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学徒動員で西春別へ
 択捉島を離れたのは十七歳です。そのころ旧制中学校が択捉にはなかったので、根室の中学校に入ったんです。中学校の二年の時、学徒動員*がありまして、西春別(にししゅんべつ)の陸軍飛行場です。根室からだいたい五十キロ離れたところに行ってたんです。
 私たち中学生が四百人くらいで簡易の滑走路を造っていました。直線の道路を埋めて、戦闘機だけが発着できるように、その作業をやっていたんです。根室中学の中学生が二百人と釧路の中学生が二百人でだいたい四百人。二年と三年生ですね。
 西春別に動員されたのは五月でした。作業はいろいろあったけれども、主に警備を。ただ、いるだけだけどね。人がいないということでやらされた。
 西春別にも空襲がありました。何度もあったわけじゃありませんが、一番ひどかったのが、艦上攻撃機の爆撃です。航空母艦からね。この辺の沖にいたんですね。爆弾や銃撃です。機銃掃射ですね。人がいるとやるので、じっと動かない。
 終戦の日、昭和二十年八月十五日の玉音放送(ぎょくおんほうそう)*は、川湯温泉で、軍隊の中枢の人たちと一緒にラジオを聴きました。天皇の放送だったからね、(敗戦というのは)間違いないなと思いました。雑音があって、何を言っているかわからないけれども負けたんだって何となくわかりました。ラジオはあまりよく入らなかったね。
 そのときは、ほっとするよりも、親が択捉島であまりにも距離があります。どうやって家に戻るか。方法がないですよね。だからこれはしょうがないなと。
 西春別に戻って、周りの学生に「終わった。負けた」って言ったら、みんな言うこときかない。勝っていると思っているから「何を言うか」という感じでしたね。ラジオなど何もない山の中ですからね(笑)。
 戻った後は、すこし作業をして、その辺の整備がついたら、根室の学校に戻る予定でした。根室に戻ったのは、八月十七日だったですかね。ちょうどひと月前に空襲だったから、町の大半が焼け野原。そこに戻ったから、どっちのほうに行っていいのかわからない。学生の寮は焼けていませんでしたが、うちに戻るのが大変だった。船がないですからね。
 
 戦前の択捉は、百トンぐらいの機帆船(きはんせん)、交通手段はそれだけでしたね。汽船もありましたけれどもね、危ないからそんなの乗らない。機帆船とは百トン程度の船です。定期的に択捉と根室を行き来していました。これは沈められないからね、ちっこいから。海岸伝い(づたい)に走るでしょう。大きいのは潜水艦にやられちゃうんです。
 島には年萌(としもい)などの港がありました。根室まで北海道庁命令航路*というのがありまして、ひと月にいっぺん荷物や郵便物を運んだりしました。戦前は十日や十五日と決まってありましたし、函館直行とかもありましたが、何しろ船が一隻しかいなくなっちゃったから、戦争中はひと月に一遍(いっぺん)。
 
北海道庁命令航路
 
 (単冠(ひとかっぷ)湾での軍事作戦*を)見た島の人たちはたくさんいました。でもわかんないですよね。大きい軍艦が来て、電信や電話などの通信を全部閉鎖したのです。島内では電話は通じたけど、島外は電話は全部なくなって。航路も全部閉ざされちゃって。停泊していた船はそこでしばらく出られないと。
 
