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終戦、そしてソ連兵の襲来陸
 九月の始まり頃、兄も二人とも帰ってきたんです。そこでようやく家族が揃った。根室がやられてしまったから、終戦後は昆布が売れるかどうかわからないでしょう。それに、戦争に負けたということで、皆ショックを受けて、何も手に付かないような感じでした。一ヶ月くらいは。何をしたらいいかわからずに、路頭(ろとう)に迷うような状態だったのさね。でも、やっぱり生きている以上は食べなきゃならないから、魚を獲る人は獲る。でも、昆布は採りませんでした。
 そして、九月三日にソ連の兵隊が来ました。そのころにはもう、日本の兵隊は水晶にはいませんでした。他の島には、何千人もいるところもありましたが。水晶(すいしょう)、勇留(ゆり)、秋勇留(あきゆり)のあたりはいませんでした。十人ぐらいいたこともあったけれど、結局全部撤収して、終戦の頃はいなくなっていた。
 九月三日、戦争に負けたということがあったけれど、その日は皆、昆布を採っていました。その日のお昼の十二時一時ころでしょうか、島の三角(さんかく)という場所に船が着きました。
 ここは波が荒いので、昆布があるのです。昆布採りの船が二、三十くらい沖に出ていたところに、二千トンぐらいの船がやってきました。私は見には行かなかったけれども、近くにいた人が呼ばれて、船を見に行きました。そしたら、大きい船だったので、陸(おか)までその船をつけることができず、それほど大きくない船にソ連の兵隊十人ぐらいが移って、その船から上陸してきました。それで、その大きい船は行ってしまった。それを見た皆が、「大変だ」って。もう昆布どころではないからね。
 上陸したソ連兵は、島の家を一軒ずつ、日本兵が残っていないか調べて歩いた。島の角(かど)っこのところから上がって、そこからずーっと島をまわって。ここの山に火葬場があって、ここで十人ぐらいのソ連兵は泊まったみたいだね。で、次の日に、また一軒一軒まわる。昼は兵隊か何かいないか調べて歩き、夜になると山の中の火葬場で寝る。
 私の家にも兵隊が来ました。土足で上がってきましたよ。そのとき、私の兄が一人いたんだけれど、そのときはもう兵隊の服は着ていなかったから何もされませんでした。結局、二日間かけて島全部の家をまわり終えて、上陸したところに戻ってきました。もう昆布を採る人なんかいません。
 水晶島(すいしょうとう)の人よりも、志発(しぼつ)や多楽(たらく)、勇留(ゆり)の人が船で上陸してきました。一日では根室にたどり着かないからということで、このあたりで宿泊したんです。みんなソ連の兵隊が入ってきて、「もう駄目だ」という思いで。それで水晶の人たちも「やっぱりだめだ」と、どんどん逃げ始めた。
 でも、そうした中でも島に残った人がいたのさ。別れちゃったんだよね。根室に行っても住む家がない。島にいれば食べるものはあるということで。部落の村長さんといえど、「残れ」とか「行ったらいい」という判断は難しかったのさね。それぞれの考えがあったからね。
 私の家からは、妹と兄二人が根室へ多少のものを運んで親戚の家を頼り、行きました。一方、私と下の弟と妹一人と母親と四人が残りました。
 二十一年になってから、志発にあるソ連の蟹工場に働きに来ないかという誘いがありました。ソ連はカニを捕っていたから、日魯(にちろ)*という大きな工場があって。水晶島の住民たちも、残った人の半分ぐらいは引き揚げて、もう半分ぐらい残ったのだけれども、残った人は働かなければ食べていけない。
 
