訳してはどうにも文になりません。文章では「共生」「包み込む」「統合」あるいは「排除しない」という表記をいろいろすることにしました。
◆同様に、エクスクルージョン exclusion(名詞)の日本語訳も統一しませんでした。辞書には「(〜からの)除外」「排除」「追放」「排斥」「締め出し」「(細菌等を)防ぐこと」「考慮にいれないこと」等とあります。おもに「排除」「排斥」「社会的疎外(家族は受け入れているのに社会が受け入れてくれないニュアンスを込めて)」などを用いました。
◆蛇足ですが、「インクルージョン」という言葉は、知的障害者が「エクスクルージョン」されている状態を変えていく意味で反語として使われるようになったと思われ、知的障害者の歴史を物語る言葉と思われます。(武居)


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