安藤石典(あんどういしすけ)町長による北方領土返還運動に参画
焼け野原の根室の町で、学校を卒業して、就職も決まっていない時期、親父の縁があって、漁協(ぎょきょう)に行くようになったんですね。そのうち島の家族と連絡もつくようになるだろうから、それまで組合の事務でも手伝いなさいよと幹部の人に言われて、何となく手伝いかたがたみたいな気持ちで行ってたんです。
昭和二十一年の七月に、根室町長の安藤石典(あんどういしすけ)*さんが、返還運動の組織をつくったんですよ。その事務局を歯舞(はぼまい)漁業組合の根室事務所に置くと。そして、僕がその事務を手伝いなさいということになって、安藤石典さんの返還運動のお手伝いをする縁ができた。それからずっと返還運動に携わってきたんです。
安藤石典
僕もまだそのとき十八歳の若僧でしたからね。(安藤さんの印象は)何ていうか、いかめしい感じの人でしたね。でも、非常に心配り(こころくばり)のあるひとでした。町長さんと直(じか)にお話しするなんて、僕は初めてですし、もともとあまり物怖じ(ものおじ)しないほうで図々しかったのかもしれませんけれども、安藤さんにかわいがられましてね。
いつも町長室に呼ばれるんですよ。電話直通で。用事があると、すぐにいらっしゃいと。
安藤さんは二十年の十二月にマッカーサーに陳情書*を出しているんですが、そこの経緯は僕もよくわからないです。組織ができて、組合に事務局が置かれた時点からの活動の中身というのは、僕の記録に残してありますが。
北海道附属島嶼復帰懇請委員会(ほっかいどうふぞくとうしょふっきこんせいいいんかい)*――これが原点なんですよ。この運動を立ち上げに尽力されたのは、歯舞の漁業会の竹村会長、田村専務、根室漁業会の川端会長、歯舞村高薄(たかすすき)村長、関係有志として河野さん、山本さん、富山さん。それから島に縁があった方々が発起されて、という記憶がありますけれどもね。
ソ連に占領されるなんて念頭にないですから、マッカーサーが進駐した段階で、本土と同じように北方の島々四つもソ連軍の占領を解除して、米軍の保障占領下に置いてくれと陳情したんですね。まずそこから始めたんですね。返せという表現ではなく。
占領政策に注文をつけたわけですから、今考えると、たいへんなことだったと思うんです。無条件降伏している立場でですよ。今考えてみても、これはただごとじゃないと。一地方住民が命がけの仕事です。これは直訴(じきそ)だって。自分の命を投げてやるんだと。
それから、次の第二号として、八月二日に、安藤町長以下、五人が焼け野原の東京に出かけているんです。直々(じきじき)マッカーサーのお膝元に出向いたわけですよ。
記録が残っています。用意したのが東京の築地(つきじ)の高野屋という旅館で、食料は内地(ないち)で補給証明書。それから食べる魚として鮭二箱。それから二等車*(切符)購入。旅費五人分、一人二千円ですよ。外食券十食分ほか――僕は行きませんでしたが準備しました。
安藤町長は公職追放*されたんですよ、戦犯(せんぱん)だとして。それでも怯まない(ひるまない)ですよ。毎年陳情にいっていますから。事務的なことしか手伝いできませんからね。だから、記録だけは残していこうと。
とにかく、四つの島あっての根室です。根室が焼け野原になり、島で生き残る根室の復興の元になる島を盗られては、死(し)に体(たい)です。
いろんな意見の出る時代になって、二島でもいいとかね、面積で分けようとか、共同管理しようとかこんな話になってきたんですがね、とにかく四つの島だ、妥協しちゃだめだと――安藤さんの言葉は英語にも訳されていて、マッカーサー記念館に保管されています。
だから昭和三十年に、日ソ共同宣言が出るときも、緊急役員会開いて、「二島なんかで妥協しちゃだめだから、すぐに電報を打ちなさい」と。当時の鳩山総理、重光(しげみつ)外相、根本官房長、武内欧米局長に電報を打ったんですよ。安藤さん自ら起案して。返還運動の組織の長として。
