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 次はやっぱり別府ですね。福岡県の県境の中津と、久留米とかに近い日田とかあるんですが、この熊本の阿蘇に近い竹田、それから宮崎の方の県境山あいの所は、本当に医療過疎が進んでいまして、ここら辺の方たちの所で難病医療に協力頂ける医療機関がとても少ない。実際難病になられ、この地域で暮らして行くというのがとても難しく、どちらにしても市、その地域の市の中心の医療機関に掛かって頂かざるを得ないというのが大分県の課題であります。
 
 次に事例です。この方は身体障害者療護施設に居られましたが、どうしても家で暮らしたいと言われたALS患者さんです。その方の支援を行った事があり、一昨年難病看護学会で発表して原稿があったのでそれをそのまま持ってきました。
 この方は平成15年8月ですからやがて3年。既に施設を出られて、在宅療養を継続で現在アパートで1人暮らし。当時62歳(女性)、現在64歳になられました。ご主人が病死され、お子さんも無く一人身。福岡に住んでらっしゃった実の弟さんとの交流だけがありましたので、この弟さんにずっと対処するときは関わって貰いました。
 
 
 疾患はALSですけれども発症して19年という非常に緩やかなタイプの方で、呼吸困難はありますが今のところ努力制の呼吸だけで対応可能、呼吸器は装着しなくても良いという状況です。手足は機能全廃の状態で生活全体の介助が必要になっています。会話もかなり困難になってきていまして、2年前に比べると今は本当に慣れた人じゃないと聞き取りにくい状況になってきています。嚥下障害もかなり進み、食べれるものが大分決まったものになってきました。吸引についても気管切開はしておられませんけれども、どうしても必要になってきていますので、それも工夫してなるべく自分一人でやろうとされるのですが、手足の動きも悪くなり、ヘルパーさん達に器械の操作をしてもらってカテーテルも持ってもらって自分の身体だけを持っていくということで、かろうじて吸引をしている人です。
 
 
 この方の在宅へ移行する時に面接相談という形で支援を行いました。取りあえずご本人自身が施設を出て自宅で暮らしたいんだ。という事をちゃんと話をして欲しいという事で、具体的には施設側にも唯一ご家族として関わって下さっている弟さんにもちゃんやって下さいねという事でまずお話をして、その後改めてお話をした時に、じゃあどんな暮らしがしたいのかという事をまずお聞きして、その中で支援する側として具体的に何が出来るのかという事で準備段階から関係機関の支援会議にご本人に参加してもらって、どういう支援が自分にはあるんだという事と、その中でどういうものを選択するかと情報の提供をして来ました。その時に気をつけていたことは、「どういう時でも何かを決めるのはご本人である。」という事です。それ以外に、例えば私のような者がその人に代わって相談を受ける、決定する事は無いというようにしました。支援してくれる方にもケアの事についても、やっぱり本人が色々決めていく事が重要でその事を皆さんに理解していただくようにしました。
 
 
 その後9ヶ月経っての発表なんですけれども、現在もあんまり変わりはありません。ご本人がヘルパーさん、訪問看護師さん、ボランティアさんらと相談して、患者会の活動とか、夫の墓参りとか、例えばボランティアさんと映画を見に行くとかいろんな事をするようになっておられます。ただ当初は公的なサービスだけではなく、生活全般を担うには家族的な部分がどうして必要ですので、それを誰が代行するかっていう事を決めておかないと、やっぱり本人自身もどうしたらいいか判らないという事でちょっと最初混乱がありました。そのことはこの期間は誰かがその事について代行しよういう事が明確にならないといけないなと思いました。それ以外にも生活全体の中で色々不具合が出てくるんですけれども、それらに支援者全員が関わっていこうという事の確認をしています。
 これが支援をした内容です。まずご本人が一人暮らしをしたいと言っても、退所すれば帰るところが無くなって困るという事で弟さんや施設側関係者の反対もあり、なんとか皆さんに理解していただかなくちゃいけないから、当初試験的な外泊から行きましょうという事になりました。その時には施設に入所したままでの外泊扱いでしたので、医療は往診という形で使いました。それ以外のサービスについてはちょっと高かったですけれども、自費による訪問介護とかデイサービスを受け、入浴介助や食事介助とかトイレ介助とかこれでやりました。それと大学の近くでしたので、そこの看護学生のボランティアさんをその時期からお願いして公的なサービス以外の人たちが入ってくれるという環境を作りました。1週間後、その1週間の暮らしの中での不具合だとかというのを調整する会議を1回開きまして、その時点で退所時期をどうするかという事になったのですが、弟さんがまだ不安があると言う事でこの時は見合わせています。
 
