聴き取りの記録(7)
岩田宏一さん(78)
岩田宏一(いわたこういち)さんの来し方
昭和四(一九二九)年一月四日、択捉島(えとろふとう)蘂取村(しべとろむら)出身。根室の中学校に在学中、学徒動員され、西春別(にししゅんべつ)の陸軍飛行場へ。終戦は川湯で迎えるが、択捉島の家族とは断絶。家族の引き揚げを、一人根室で待ちながら苦学する。根室市明治町在住。
温暖だった択捉島
択捉(えとろふ)に渡ったのは親父、末吉の代です。親父は茨城(いばらき)県出身。普通の役場職員でした。親父が島に渡ったのは、大正の末期でしょうか。親父のおじさんが漁業をやっていて、それを頼って行ったようです。関東大震災*のとき、親父が東京で震災に遭って、それでじゃあ兄貴がいる択捉に行ったらということです。
茨城県出身なので、東京にも親戚がいたものですから、夏休みなどに何度か東京には行っています。厚岸(あっけし)から便船が択捉とか国後(くなしり)とかに行っていました。まず根室に行って、汽車でずっと札幌、函館に出て、連絡船で青森へ。東京まで三日以上かかります。
択捉で必要な物は米だけ。あとは自給自足。野菜とか。魚はあるし。だから米さえあれば、あと何とかなります。魚はサケマス、売るほどあるから。野菜も穫れます。ジャガイモやダイコンとかニンジンとか。キャベツも作っていました。わりかし暖かかったんですよ。温暖だったんです。
当時の蘂取村(しべとろむら)*は人口約四五〇人。ほとんどの人が漁業です。あちこちに漁場がありまして、そこに働きに来た人、つまり日雇いの人たちが村の人口よりもっと多かったんです。国勢調査があって、村の人たちの倍くらい日雇いの人がいることがわかりました。ふだん番屋(ばんや)にいるので、目立たなかったですけどね。そんなにいるかというくらいいた。
鮎川捕鯨事業所
近くに捕鯨場(ほげいじょう)があってね。サケマスの主たる事業主は青森、函館の人でした。だからリンゴとかそんなの持ってきてね、青いやつを。国後(くなしり)とかはこっちの人が多かったけれど、択捉島のはじっこのほうは労働力が全部青森だった。青森の人はいっぱいいたし、青森の話も訊いたし、青森のお菓子も食べられたし。
マッコウ鯨の解体作業
獲った魚は基本的には塩蔵(えんぞう)ですね。生(なま)で積み込むものもありました。氷を持ってきてね。船を電信で呼ぶんです。すると二日間かけて来るんですよ。大漁だと船が取りに来るんです。塩蔵したのをたくさん積んで行って。
その船が、野菜とか果物とかそういう物を持ってくるんです。特別に持ってきたら高いことになるんだけどね、氷積んでる船だから易々(やすやす)と腐らせずに。果物とかそういうのは、意外と早く食べることができました。今考えると、根室より早かったし、たくさんあった。
缶詰も最初やっていたけれど、効率が悪いんですよ。電気も無いしね。工場は村の中にはなかったけれど、ちょっと離れたところにいけばありました。実際に操業しているところもありました。すごいなと思いましたね。蒸気でもって全部やるからね。
(さらに北への行き来も)ありましたね。船が目の前を通っていった。沖をね。当時は前線基地だったみたいな。人が住んでいるのは蘂取(しべとろ)で終わり。
釣り、スキー、映画――
映画はトーキー*、無声のがありましたよ。学校で映写機を持ってきてやったもんね。チャンバラですよ、短いやつ。夜しかやんないんですよ。光の遮蔽(しゃへい)をしないから、夜しかできないんですよ。だから映画というと、夜やるものかと思いました。
蘂取小学校運動会(昭和一五年)
島は子供にとってはのんびりした非常にいいところでした。あんまり心配もなく遊べたしね。川釣りはずいぶんできたし、海釣りも。どこでも釣れたしね。川はヤマメとか、マスの子ですね。釣るなって言われたけど、おれ、釣るのうまいからね。海はアブラッコとかアイナメ。カジカ。この辺みんな同じです。
遊びというと、どこの子供でも同じで、縄跳びとかケンケン*とか、釘刺し*とか、陣地とり*とか。春になるといっせいにやるんです。冬はスキーばっかり。それ以外やらなかったね。
