7.「教師が変われば子供は変わる」講演録
講師:原田隆史
師範塾教育フォーラム 第一部 講演
「教師が変われば子供は変わる」
株式会社原田総合教育研究所所長・天理大学非常勤講師
原田 隆史先生
皆さんこんにちは、大阪から来ました原田と申します。今日は高校の野球部の学生さんも来られているという事ですので、その方達にも役立つ話をしようと思います。
まず「長期目標設定用紙」についてですが、これは生徒が実際に使用したものです。私は陸上競技というスポーツを通じて子供の教育をしました。子供達の夢はやはり「日本一」で、それを具体的な目標に変えるためには毎日フラフラしているのでは手に入りませんから我々教師はその生徒達に対してどのようなアプローチをすればよいのかという事になります。私は公立中学校で教師をやっていたのですが新採当初はたくさんの事を教えようとしていました。『巨人の星』の時代の人間ですので教育というものは厳しくたくさん落とし込んだら絶対に何とかなると思っていました。ところが大阪市内百二十校の中では一番にはなってもそれから先には行けない、目指すは全国大会、夢の日本一に子供達を近づけてやりたいと思ったのです。そして「主体変容」、自らを変えていくきっかけを教師が与えていこうという結論に達しノウハウ論指導はやめて気付かせるという教育にしたのです。二十年間の試行錯誤の中で何を気付かせればよいのかを、この設定用紙に落とし込んだという事なのです。生徒は用紙を記入していく中で自分に気付き、それを目標に変えて自分の成功へのシナリオ、ストーリーを描いて後はそれを脇目も振らずに全力投球するという教育をしました。私の話のテーマは自分で夢を描いて目標に変えて手に入れる事が出来る人、すなわち「自立型人間」です。それを家庭教育、学校教育、社会人教育という三つの教育の中で施してやればこれからの日本という国を背負って立つ若者が出来るのではないかという決意の下に教育を進めたという事なのです。教育の原点となる用紙ですので後ほど詳しくお話させて頂きたいと思います。
私はいわゆる普通の教師ではなくて生活指導のリーダーもやりました。生活指導とはいじめ、不登校、少年非行や犯罪といったものを三年間でゼロにしろというものでそれぞれの生徒に夢や目標を描かせて自立しなさいという事です。中学を卒業してから就職する子もいますが職安、今でいうハローワークに生徒を連れて行って会社の社長さんと面談させてその生徒に合った仕事を選ばせるという事もやりました。中卒で仕事に就く子はまじめに一生懸命やらない場合が多いので四月になると毎朝、迎えに行って手取り足取り準備を手伝って職場へ連れて行って会社の皆さんにお願いをして職場を見学させてもらう事もしました。ところが退職する子もいて、そうなると次からその会社から採用されなくなりますので親に代わって頭を下げに行った事もあります。企業の方々から「若者が育っていない、どんな教育をやっているのだ」「今の若い奴は挨拶が出来ない」「電話の応対が下手」「時間を守らない」「叱ったらすぐに辞める」という声も多く、しっかり指導しろと怒られました。そこで社長さん方に「どんな人間に育てたら採用してくれますか」とお尋ねするとたった一つ、「自立させて来て」という答えでした。教師も企業もそれを目指して教育している、それなら提携しようという事で家庭教育と学校教育、社会人教育が方向性を一つにして「自立型人間の育成」という事でやらなければならないと現場の大人との対話で得た結論だったのです。多い時には六百人の生徒を生徒指導主事として自立させる仕事をしてきました。子供達にはよく「仕事とは何か分かっているか」と問うのですが私は仕事とは「自分の長所、強みを見出してその事で自分と他人をプラスにするものだから好きで強みがあって喜べないものは選んではいけない」と考えています。私は教師になりましたが強みは「スポーツ教育」です。陸上というスポーツを通じて若者を自立させようというのが最大の長所ですから、それを中心に教育しました。子供が非常にがんばったので優勝十三回という結果になりましたが他の学校と違うのは「子供が勝手に優勝した」という点です。生活指導で忙しくて練習は見られないし試合の時も行けない事が多くて子供達がどんな風に戦うのか見られませんが、そんな中で自立型人間を育てたのです。
