聴き取りの記録(6)
橋本三治さん(78)
橋本三治(はしもとさんじ)さんの来し方
昭和三(一九二八)年十二月二十日、根室町生まれ。昭和六年頃、親に連れられて、水晶島(すいしょうとう)に渡る。ソ連侵攻後、志発島(しぼつとう)のソ連の工場で一年八ヶ月労働に従事。昭和二十二年十一月、函館に引き揚げ。その後、漁業に従事。操業中、ソ連に拿捕抑留される経験を持つ。根室市明治町在住。
秋味場(あきあじば)での暮らし
生まれは根室ですが、昭和六年頃に親が水晶島(すいしょうとう)*へ渡ったようです。だから、幼すぎて当時の記憶はあまりありません。
除隊*してから、島で昆布採りを始めたようです。聞くところによると、私たちが生まれる前だと思いますが、兵隊に行く前には、大きな柳田さんという漁場に勤めていたみたいです。たぶん、それは根室の本町(ほんちょう)のほうだと思います。いろいろなところに資本を出してやらせていたところがありまして、兵隊から帰ってきてからは、うちの母親と一緒になって、島で昆布を採っていました。父は十九年に亡くなりました。
私が住んでいたのは、水晶島の中ほどにある入り江のところです。住んでいた家は質素でしたよ。根室はトタン屋根ですが、島は柾葺き(まさぶき)でした。
根室全景
学校は、島内の学校に上がりました。私が通ったほうは分校だったんですが、こちらに本校がありましてね、島には学校が二つあったんです。学校の教室は二つから三つ。一年生から六年生まで同じ教室で勉強しました。全員で五、六十人ぐらいでした。教室は結構大きかったと思います。畳でいうと、六十畳ぐらい。今の学校よりも大きいでしたね。
中には小さな運動場もありました。運動会は野原のようなところで草を刈って、そこでやっていました。家から歩いてだいたい一キロぐらいのところに学校はありました。学校もこの湾のところにあったけれど、ちょうどこっちの岬にいく道路の近くです。
この真ん中のあたりは、秋味場(あきあじば)というんです。こちらはトッカリ岬。私のいた部落は秋味場です。
学校に行っていたときは、三、四年になると手伝いが忙しかったです。昆布をしまうときにムシロで覆うのですが、それを夜になるとしまわないといけないから、親が畳んだものを数えて倉庫にしまって。子供の力ではちょっと大変でしたが、そのうち慣れてしまう。
普通の家でも子供が多くて、六、七人というのが普通でした。私は六人兄弟で、上から三番目でした。他の家の子供たちも皆手伝いをしていました。島には、学校とお寺があったけれど、部落の他の家も同じ(昆布の)仕事をしていましたよ。
学校を卒業したのは十六年の春。十九年には父親が亡くなっているので、十八歳くらいからは海に出て仕事をしていたんですよ。二人のうち一人の兄は十八年に召集されて、もう一人の兄は、二十年の三月頃に兵隊に行ったんです。で、十九年に父親が亡くなってからは、私一人しかいなかったんですよね。下には弟もいたんですが、家に残っている中では、私が長男のようなものでした。
十九年くらいになると、若い青年は兵隊にとられて、ほとんどいませんでした。だから、その当時は私たちくらいの年代が一番若くて、あとは高齢で兵隊に行けない人だけ。私も終戦になるまでの二年か三年、昆布採りをやりました。
戦時中も、島はとても平和でした。昭和二十年七月に根室で大空襲があったときも、島にいました。根室のほうでは煙が上がっているのが見えました。水晶島と根室は比較的近いし、根室には親戚もいたので、船でよく行き来できたんです。一年に何回も行き来をしましたよ。ちょっとした用事があると、自分の小さな船でちょくちょく根室へ。
空襲になった後も、すぐに行きました。親戚があったから、どうなったか見にね。親戚は皆無事でした。一緒になる前でしたが、当時、私の家内は根室にいまして、その親戚の中には空襲で亡くなった人も何人かいましたね。当時、防空壕(ぼうくうごう)が至る所にありまして、無事逃げ込んでも、煙に巻かれて亡くなったり。港の近くは、港の輸送機能を途絶えさせるために、空襲の標的となりました。空襲後も、根室の親戚はそこに留まり(とどまり)、私は島にいました。