 
 3週間後、弟さんを通じて本人の好きなようにさせたいという事で退所をされました。それから公的なサービスを入れて、医療サービスの方も、訪問系の訪問介護だとか訪問リハビリ、訪問歯科診療、介護保険そういうサービスを入れて生活が始まっています。生活の中身としてはこの時からもそうですけれども、施設に居た時の時間帯と、それと本人の希望とに合わせ、だいたい朝7時位からケアに入って頂いて各食事の準備と片付け、夜就寝までという事で時間おきに来ていただく訪問で過ごしております。3ヶ月後、少し病状が安定してきて多分食欲が出てきたんだと思うんですけれども排泄介助がちょっと増えました。それでもう一つ訪問時間を増やしたらという事でそれ以降の変化は無いんですけれども、介護保険要介護5ですのでそれだけでは足りず、上乗せ分として支援費で身体介護が140時間、それと移動介護40時間使っています。
 その後、今年の5月に180時間に増やしてもらいました。というのは、ご本人の機能がかなり落ちましてヘルパーさん一人では移動介護、ポータブルへの移動とかちょっと難しくなってきたからです。本人一人でうまく支えられなくなっており、今二人体制になり始めていて180時間使っています。この人の場合どうして上手くいったかというのは、やはりご本人が明確にここで暮らしたいという事をちゃんと言って頂いたという事。もちろん経済的な裏づけもあるわけですけれども、関係機関も以前暮らしていた地域の方だったので、この人のご主人が暮らしておられた環境をご存知の人たちが複数居たということで、わりとスムーズに実現したと思います。こういう環境を整えるっていう事とか支援体制があるっていう事はご本人がやりたいと思うだけでは整わないので、とても必要だと思ってはいます。ただこの進行性の難病ですのでそれに合わせた支援体制を常に考えていかなくちゃいけません。だいたい3ヶ月に1回位のケア会議をケアマネージャーさんが開いてくれて、情報の共有をし支援体制の協力体制の強化を図っているということです。ちなみにもう2年くらいなりますが、この方21時半位で最終のヘルパーさん終わるので約9時間位一人で過ごすんですが、かろうじて足のつっぱりとかで少し身体が動かせるので寝返りとかの介助は要らないんですけれども、ヘルパーさんが1度忘れて来なかった事があり、緊急コールでトイレ介助がその時だけありました。緊急コールは訪問看護師さんにつながって、弟さんにつながって、近くの人が来て事なきを得ましたので、それ以外は大きなトラブルはなく過ごしています。
 先日のこと、若年性アルツハイマーの「明日の記憶」って言う映画がありますよね、あれを夜中見に行っていました。学生ボランティアさんと一緒に夜中帰ってきていました。だんだん活動範囲が広がってきている感じです。
 