これで妥協してはだめだと、一切妥協を廃して、四島一括で返してもらうと、そういう電報を最後に安藤さんが亡くなったんです。このときの電報を記録に残しているんですよ。
根室漁協
【聴き取りを終えて】
竹脇昭一郎さんは、端緒の段階から北方領土返還運動に携わっていらっしゃいました。安藤石典(あんどういしすけ)根室町長の返還運動の立ち上げに居合わせたのです。竹脇さんのお話から、返還運動発足当時の息吹(いぶき)を感じ取っていただけるのではないかと思います。
さて、竹脇さんのお話を伺っていると、ひとくちに元島民(この表現を竹脇さんは好まないとおっしゃっておりましたが、状況を共有するためにこの表現を使わせていただきます)といっても、さまざまな立場があるということを認識させられました。
北方四島が実効支配されて六十余年、元島民の平均年齢も七十四歳になると聞きます。こうした歳月を背景に、北方四島に対する向き合い方もだいぶ多様化したようです。
現地で暮らしていて、お墓もある元島民の皆さんにとっては忘れがたきふるさとであっても、元島民二世、三世にとっては同じ心象を必ずしも共有できないでしょう(私にしても、父の出身地は親近感を覚えるものの、そこにいずれ帰りたいという希求する気持ちは希薄であると白状しなければなりません)。このように、世代を超えることによって、島への想いの埋めがたい隔絶は深まるのはやむを得ません。
また現状においても、ロシアとの経済交流の上で暮らしを立てる人たちにとっては、政治的な解決が当然大切だとは理解しながらも、経済を主体とした日々の生活を優先するであろうことも、一生活者の感覚として理解できます。
また、島からの離れ方も、元島民の方たちの間でいくらか感情的な軋轢(あつれき)が生じていることも事実のようです。島から脱出した人はある程度家財道具を持ち出すことができた反面、ソ連による強制退去によって島を離れた人はまさに着の身着のままの状態で放り出されました。どちらもたいへんなご苦労をされたことは確かですが、当事者同士になると、微妙な感情が渦巻くことも、部外者の私でも想像できます。
ロシアとの民間交流が進む昨今、元島民二世、三世の方たちの返還運動に対する熱意も微妙に変化しつつあるようです。
モザイク化した北方四島に対するスタンス――私たちはこの現実を受け止め、直視するほかないでしょう。
解決すべき問題は山積していますが、北方の島々に生きた人々の記憶が語り継がれる限り、北方領土問題解決の糸口は失われないはずです。記憶を紡ぎ(つむぎ)、語り継ぎながら、次の世代に託すことが私たちに求められているのだと思います。(盛池雄歩)
安藤石典
明治一九(一八八六)年鳥取県生まれ。北海道で警察署長などを歴任した後、昭和五(一九三〇)年、根室町長就任。北方四島からの引き揚げ支援に尽力するとともに、北方領土返還運動の基礎をつくった。昭和三〇(一九五五)年没。
マッカーサーに陳情書
安藤石典根室町長が、GHQ最高司令官マッカーサーに提出した陳情書。北方四島は日本固有の領土であり、経済的にも重要であるとしてアメリカ軍の保障占領下に置くよう要望した。
北海道附属島嶼復帰懇請委員会
根室町議会、根室漁業会、根室商工会、歯舞村議会、歯舞漁業会、根室町、歯舞村の側面支援の元、個人会員一〇八九人で構成された。
二等車
当時の国鉄の列車には三つの等級があった。それぞれ一等、二等、三等と呼んだ。
公職追放
公職から特定の者を排除する処置。昭和二一(一九四六)年一月、GHQの指示により、太平洋戦争に責任があるとした「戦犯」、軍国主義者、国家主義者などを国会議員、報道機関、団体役職員などの公職から追放し、政治的活動も禁じた。
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