聴き取りの記録(8)
竹脇昭一郎さん(78)
竹脇昭一郎(たけわきしょういちろう)さんの来し方
昭和三(一九二八)年十一月十一日生まれ。志発島(しぼつとう)出身。厚岸(あっけし)の水産学校に在学中、米軍の機銃掃射に遭う。兵役志願するも終戦を迎える。水産学校卒業後、歯舞(はぼまい)漁業組合に就職。安藤石典(あんどういしすけ)町長が立ち上げた北方領土返還運動に携わる。根室市有磯町在住。
実家は昆布漁を手掛ける
祖父は寅吉(とらきち)と言いましたが、この代で志発島に来ました。島へ入ったのは詳しくはわかりませんが、明治の後期あたりでしょう。開拓者としてね。
寅吉はホタテ漁業を営んだと聞いています。志発島というのはホタテの本場なんですよ。他にも獲れたのは主として、サケマス、カニ、それからウニ。ウニなんて昔は食べなかったんですけれどもね。あと、エビ、海藻。昆布ノリですよ、歯舞群島(はぼまいぐんとう)というのは、昆布の主産地ですから、日本全国で一番産出する、生産が多い島だったんですよ。ほとんど、漁家は昆布が専業でしたね。昆布は根室港から上海(シャンハイ)へ積み出され、輸出されていました。
おじいさんの時代はそんなことでホタテをやったり、昆布もやったんでしょうけれども、僕の記憶している時代は、戦争中ですからね。そのころ、うちはヨードとか塩化カリの製造もやっていました。戦時ですから、薬品とか火薬に使ったんじゃないですかね。僕も子供ながらの工場の手伝いもしましたよ。
屋号は、カネマルイチ*です。これを染め抜いた半纏(はんてん)を作って、工場の従業員なんかに着せていました。
島の昆布漁業というのは家族操業なんですよ。ほとんど家族でやっている。だから、うちの家族のようにちょっと少ないところは、陸廻り(おかまわり)や沖乗り(おきのり)という雇い人がいたんですね。陸廻りというのは、採ってきた昆布を干場(かんば)に干したりする。いわゆる陸(おか)で働く女の人。それから沖乗りというのは船に乗って漁場に出て、昆布を採取する人。
缶詰工場の船
戦時に入った時は、うちの父の一番下の弟が工場をやっていましてね。父はしょっちゅう出ていましたから、根室の町のほうへ。根室の町とか歯舞の本村(ほんそん)のほうへ出て留守でしたから、その叔父が家業を全部切り盛りしていましたね。
父は吉栄(きちえい)といいました。戦前、親父は歯舞漁協の組合長をやったり、(歯舞の)村会議員をやったりしていました。
現在の根室市内地域には四つ漁協があるんですけれども、昔の北方の島があったときには、歯舞群島の管轄というのは、歯舞村にあったんですよ。漁協が歯舞群島五つの島の漁業権をすべて所管していました。父は歯舞村の所轄でした。歯舞村に漁協事務所の本所があったんです。支所は根室町に大きくありましてね、本所よりも根室町の支所のほうが規模が大きくて、五つの島をこの事務所が統括していたんです。
歯舞村の漁協本所はこの半島沿岸だけ。だから事業内容は支所のほうが大きくて、歯舞は本所といっていましたけれども、出張所みたいな形になって逆転してました。
戦争中は根室です。最初は、島の志発(しぼつ)尋常高等小学校でした。高等科は根室町の北斗(ほくと)小学校で、二年間だったんですよ。小学校の六年から進学する五年生の進学と、高等科二年を卒業してから進学するコースと二つあったんです、当時。私は高等二年からのほうだったですね。
父は島と根室をちょくちょく出たり入ったりやっていました。昔はね、焼き玉(やきだま)エンジン*、当時の木造機帆船(もくぞうきはんせん)ですよ。何トンぐらいあったのか、せいぜい大型でも八十トンぐらいのものですね。こっちから島の生活物資を運搬して行ったり、島で獲れた生産物を運ぶというような運搬船ですね。その船が客便も兼ねていて、それで行ったり来たりしていましたね。
根室ではちょうど町の中心、緑町(みどりちょう)にいました。今は落ちぶれちゃいましたけど、繁華街、商店街のある中心街でしたからね。ここで父の妹が和裁の先生をやっていたんです。和裁教室ですね、今でいうと。お弟子さんをとって、教えて。そこが私の根城(ねじろ)なっていたんです。父も出てくると妹のところに落ち着きました。
昆布の最盛期は寝る間も惜しむ
終戦の前の年(昭和十九年)の夏のことです。八月だったかな、昆布の最盛期ですから。勤労奉仕(きんろうほうし)*で工場にも入って働いたりしましたよ。ほとんど勤労奉仕に動員されていましたね。学校に帰ると軍事教練。当時は、学校では勉強はほとんどやりませんから。
僕は実家がたまたま島だったものですから、昆布漁業の実習の奉仕に入ったんですよ。学生何人かで組んでね。そのうち二人、僕ともう一人同僚が、僕の島へ来ましてね、僕は自分の家、もう一人は隣家にヨード工場をやっていた木村家がありましてね、そこに行って、その同僚も僕と一緒にヨードカリ工場の作業をやりましたね。