それから企業教育、海外での教育にも力を入れています。中国、韓国、台湾で出版した本が売れていまして昨年度、上海と大連で大学生を対象にした講演を行いました。私は大阪弁でギャグが持ち味ですので通訳を介したら話が鈍るのでワガママに「大阪弁の日本語が分かる人対象」とお願いしたのですが驚いた事に六百人もの人が集まって下さいました。私の中国に対するイメージは共産党、ラストエンペラーの世界でしたから変な事をしゃべったら拘留されて日本に帰れないかも知れないと親と水杯を交わして命がけで講演に向かいました。しかし壇上に上がるなりあちこちからカメラ付き携帯電話で写真を撮られ服装もユニクロ、態度は悪くて会場の出入り自由でしたし日本の学生と変わりない姿がありました。中国は一人っ子政策ですので少子化どころではなく両親とそれぞれの祖父母という六人の大人が思いきりお金を使って一人の人間を育てています。日本は今、格差社会でお金がなかったら子供が教育出来ないと言われていますが嘘です。中国はお金を使い過ぎて一人の人間を育てた結果、過保護になって自立出来ていないので「自立型人間」の教育を勉強するために私が呼ばれたのです。アインシュタインは「いつかは日本の時代が来る」と言ったそうですが私も日本という国がこのアジアを含めて世界に発信する事、それは教育だろうと思っていますので、その夢の中で海外教育もやっています。
私は教師養成塾というものも開催しています。色々な教育問題の中で教師は文句を言われ私もテレビなどに出ますので教育も知らない人間から言われると腹が立ちますが、天理大学で教師を目指す若者の教育だけを行っています。教育実習へ行く生徒に「腹が立っても手を出すな、何かあったら現場に行ってやるから連絡して来いよ」と送り出すのですが生徒は皆、うなだれて帰ってきて絶対に教師にはならないと言い出す子もいます。私の時代には死んでも教師になってやるとがんばったものですが今の若者はかわいそうです。四年間、勉強して実習に行ったらもう教師にはならないと言う、実習させずにそのまま騙してやった方が良かったかなと思います。あまりにも教育に関して周囲がうるさく言うので本当にがんばってやろうという人がいなくなるのです。教育を良くするには二つの方法があると思います。一つは目の前の教職に就いている人を教育して一緒に成長していく方法、もう一つは優秀な人材、人間力の高い魅力ある若者を教育業界の中に引っ張ってきてデビューさせる方法です。人材確保をして人材教育、人材維持をしていく事が必要だと思いますが現状は人材確保と言う意味では上手くいっていないのではないでしょうか。そこで関西、関東を中心に大学へ赴いて、いいと感じた生徒を「確保」して教師養成塾で英才教育を施すのです。そこを巣立った若者が現場の教師として活躍し始めて三年目というところになります。
「自立型人間」とは何かという結論はハッキリしています。私は大阪、京都、東京で教師塾も開催しているのですが、そこでは千四十七名の先生方が学んでおられます。その先生方と現場の実践の中でどのような教育、どのような若者にしたらよいかという試行錯誤の結果、三か条を発見しました。一番目は「夢を持っているか」、人の夢を馬鹿にしたり「どうせ自分は」と言ったりする人間にろくな奴はいないと思うのです。ただし夢だけでは駄目ですからそれを目標に変えなければなりません。その仕組みが長期目標設定用紙でこれを基に夢を目標に変えさせます。具体的な目標をしっかりと考えさせた上で最後までやり失敗しても人のせいにしない、つまり不平不満や愚痴は止めるという事です。二番目は「心のコップを上向きに」、皆さんのように私の話を一生懸命に頷きながらメモを取って聞いて下さる方は「真面目、素直、一生懸命」で「心のコップが上を向いている人」と私は言っています。それに対して心のコップが塞がっている人は「不真面目、消極的、どうでもいい」、そんな人には私達のノウハウは注げないのです。三番目は「心・技・体・生活」のバランスがとれているかです。野球部の生徒さんは教育を受けていると思いますが心と体と技のバランスだけでは超一流の選手にはなれないのです。学校生活と家庭生活、勉強とクラブ活動、会社と私生活という目の前の心技体とその裏にある生活のバランスが取れなかったら人間というものは健康や命を失う可能性があるのです。色々な人を見た中でこの内、一つでも欠けているものがあれば指導をします。三つとも出来ている人は長い目で見た時に結果を出すというのが教育の結論です。
自立型人間の育成に辿り着いた原点は二十年間で三つの学校を回った事でした。大阪の荒れた学校というのは恐らく福岡におられる皆さんには想像がつかないと思います。私は二十年の教師生活の中で三名の命を失っていますので教育とは言えどもぼんやりしていては人が殺され殺してしまうのだと身をもって経験してきましたので日本の教育の中で最前線におられる先生方は本当に大変なのだと理解しています。またその辺のところを見て頂いてがんばっている先生を応援してあげて下さい。私が携わった三校はいずれも荒れていたのですが私は変態的なところがあって荒れている学校が嫌いだった訳ではありませんでした。また、私の父は特攻隊の生き残りで警察官でもありましたので常に励ましてもらいました。
