根室と釧路の空襲
根室の空襲は昭和二十年、お盆月。七月の十四、十五日でした。でも、僕はそのとき学生ですから町にいなかったんです。勤労奉仕で歩き回っていたから。あちこち歩かされましたからね。空襲の時は厚岸(あっけし)にいました。天気のいい日でしたよ。
僕は水産学校の出身なんですよ。北海道に三つ水産学校がありまして、厚岸にもあったので、そこにいたんです。勤労奉仕から一時学校に戻ったときに、機銃掃射(きじゅうそうしゃ)に出くわしましたね。
厚岸の町は海岸通りの橋を渡ってからが住宅街でしてね。朝早くね、下宿先のおばさんの子供と僕と三人で朝ご飯を食べていた。朝ご飯を食べていると、飛行機の音がする。飛び出してみたら、向かいの厚岸湾の上空に飛行機が飛んでいる。ああ、日本の飛行機が根室のほうに行くんだなと思って手を振っていた。
またご飯を食べていたら、機銃の音がするんですよ。バババババーッと。外に飛び出てみると、向かってくるんですよ僕のほうへ。一瞬操縦士のマフラーまで見えました。超低空で、電柱すれすれ。十メートルほどしかなかったように感じましたね。艦載機が飛んできて、こちらが無抵抗だから、町の道路に沿って機銃掃射しているんですね。後日、家の裏で機銃弾を発見しました。
学校の校舎の離れたところに、御供山(おそなえやま)という小高い山があって、そこの根元に洞窟を掘ってあったんですよ。僕らは一時期そこに避難したんですけれどもね。それから、釧路で空襲始まったんです。
御供山から離れた厚岸湾口と湾外の大黒島(だいこくしま)に要塞があって、そこから高射砲を撃つんですけどね、届かないんですよ。山から釧路の方を見ると、青空の雲の切れ間から、きらきらーっと飛行機が急降下し、釧路の町を爆撃しているのが見えるんです。
根室には終戦の前、空襲の一週間ぐらい後に戻っているんです。学校から許可をもらって。
焼け跡にごっそり灰が残っているだけですよ。緑町の叔母の家も。今でも記憶に残っているんですけれども、机に置いてあったインクスタンドが飴細工みたいに溶けて、青も赤も一緒になって固まりになっていたのを見ました。あとは全部灰です。
緑町通り
それから、ちょうど玄関のあったところに、子供時代に履いたスケート――長靴の上から履いて皮バンドで詰めるスケートなんですけれど、それが焼けて、そのまま真っ赤になっていました。それからスキーの金具も焼けて。あとは、食器の瀬戸物が、そっくりそのまま残ってるんですよ。昔は柳行李(やなぎごうり)*っていっていうのがあって、それが縦の目に、そっくりそのまま編み目が灰になって残っていた。情けないと思ったですね。
叔母がどこに行っているかわかんないですよ。そうしたら、ちょうど焼け残ったところに父の一番下の妹が嫁いでまして、そこを頼っていったんですよ。そこで二日くらい過ごして、それで学校に戻りました。
兵役を志願し、「戦車」を受ける
終戦の日は勤労動員*で釧路(くしろ)にいました。防空壕を掘っていましたね。昼近くなってから、大事な放送があるから作業を止めてラジオの前に集まれということで集まって。十五、六人の班全員が網元(あみもと)*の家でラジオを聴きました。放送が始まりましたが、聴いても何をしゃべっているのか雑音だらけでわからない。だから、負けたと知ったのは後になってからなんです。勝つと思っていたから、負けたといわれてもピンと来ない。
戦うことだけしか考えていませんし、兵役志願(へいえきしがん)*の検査を受けて合格していて、いつ召集がくるかわからないというところでやっていたわけですから。
僕は志願で戦車を受けたんです。受けなきゃ恥、意気地(いくじ)がないと。僕らが志願したのは特別幹部生っていって、下士官養成の(課程が)ができたんです。それを受けたんですよ。
僕には招集が来ませんでしたが、航空には来ましたね。一緒に受けた小関や西村には来ましたね。
当時は、いろんな噂が飛びましたよ。(負けたら)男性は去勢(きょせい)されるとか、女性は暴行されるとか。鬼畜米英(きちくべいえい)*と敵視していたから、かなり残酷なことになるんでないかと、皆そういう意識を持っていた。だから絶対負けられないんだと。だから勝つことしか頭になかったですね。戦地に行って勝つんだという思いでいるわけですから。志願が普通だと思って志願するわけです。
戦争が終えても、実習、作業は継続しましたよ。焼け野原になった釧路の繁華街の焼け跡の整理ですよ。島のことは何もわかりません。ソ連軍が入って来るなんて、考えてもいないし。アメリカと戦っているわけですから。
終戦の翌年、昭和二十一年春で卒業したんですけれども、島へ帰れないんですよ。島は占領されていますから。釧路から厚岸の水産学校に戻って、根室には卒業までは帰りませんでしたね。焼けて帰る家がないわけですから。
志発の島民にも、「島民に告ぐ」というのが道庁の出先である支庁長名で出まして、島を離れてもしょうがないから、できるだけ島に残るようにというというわけですね。だから、指導的な立場にあった者たちは残りましたね。
家族、うちの一族全部が残りました。うちが残るんだからって、残った人もいるんです。だけど、ほとんどの人は脱出していますね。
引き揚げには第一次と第二次がありまして、昭和二十二年の十一月か十二月の第一次のときに、父母と父の弟夫婦、私の弟、叔父の子供たちは雪降るなか引き揚げ(ひきあげ)てきました。樺太(からふと)周りで函館へ上陸。苦労したそうです、話を聴くと。引き揚げてきても住むところがないわけですから、うちの父母、弟が焼け残った一番下の妹に世話になりました。
(二年ぶりに会った時は)交わす言葉もないですね。ソ連占領下の島の生活という実感は僕はないわけですが、いろいろな話をきくと、大変な苦労だったなと。
僕の友人の兄弟は、ソ連の目がとどかないように、時化(しけ)の日とか、暗闇の日とかにこっそりと脱出しています。途中、時化に遭遇して根室の港の沖に来たところで船が転覆して全滅したり。そういう脱出の人たちの苦労があったんです。引き揚げ者は引き揚げ者で苦労しています。
根室港
柳行李
柳で編んだ箱形の物入れ。旅行の際に荷物を運搬するのに用いる他、衣類の保管などに使用する。
勤労動員
学徒動員と同義。太平洋戦争期、国内の労働力不足を補うために学生・生徒を工場などで強制的に労働させたこと。昭和一三(一九三八)年の勤労奉仕以降、動員体制が強化され、一九年には通年動員となった。
網元
漁網、漁船などを所有し、漁師を雇って漁業を営む者。
兵役志願
通常は二十歳になった時に徴兵検査を受け、兵役に就くが、十七歳から志願することができた。
鬼畜米英
戦争中、敵対するアメリカやイギリスに向けた戦意高揚を図るために、政府が考案したとされるスローガン。
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