島には若い人はほとんどいませんでしたね。兵隊に行っていたから。戦地に行かない老人とか女子供の仕事でしたね。
寄り(より)昆布といって、時化(しけ)で海岸に寄ってきた昆布を拾ってきて集めて、乾燥して。それを焼き昆布灰として、ヨードカリの原料としました。
製品にする昆布はきれいに浜に揃えて干すんです。昔は砂付き(すなつき)昆布といって、砂まみれの昆布。これを一本一本、干場(かんば)へきれいに干すんです。昆布を海から採る時期が終わると、今度は製品にするんです。これはすごく手が掛かるんですよ、何回も干したり。昔は天気のいい日でなけりゃ干せませんから。あまり干し過ぎると、ぽりぽり折れてしまう。夜になるとガスがかかるんですよ。ガスで湿度が保たれてしんなりとなる。
その後は、昆布一本が十メートル以上ありますから、数本位の元を束ねて手繰り(たぐり)寄せ、蝶結びのような形の輪を作り、真ん中に元の部分を通して結び、背負いやすいように形を作る。これを「手絡(てがら)をかく」というのです。
昆布漁場で働く娘たち(昭和十四年八月)
それを一つずつ背負って、納屋(なや)に入れるんです。それをだんだん積んでいって、天井につくぐらいまで積み上げて。今度何日かおくと、しっとりして昆布の旨みが出る。
また天気のいい日には「日入れ(ひいれ)」といって、手絡を解いて干場(かんば)に長く伸ばしてまた乾燥して旨みを出す。そういうのを繰り返すんですよ。あんまり湿気を与えるとかびるので適当に乾燥させて、折れないようにしては倉にしまっておいて、合間をみては製品を作るわけですよ。昆布を干せない日とか漁閑期には、倉庫の中で製品作りです。三尺の長さに切り、八貫目重さに束ねます。
生昆布は沖から採ってくるんですが、これが大変な作業で。沖何百メートルか出たところで、波の静かな、瀬荒(せあら)の場を避けながら採るんですよ。昔は前浜、つまり自分のうちの前の海岸沖で採っていましたからね。
昆布は採れる場所と季節で全部種類が違うんですよ。主体はナガコンブで、春早くは棹前昆布(さおまえこんぶ)、夏は成長身入の夏正昆布(なつせいこんぶ)が採れるし、秋は厚葉昆布(あつばこんぶ)という身が厚い幅の広い昆布。また遅くは猫足昆布(ねこあしこんぶ)なども採れます。
棹前昆布は、早採り(はやどり)の身の薄くて柔らかい昆布。野菜と一緒に煮てすぐ食べられるので、早煮昆布といって、現在は貝殻島(かいがらじま)産の名物なんです。厚葉昆布はだしにしたり。身が厚いですから、昆布巻きにしたりして。薄い昆布は結び昆布にするけれども、厚いやつは巻いたのを昆布巻きにするほか、削り昆布など加工用に使う。
相泊神社
朝は夜明け前に起きます。三時が普通ですね。二時半とかに目が覚めますかね。昆布の最盛期は寝る間も惜しむという感じでした。子供も夏休みがないくらいで。
四、五人くらいの人の手で入れたり出したりするんですけどね。乾燥すると、倉庫に収められないんですよ。折れちゃうから。だから、夜、ガスが来るまで待っていなきゃならない。でも、何時にガスが来るかわからないんです。その日の天候次第ですから。
やっと遅くにガスがきて、湿気が与えられて、手絡(てがら)に畳めるぐらいになったら、ようやく倉の中にいれて。曲がらないものは浜に並べてムシロを掛けておきます。夜の十一時、十二時ぐらいまでランプやランタンの灯の下で働くんです。寝る間を惜しんでね。生活がかかっているんですから。そのかわり、冬はのんびり寝て暮らす(笑)。
廻り(まわり)浜の人というのがおりましてね、昆布の季節だけ、干場を借りて仕事をする人がいました。季節ごとに浜に廻ってくるということで、僕らは「廻り浜」って呼んでいたんですけど、富山県からの人が多かったですね。廻り浜の人たちは、干場料として、昆布を製品にした物を物納する。この浜は何駄(だ)っていってランクに応じて。
廻り(まわり)浜の人たちは、秋に昆布を全部作って製品にして出荷したら、富山に帰っちゃうんですよ。越冬しないんです。出稼ぎですね。干場を借りて、夏の間だけ働いて帰り、また春になると一家でやって来るんですね。五月ぐらいから来て、遅くてもだいたい十一月というと帰りましたね。うちも五、六軒の廻り浜の人たちに貸していましたかね。
カネマルイチ
焼き玉エンジン
焼き玉機関ともいわれる内燃機関の一つ。焼き玉という燃焼室を加熱して赤熱状態とし、そこへ重油などの燃料を噴射して点火爆発させる。小型漁船に広く使用された。
勤労奉仕
学生・生徒による公共を目的とした作業への参加。昭和一三(一九三八)年、文部省によって定められた。
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