最後に赴任したのは有名な通天閣の界隈にある学校でした。まず驚いたのは学校の裏手の公園にはブルーシートが張ってあってホームレスが暮らしていました。それから校区には盆地のようにくぼんだ地域があって昼間なのにキラキラとネオンがまぶしく輝く賑やかな売春街がありました。経営をしていたのは生徒のお父さんお母さん、それで生計を立てていたのです。夏休み前の保護者懇談会になると若い女の先生が「先生、ヤクザが来た!」と走ってきました。刺青を入れたコワモテの人達、職業はヤクザですが親には違いないので学校に来る訳です。何故か子分に席を確保させる、ミッション系の学校を出た女の先生はヤクザが来る訳ですから怖いのは当たり前でした。私が就任した当初も子供達は暴力的でポケットからナイフが出てきたり教師が殴られたりするというような事をたくさん経験しました。しかし私はネアカ人間でしたから厳しい状況だけれどがんばろう、二校の学校を建て直して少し天狗にもなっていてプライドもありましたので鮮烈なデビューを飾りました。「日本一の学校にする」と宣言したのですが回りは何の反応もしない、生徒会を集めて同じ話をしたのですが生徒達は「先生、どうせ無理」と言いました。考えてみると夢がない、自信がない、誇りがないという状況があり確かに生活保護を受けている厳しい家庭もありましたが、お金がないというのはあまり関係ありませんでした。確かにお金も大切ですがそれよりも大事なものは夢、自信、プライドや誇りがなくなるという事で、いくらお金があっても教育が出来ないと肌で感じたのです。今までの学校は違う、荒んでいると感じて色々な事をやったのですがなかなか上手くいきませんでした。
きついなと思った時にいつも助けてくれたのは大学時代の恩師でした。その先生は現在、関東の大学で教授職に就いておられますが曹洞宗の僧籍のある方で不思議な事に私がピンチになると必ず呼び出しがありました。何故、困っているのが分かるのか尋ねると「自分はあの世と繋がっている」と言われ私が志願して荒れた学校に赴任したと言うと泣いて褒めて下さいました。当時、三十六歳でしたがそんな私のために泣いてくれた、とても嬉しい事でした。師匠がいれば乗り越えられる、メンターと言いますが皆さんも是非そういう人をお持ちになるといいと思います。先生は「原田、世の中はプラスマイナス五十対五十だ。長所が七十、短所が三十なんて嘘、全て五十だ。目の前にきつい事があったらそれと同じくらいプラスの事があるからそれを見て教育をしろ」とおっしゃいました。私は帰りの新幹線で背筋が伸びてやる気が高まる自分を感じました。そして子供達に「人情、感情、エネルギーの塊」というプラス面を見出す事が出来ました。膝を突き合わせて教育をしたら子供達はついて来てくれたのです。金髪で耳はピアスの穴だらけの女の子はタバコを吸いながら紫の制服でモンペを履いて通学していました。私が突然、「お前、家に金が無いやろう。高校に行かれないと思っているけれど本当は行きたいやろう」と言うと放っといてくれ、と言われましたが陸上競技で強くなったら奨学金で私立高校に通える話をすると半信半疑になりましたので前の学校の卒業生を呼んできて話をさせました。陸上でがんばれば大学も無料でいける、それから就職も世話してやると話すとその子は家から出来るだけ遠くへ行きたいと答えました。覚せい剤をやっていたお父さんが大阪、お母さんは広島で塀の中にいて指の無い若頭に育てられているような家庭の事情があったからです。私はその条件として「自立しろ」と言いました。髪を黒に戻し、ピアスも外し制服やその他の身なりを整えさせました。そしてクラスに「こいつは陸上でがんばって高校に行くと決心したからお前らも手伝ってやれよ」と戻し、そんな風にして生徒を集めました。それまでの陸上指導はアマチュアでしたが最後の学校での七年間はプロ、絶対に結果を出さなくては駄目だとやりました。子供達に夢や自信を与える、この地域から日本一を出すためです。子供達はお金がある家庭の子は私学に流れていて公立の学校にはこない、だから自分達はお金が無くて勉強が出来ないから駄目なのだと誰も教えていないのに劣等感を感じていて、それが暴力という形に現れていました。子供が一番辛いのはお金の事と親の職業で子供には責任の無い事なのに中学の入学式という晴れの舞台で烙印を押されるのですからかわいそうに思って泣いた事もありました。それから「夢、自信、誇り」を掲げて子供達の「人情、感情、エネルギー」に触れて得意の陸上でやる、そして学校日本一を目指し荒れた学校がいい学校に変わって新聞に載ろう、全国から教師を見学に来させよう、私立に行った奴らを見返してやろうと始めました。陸上は一年で日本一は無理ですので中学二、三年生の全国大会で日本一を目指しそれが地域の夢、お前らの夢としました。生徒達はかわいいもので私が熱を出して面会謝絶で入院をしても顔を見るまでは帰りませんでした。出張先でインフルエンザになった時も授業を抜け出して学校の裏手にある神社でお百度参りをしていました。水ごりをした生徒もいてそんな事をされれば、なまくらな私でもスイッチが入って死ぬ気で教育してあげなければと思いました。家に帰って両親にその話をすると二人とも大泣きしてくれました。
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