ソ連の工場で働き始める
 三月ぐらいでしたでしょうか、私は志発の工場に働きに出ました。私の家では、私一人だけ。相泊(あいどまり)という場所に集合しました。ここに大きな工場があって。相泊に行くまでは、ソ連の兵隊も特にうるさくなく、半月ぐらいで撤収したようです。
 志発にはソ連の兵隊がたくさんいましたが、水晶にはいなくなった。でも、昆布を採っても売れるかわからないし、根室は焼けて倉庫もない。誰も沖に出る人はいなくなりました。
 それで、もうだめだと根室へ引き揚げてくる人がたくさんいたし、残ったというのも三分の一ぐらい、百五十戸ぐらいあったでしょうか。ソ連兵はいなくなったので、残った人は何もせずに平凡と暮らしていました。ソ連が入ってきてからは、仕事をしなかったです。昆布も採りませんでした。
 水晶に残ったのは下の妹と弟、母親と私の四人。私はすぐに志発に行ったので、家族ばらばらの暮らしになりました。私の家も二十一年の三月までは島にいたけれど、兄たちが「もう駄目じゃないか」と言うので、たしか四月か五月だったと思いますが、私一人を置いて根室に行ってしまいました。そういう家は何軒もあったよね。
 志発には昔から大きな事業主がいて、五十人や六十人も泊まれるところが何カ所もありました。昆布採りではなく、北千島のサケマスを獲ったり、太平洋から出たり。親方がずっとこの辺にいたんです。だから立派な泊まるところがあった。
 それから二十二年の十月ごろまで、一年八ヶ月いました。その間、いろいろな仕事をしました。私は船に乗ってあちらこちらに行ったり。輸送船みたいなものに載せられたこともありました。ソ連は木工所などがないので、家を建てるといっても、日本の家を壊して、それを材料にして自分たちの家を作っていました。いろいろな仕事を手伝い、給料はソ連からもらっていました。
 一年目は食べ物も良く、兵隊が残したお米があったのですが、だんだんとなくなってくる。二十二年には食糧不足で腹がすいて、腹がすいてね。だから、給料でソ連のパンなんかを買いました。結構暮らせるものなんですね。日本も根室も食料はなかったですから。
 二十一年には残っていたお米が、二十二年には食べてしまったから、粉を買ったり、小麦粉でパンを作ったり。私たちはソ連が作ったパンが配給されました。日本人の長がいて、その人が出勤簿などを管理して給与計算をしていました。また、仕事によって給与は違っていました。
 志発ではソ連兵との交流もありました。個人的には良い人たちだった。お腹をすかせていると、ちょっと手伝いをしてパンをごちそうになったりしました。言葉もだんだんわかってきますし。
 二十二年の九月いっぱいくらいまではそこにいて、二十二年の十一月二十日だったかな、函館(はこだて)に引き揚げてきました。真岡(まおか)というところを経由して。二十一年の三月からですから、一年数ヶ月、ソ連の工場で働きました。でもまだ残った人もいました。ソ連のほうでこの人は必要だなという人が、二割くらい次の年まで残ったんです。その人たちも、次の年には引き揚げてきました。
 一人で引き揚げる人は少なくて、家族連れもいました。行くときには、ソ連の証明書があったので引き揚げの証書もあわせて持って。根室に着いたのは二十二年の十一月三十日。函館から根室へは汽車で移動しました。真岡からふた月くらいかかったんじゃないでしょうか。真岡にも二週間くらい留まりました。秋だからけっこう時化(しけ)るために遅くなって、なかには亡くなった方もいました。布団なんかひけないので。寒いし、良い薬もない。
 脱走した人はだいたいの荷物を持ってくることができたけれど、引き揚げの場合は、衣類と布団くらいしか持てず、食器類などは持てなかったんじゃないでしょうか。
 当時、私も若かったから賭博(とばく)などもやっていました。だから働いていたけれども、あまり荷物の中にお金はありませんでしたね。
 
ソ連に拿捕され樺太へ
 根室(ねむろ)に来てからは、島へは行きませんでしたが、一度、漁をしていてソ連に捕まったことがありました。三十二年に家内と一緒になってからですから、三十五年ぐらいだったでしょうか。
 捕まって樺太(からふと)へ行かされました。そのころはまだそんなに労働も厳しくなかったですが、裁判が終えてからは木工所で働かされました。それが一年ちょっと続きました。
 根室の当時の生活は、ご飯も三度食べられなかったほど。食べていたものといえば、うどんや芋の煮たもの。食事は一日一回ぐらいでした。
 六十三、四歳まで、仕事で底引漁船に乗り、サンマやタラ漁。しかし、結婚してから、冬は働きませんでしたね。三月は漁に出る準備で、春四月から十月頃まで働くだけです。十月以降は、同業者の知人と飲みに行ったり。金に糸目はつけませんでしたね(笑)。
 漁に出ているときは、船で寝泊まりするので、十日にいっぺんぐらいしか陸(おか)に帰れませんでした。しかし、サンマの場合はあまり日持ちがしないから、二、三日にいっぺん帰ってくることもありましたが、それでも晩方にはもう出ていくような生活。船は夜の仕事が多いんです。イカでもサンマでも。
 島を引き揚げてきてからも、田舎は田舎で運動会やなんだと楽しいことがありました。お祭りとか踊りとか、相撲もやったし。特に、お祭りは楽しみでしたね。家族ぐるみでやるから、おもしろいものです。また、魚がたくさんとれればお裾分けをしたし、地域内での行き来は頻繁にありましたね。
 
【聴き取りを終えて】
 橋本三治さんのお生まれは根室。橋本さんが幼いころにご家族で水晶島へ渡られました。お子さんのころにされたという家業のお手伝いや学校でのエピソード、子供ころの遊びから始まり、根室が近かったせいで空襲の様子がよく見えたという、終戦時のエピソードなどなどなど、さまざまなお話を伺いました。
 昭和二十年の根室大空襲の際も、島での生活は平和だったといいます。夜、近くの家で寄りあって楽しんだという「宝引き(ほうびき)」やレコードの貸し借りなど、お話を伺っていても、島での豊かで平和な暮らしが伝わってきました。二時間、お話をお聞きするなかで、島の平和な様子が一番印象に残りました。
 しかしながら、ある日突然やってきたソ連軍。橋本さんは一人、水晶島を離れ、ロシア人が経営する缶詰工場で働くことに。いきなり“異国”に放り込まれた橋本さん、ロシア人と上手にコミュニケートしながら粘り強く生き抜かれました。こんな現実があったとは知らず、たいへん驚きました。
 「島を引き揚げてきてからも、田舎は田舎で運動会やなんだと楽しいことがありました。お祭りとか踊りとか、相撲もやったし。特に、お祭りは楽しみでしたね。家族ぐるみでやるから、おもしろいものです。また、魚がたくさんとれればお裾分けをしたし、地域内での行き来は頻繁にありましたね」と橋本さん。東京でこうして原稿をまとめつつ、当時、このように自然に形成されていたコミュニティをうらやましく思う私でありました。(和栗由美子)

日魯
 あけぼのブランドで知られる水産品製造会社。サケマス漁業を中心に、明治後期から北洋で事業を展開する。日魯は「日・魚・日」を組み合わせた縁起の良いところから命名された。その後、ニチロと社名変更。


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