冬は寒いですね、厳しさがちょっと違う。本当に寒いときなんか。うちの親父なんか紙を何重にも貼って目張りをしてね、寒くないようにしてたからね。茨城から行くもの、寒いさねぇ。
どこの家にも、一つぐらいはきちんと(防寒対策を)した部屋があった。一部屋だけきちんと目張りして、冬の寒さでも何でもないという部屋に。家の造りとか窓の取り方とかそういうのは、本州と同じだったからね。大工さんはそれでしか造れないからね。自分で造るんだったら違うかもしれないけれど、大工さんは習ったとおりにしか造らないから。本州と同じ作りですよ。縁側があってね。あっても普段はいかないのよ、寒くて。
冬は寒いですけどね、二月ぐらいまでなもんで、あと春になったら同じぐらいなもんです。ただ、日照時間が根室半島よりもいいから、むしろ暖かいというイメージがあります。気温なんて調べてみたら、そんなに変わらない。
島同士の交流はありませんでした。国後島にも行ったことないですね。島の中でも、隣の村というと五十キロぐらいあるでしょう。だからね、ぜんぜん行かないの。大人が馬で行ったりしますけれども、子供は交通手段がないからね。
蘂取郵便局と職員
道路はありました。だけど、熊もいるし。こっちのほうが大変ですよ。子供らはあんまり歩いていくということはありません。お隣の紗那村(しゃなむら)*までも道なんて、今のようなものはなかったでしょうから、ここにやってくるよりも、むしろ船で一気に根室とか函館のほうに出ていました。
熊はいましたよ。でも、見たことないですね。その辺、熊も熊だし、人間も人間で、テリトリーをちゃんと守って。あんまり近づいたらお互いにうまくないから。でも、歩いてるのを見たことはありますよ。熊というのは信仰の対象でもあったからね。強くて恐ろしい。山の神なんていってね。皆はなかなか近づかなかったですよ。
むしろ亀が流れ着いたりすると神社に剥製(はくせい)にして、御神酒(おみき)あげたり。何年かにいっぺん捕まるんですよ。めったにないからね、幸運だっていうわけですね。根室だってそうでしたよ。
紗那が人口が一番多かったですね。内地からの人がたくさん。四国から始まって、秋田のほうまで。大工さんが来たりとか、商売人は四国の人とか。
高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)*が何人か連れてきたんですよね。そのときに嘉兵衛がね、帰りは置いていったんでしょう、みんな。残されたのがその子孫。その人たちは怒るかもしれないけれども、たぶんそうだと思う。だって、嘉兵衛が連れてきたという記録はあるけれども、連れて帰ったという記録はないから。
紗那市街
関東大震災
大正一二(一九二三)年、九月一日午前一一時五八分に、相模湾を震源として発生した大地震および関東一円に被害を及ぼした災害。全壊約一三万戸、全焼約四五万余戸、死者行方不明者約一四万名という大惨事となった。
蘂取村(しべとろむら)
択捉島東部に位置する。寺社、駅逓、旅館などがあった。日本最北端のカモイワッカ岬がある。
トーキー
音声の出る映画。弁士が活躍するのは無声映画、サイレント映画。
ケンケン
地面に長方形を描き、その中にますを作る。それを両足、片足で跳ぶ遊び。
釘刺し
男の子の遊び。地面に釘(主に五寸釘)を投げて、刺さった場所を順に線で結んで行き、他の人を取り囲むようにする。囲まれたら負け。
陣地とり
地面に大きい四角を描き、隅に自分の陣地を描く。陣地に入らなかったり、大きい四角から出たり、相手の陣地に入ったりしたら相手と交代する。
紗那村(しゃなむら)
択捉島の中部に位置し、島の行政、産業の中心的地として栄えた。寺社、駅逓、水産会、医院、旅館、缶詰工場などがあった。
高田屋嘉兵衛
江戸後期の回船業者。国後島・択捉島間航路などの開拓を行う他、択捉島の開拓にもあたるなど「蝦夷地」経営に尽力。ゴローニン事件でロシアにより捕らえられたが、その後、日露関係の改善に努めた。
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