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上原 裕之(うえはら ひろゆき)
(昭36.11.2生)大阪府四條畷市
 
 ホルムアルデヒドを初めとする有害化学物質の住建材への使用による人体への被害をなくし、安全な住環境を確保するための法改正実現に貢献し、政・官・学・業の各界に呼びかけて有効なシックハウス対策実現に努力している。
推薦者:上原 まゆみ
 
Mr. Hiroyuki Uehara (born November 2, 1961) Shijonawate City, Osaka Prefecture
 
 Mr. Uehara has helped eliminate damage to human bodies caused by use of formaldehyde and other hazardous chemicals in home building materials, and he has contributed to the revision of laws to ensure safe living environments. He is also working to realize effective measures against the so-called "sick house syndrome" by calling on government, academia, and industry.
Recommended by: Ms. Mayumi Uehara
 
 1993年12月、歯科医師の上原さんが自宅兼診療所を新築して入居したところ、家族、従業員に目が沁みる、気分が悪くなるという症状が出た。症状は翌年の春から夏にかけて更に酷くなった。方々に問い合わせて調べた結果、建材の合板に使われているホルムアルデヒドが原因であること、1970年に東京都で食器棚から発ガンの可能性の高いといわれるホルムアルデヒドが大量に検出されて、業界団体は自主規制を求められたが事態は変わらず、80年に将来的にホルムアルデヒドの使用を止めることにはなっていることを知った。94年9月、自宅兼診療所の測定を行い、工場なら労働基準監督署の改善命令が出る0.5PPmとほぼ等しい0.49PPmの測定値を得た。そこで上原さんは問題を関係官庁に訴えたが相手にされず、医療団体や消費者団体への呼びかけにも反応は無かった。しかし上原さんは諦めなかった。ホルムアルデヒドをはじめ室内建材に使われた有害科学物質に起因する様々な症状を「シックハウス症候群」と名付け、94年「シックハウスを考える会」を設立して問題と徹底的に取り組むことにした。
 
 「考える会」は、医師会・大学・建築団体と連携して日本初の疫学調査を実施し、関係省庁・企業の技術者との積極的な意見交換や研究を重ね、2003年に建築基準法の改正によるホルムアルデヒド規制につなげた。しかし、それで問題が解決した訳ではなく、訴訟は減らず、シックスクール、化学物質過敏症などの問題は依然頻発している。上原さんは、関係官庁、日本医師会、国会議員等に呼びかけ、国民の声を政策に反映させるべく努力を重ねてきた。問題を議員に理解してもらうため勉強会も開いた。日本医師会と日本建築学会や業界団体と関係省庁で国民が合意可能な研究をまず行い、そこから有効な住環境を提案することで安易な規制によらない安全な住宅市場が生まれると上原さんは考えている。医師の本業を週1日休み、週末も拘束されている。「考える会」の会員は700名に達し、ホームページヘのアクセスは56万件を超えた。
 
 
受賞の言葉
 13年前の今頃私は迷っていました。日本中の建物が発ガンの可能性の高い化学物質に汚染されている事実を知って当時の行政や識者の様に「見て見ぬふりをすべきか?」「私1人で何ができるのか?」と。
 しかし、医師法第一条の総則を見て、結果はどうであれ取り組む義務があると信じて今日まで来ました。その間、政財、官学の勝海舟の様な皆さまに教えを請い、叱咤激励を受けながら、今の日本の社会病理も見えてまいりました。私をお選びいただいた皆様の期待に応えるべく「志の輪」を広げてまいります。有難うございました。
 
 
「シックハウスを考える会」展示場兼事務所
 
コルクの展示(事務所)
 
建設現場
 
知事との面談
 
西崎 春吉(にしざき はるきち)
(昭2.3.3生)北海道函館市
 
 映写機、スクリーンなどの道具一式をワゴン車に乗せ、北海道函館市を中心に映画館のない町をまわり公民館などを利用して映画を見せる「移動映画館」の活動を38年にわたり続けている。
推薦者:八木 繁
 
Mr. Harukichi Nishizaki (born March 3, 1927) Hakodate City, Hokkaido
 
 Mr. Nishizaki has operated a "traveling cinema" for 38 years. After loading a projector, screen, and other equipment into a van, he travels to towns within 4-hour drive from Hakodate City that do not have cinemas to show movies in public halls, etc.
Recommended by: Mr. Shigeru Yagi
 
 西崎さんは、日活のオーディションに合格し俳優を目指していたが、同社の経営悪化で1959年に函館の映画館の宣伝係に転じた。西崎さんは朝から晩まで映画のことを考えていられるのがとにかく嬉しいという程の映画好きで、2003年に亡くなった妻芳子さんとの出会いもこの映画館だった。
 函館やその周辺の町で多くの映画館がバタバタと閉鎖されはじめた頃、「バスや列車を何時間も乗り継いで映画を見に行く時代になってしまうのだろうか」と2人で毎日心配していた。1967年、紙芝居からのヒントで思いついた「移動映画館」を夫婦で始めた。借金をして中古の映写機を購入し、使い方を映写技師に教わり、「いどーえいが」と手書きした看板を車に取り付け、機材を積み込み、函館から片道4時間ぐらいで出かけられる映画館の無い町ならどこへでも行った。
 月に15日ぐらいの上映が精一杯のところを採算悪化から無理して25日に増やした。夫婦2人で、公民館や公共ホールの会場手配、映画会社からフィルムを借り、ポスターづくりやチラシ配り、宣伝、会場設営、入場料の集金まで全てをこなした。宣伝は上映日の1週間前から行う。ポスターを貼らせてもらい、子ども達にチラシを配る。終わると次の町でのチラシ配り。上映当日は芳子さんが椅子を並べ、ゴザを敷きスクリーンを張っている間に西崎さんが映写機を組みたてた。
 現在はこれらすべてを西崎さん一人でこなさなければならない。しかし、子ども達が「おばさんがいなくて大変だから」と進んで椅子の出し入れをしてくれる。上映はアニメが中心で、どの会場でも客は多くて数十人。子どもの数もぐんと減り、2、3人相手に上映することもある。人からは、「もうからないのにバカではないか」と言われるが、上映中の子供達の真剣に映画に見入る様子を映写機の後ろから見ていると「やめたい」と言う気持ちも消える。映画ならではの大迫力、感動の一体感を子ども達に感じてもらいたいと今日も活動を続けている。西崎さんは「みんなの喜ぶ顔が見たい。赤字続きでも楽しみにしている子が一人でもいる限り死ぬまでやめるつもりはない」と語っている。
 
 
受賞の言葉
 この度は、思いがけずこのような素晴らしい賞をいただきありがとうございます。
 映画が好きで日々続けてきましたが、いつしか40年近くの時が過ぎていました。
 食い入るようにスクリーンを見つめる子供たちの顔を見るたび「この仕事を続けて来てよかった」と思っています。
 命ある限りこの仕事を続け、私が街に来るのを心待ちにしてくれる人たちに、これからも感動を届け続けたいと決意を新たにしているところでございます。
 
移動映画機材を乗せる自家用ワゴン車
 
会場で映写機の組み立て
 
移動映画会のポスター
 
映写機の調整


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