 
 次に医療ネットワークなんですが、特に神経系の患者さんのご相談が多く、その中でも同じ病気の人と交流をしたいという方が結構おられ、私が県内の保健所とかで事業のご紹介をし、こういう相談窓口を持っていますという事で回りますと、そこで知り合った女性の患者さんから「北の方の地域にはあまり同じ病気の患者さんがいないんだ」と言われて、その方はインターネットをされるのでインターネットの掲示板の中で同じ病気の人と色んな話をして、とうとうその人たちとオフ会(パソコンをオフにして会う会)のために東京へ行かれたという話しがあり、大分でも患者会が欲しいと言うご希望があったんですね。それで大分市の保健婦さんとその話をしたところ、保健所側も難病の方たちの相談会をしたいと思っておられて、一時期患者会が欲しいと言う方たちがいらしたけれどもポシャった事があり、ではもう一回呼びかけてみようということになり、その方に体験談を話してもらって患者会を作りませんかって言う呼びかけもその人自身にやってもらいました。その後、大分市の相談会に見えていた同じ病気の方たちがその方と一緒に私の相談室に来られ、どうやって作っていこうかっていう話が始まりました。それが昨年の9月ですのでそれから寒い間はちょっと休止して年明けてからいよいよ結成大会をという話しになったんです。しかし沢山集まるといやいやお金も無いのにそんな事は出来んちゅう話になりまして、じゃあ出来る形でやろうという事で今月例会っていう形でやっています。それで毎月第2土曜日の2時から4時はここに誰かが来ているということでそこで情報交換や新しい人との交流をしながら会が結成出来たらいいなと言う話をしています。今はインターネットでちゃんと皆さんメールが出来ますので、メーリングリストも立ち上げ情報交換とか次の会議の議題とかそんな事もすでに話し合われています。
 もう一つ多発性硬化症の女性の方ですが、この方も主治医からここに相談員がいるからって、会が作りたいとおっしゃったらしくって僕じゃだめだからここの相談員のところに行くようにと言われたらしいんですね。で来て下さって、伺ったら愛知県かなんかでMSの会に入ってらして、とても良かったので大分県でもそういう患者さんと交流がしたいとおっしゃって、でも私だけではなかなか難しいので保健所に協力してもらっています。で5月に一回集まりを持ちました。まだまだ人数が少ないので県全体に呼びかけられるようなチラシを作り、保健所を通じて広げて行こうというようにしています。また今月に入って、今度は重症筋無力症の患者さんからやっぱりご相談があって、友の会があると思い入ろうとしましたら大分県には無いと聞いたので、もう自分たちで作るしかないかなぁとご相談があって、こちらも到底私一人では難しいのでまたこれも保健所の方にご相談に行って、患者さんに呼びかけ文を書いてもらい、丁度特定疾患の更新時期に入りますのでその時期にチラシを配ってもらったりして交流会が持てる準備をしています。で保健所はその外にこのような人たちの動きを支援するために難病相談会・交流会の計画がなされているようです。
 
 
 これが今の私の職場です。産婦人科だった病棟が閉鎖になり去年の6月からお借りしています。処置室だったのでこんなふうにつながっているんです。それで廊下から見ると部屋が2つあるみたいに感じで、「あんた2つも持っているんやな。」と言われるんですけど入ると一つなんですね。でこちらで皆さんに集まっていただいて5〜6人位だったらここでゆっくりお話をして会の事など話してもらっています。だから談話室って付けてますけど、残念ながら北なので日が入りません。だから植物は観葉植物ぐらいしか育ちません。
 
 
 これが先程お話した脊髄小脳変性症の方々。去年9月に保健所で呼びかけた時の何人かで、この方が東京まで行き自分の病気に対しても積極的に受け止めて遺伝子検査も受けるし、これからどうやっていこうかっていう事をいつも考えている人です。こちらの方は高齢の方、こちらは30代の若い方、車椅子の方などでこういった方々が集まったのが最初でした。ところが段々増えてきて、それと県立病院の中に事務所があるもんですから、そこにかかってない患者さんは参加しにくいっていう事と、県立病院は駐車場代がかかりますので、やっぱりお金がかかるって言って出て行かれました。
 これは今年から月例会で、保健所の中に会議に使える部屋があって患者さんやご家族10組くらいが集まってこういう形で始まりました。今月は地元紙の新聞の取材を受けようかという計画をしているようです。ですから最初小さいときには私のような所を使って頂けるんですが、大きくなってくるとやっぱり違う場所が欲しくなるし、私の所も事務所の一角に机だけだったのが、ああいう場所をお借りできたので皆さんも寄って来てくれたという事です。
 
 相談支援センター的な事って行くには場所、環境そういうものも必要かなと思うのです。病院が良くないとは言いませんが、相談支援というのは皆さんからお聞きしていると生活全般の事なので、医療とは切り離せない部分をお持ちだけれどもそれだけではないから、そういうのも必要かなと感じているところです。
 今日、私がお話したのは大分県の難病に関わることなので、これが大分県の全部ではないというふうに思って下さい。
 また大分県には難病相談支援センターはありませんが、NPOの難連さんがありますので、この関係から今後出来るかなどうだろうかなというところです。
 今日は県の担当者が来ておられるので聞いて見ましょう。
 
 大分県から来ました佐藤と申します。現在、支援相談センターの件検討中で、まだ財政課と正式協議に入っておりませんが、来年度設立を目指して今後検討をして参りたいということです。
 それとNPO法人の難病患者団体連絡協議会というのがございます。こちらに電話相談委託事業を委託しておりまして、難病患者における難病の患者さんにおける電話相談を互いに手を取りながらやっておるところでございます。


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