家族は強制退去、樺太を経由して函館に
 蘂取(しべとろ)の住民は一斉に引き揚げました。蘂取川の近くに道があって、川の近くの人と山側の人と、ここから山側だけ帰しますっていって帰したんだって、一斉に。海側の人は残されちゃった。たいだい半分だったね。
 こっち側の人には恨まれたね。なんで、「おまえ村長のくせに先に帰るか」って。ただ、ソ連兵がこっちからこっちって言ったまで。川に沿った部落だったからね、山側の人が最初で海側の人が次。いずれにしても、村は全員強制退去ということですね。
 (引き揚げ者は)全員樺太から函館に上陸して、そこで検疫(けんえき)*をうけて、そこから散るので、千島列島や樺太の人たちがみんな一回函館へ来て。
 択捉には、両親みんなおりました。妹が四人と、弟が一人と、親戚の子が男一人と女一人と。それがうちの家族です。みんな戻ってくるのを待っていました。しかし、二十一年の九月まで、戦争が終えてから一年間、全く消息がつかめなかったんです。択捉を出て函館に着くまで二ヶ月かかりましたが、その間に妹が二人亡くなりました。伝染病です。検疫病院に入れられて、逆にそこで変な病気がうつってしまったようです。
 そんなことを知らない私は根室で中学に通っていました。金はないしね、寮にいれば金を払わなくても大体(だいたい)食わせてもらえるから。(学費などは)払いようがないです。道(どう)がそのときは面倒を見てくれたんです。(島に家族が)残っているというのはわかってくれてね。
 函館の従兄弟が家族の引き揚げを知らせてくれた。一年ぶりに再会しましたが、妹たちがみんなおっきくなっていたからびっくりしたね(笑)。わずか一年だけどね。もっとちっちゃいと思った。みんな死んじゃったけれどもね・・・。
 
【聴き取りを終えて】
 岩田宏一さんを訪問したのは、平成十八年九月二十一日の昼下がりです。経営される幼稚園の二階でお話を伺いました。
 階下から、子どもたちの楽しそうな声が聞こえてきます。岩田さんからのお話をしっかり聴きとめて、あの子どもたちが大きくなった時に伝えることができるようにと、岩田さんのお話に耳を傾けました。
 岩田さんは択捉島のお生まれです。択捉島というと、北方四島の中で最大の島で、本州、北海道、九州、四国に次ぐ大きさの島です。つまり、私たちがふだん一番大きな島として認識している佐渡島よりもずっと大きく、沖縄本島のなんと二・五倍もあるのです。私は今回、この事実を初めて知って、たいへん驚かさせられました。
 さらに、択捉島ともなると、冬の寒さはシベリア並であろうと思っていましたが、岩田さんのお話にあるようにけっこう温暖で、米以外の農作物も十分収穫できたそうです。
 ただし、冬の寒さはさすがに格別だったようで、当時の家屋を例に出されながら、その酷寒ぶりをお話くださいました。印象的だったのは、これほど気候が違いながらも家屋は本土の日本家屋建築だったこと。
 大工さんが本土から来ていたとはいえ、同じ造りであったとは、創意工夫を旨とする日本人のイメージとはちょっと異なる印象を受けました。
 もっとも、北方四島に人が移ったのは、せいぜい明治に入ってから。わずか百年ほどの歴史です。それでは、家屋建築の適応・改善を図るには少々時間が足りなかったのかもしれません。
 ともすれば、まったく異質な生活が営まれたような錯覚を持ってしまいがちな北辺の島々。しかし、岩田さんのお話を聴けば、そこがまぎれもなく日本の一部であることがわかります。この厳然とした事実を、私たちはあらためて胸に刻み、後世に語り継いでゆく必要があるでしょう。(盛池雄歩)

学徒動員
 太平洋戦争期、国内の労働力不足を補うために学生・生徒を工場などで強制的に労働させたこと。昭和一三(一九三八)年の勤労奉仕以降、動員体制が強化され、一九年には通年動員となった。
 
玉音放送
 昭和二〇(一九四五)年八月一五日正午、昭和天皇が終戦の詔書を読んだラジオ放送のこと。「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」の文句で知られるが、放送そのものは難解かつ雑音がひどく、聴き取れなかった人が多い。
 
北海道庁命令航路
 国と北海道庁が明治二四(一八九一)年、北海道と北方四島を結ぶ航路を設定し、船の定期運航を開始した。根室を起点とする根室近海線、根室択捉線、函館を起点とする函館択捉線などがあった。
 
単冠湾での軍事作戦
 単冠湾は択捉島中部に位置する湾。昭和一六年の真珠湾攻撃の前に、大日本帝国海軍機動部隊が最終集結し、ここからハワイに向けて出撃した。
 
検疫
 伝染病の病原体の持ち込みを防ぐために、港や空港などで旅客、貨物などを検査すること。


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