島では、魚とお米は終戦になる前はわりと食べていました。畑も自由に作れますから、野菜や魚は不自由ないけれども、十八年ごろからはお菓子などはなくなって、砂糖などは配給(はいきゅう)*になりました。
島の生活はのんきといえばのんきだったけれども、電気はあるところもあればないところもありました。私の住んでいた家もランプでしたが、相泊(あいどまり)あたりの大きな事業家の親方の家は発電して電気がありました。
ランプは、今でいう灯油をつけて。冬は石炭を使いました。立派な家は少なく、質素なものが多かったです。風が入らないように、冬になるといろいろと工夫して。
お風呂もあるにはあって入りましたが、洗い場も質素なもので、お湯をとっておいて顔を洗ったりする程度でした。また、テレビはないし、ラジオも全部の家にあるというわけではありませんでした。ですから、町から見たら生活は悪かったのかもしれませんが、そのほかは暮らしやすかったのではないかと思います。
そのころの楽しみは、百人一首(ひゃくにんいっしゅ)や、お金をかけた宝引き(ほうびき)*でしょうか。
電話もないけれども、口頭で「今晩何をやりますよ」って寄って遊ぶというのが多かったね。あとはレコードをよく聴きました。みんな持ってたと思います。根室で買ってくるんです。うちの母親は歌が好きでよく聴きましたし、レコードの貸し借りもしましたね。夕食が終わってからレコードを聴くことが多かったです。
子供のころは、島の小高い山で朝から晩まで遊んでいました。終戦になる前は青年学校というものがあり、冬になるとそこに毎日行っていました。夜は勉強をやりましたが、だいたいが兵隊の心得のようなものをやっていました。
十一月ごろになると根室へもあまり行けなくなるんですよね。海が荒れるのと、流氷(りゅうひょう)が来るためです。流氷が来ると船も動けませんから、半月ぐらい新聞が届かないときもありました。
サケ捕りと昆布漁
食べ物は十一月や十月補給しておくので心配はありませんでした。冬は魚があまり捕れませんが、保存――食塩で漬けておく物などがありましたので、食べ物には不自由しませんでした。でも、今から見れば、寂しかったかもしれませんね。冬はちょっとの間フノリというのが採れるんだけれども、そんなに長い期間ではありませんでした。
よくやったのはサケ捕りです。私のいたすぐそばにサケが上る川があって、夜になると捕りに行くんです。五、六人で行ったと思います。川の名前は忘れてしまったけれども、秋味場のあたりにあった川でした。
釣り竿でなく、網を川の縁(へり)に刺すやり方で、サケの季節の一ヶ月ぐらいの間は楽しかったです。半月くらいで七、八十匹は捕ったと思います。サケは波に乗ってやってくるのだけれど、川を上れずにそれてしまうサケがいて、それを捕まえる。
捕れると家に持ち帰って焼いて食べたものでした。そのほかにも、カレイとかコマイ、チカといった魚が刺し網でとれました。夜、網をさしてくると翌朝には結構な数がかかっていました。
昆布の漁は朝三時ぐらいに起きて、夜は暗くなるまでやったね。船が戻るのは四時か五時くらい。それから浜で干すために船から降ろす。そうするとだいたい晩になってしまう。昆布の時期はそんな感じで忙しいので、疲れるんです。だからお風呂に入ってご飯を食べたら、呑む人は呑んで、すぐに寝てしまう。そのときは疲れているから遊びになんか歩きません。それが十月の中頃になると昆布漁も終わりになって暇になってくるのですが。
春秋の昆布は竿で絡めて(からめて)採ります。夏に採れる昆布は幅があまり広くないのですが、とても長い。天気がいいとすぐに乾くけれど、春秋はなかなか乾きません。三日くらいかかったかもしれません。
加工などの作業は家族でやります。乾かしたら、今度は検査を受けるのですが、道の検査員がいて、来て検査をするんです。規格にあった長さかどうか、重さかどうか。道の検査員は島内に駐在所があって、月にいっぺん、できた頃に歩いてまわってくるんですよ。
倉庫の前に陳列しておくと、検査員が中を調べて一等二等と決める。一ヶ月で製品になる量は八、九キロぐらいでしょうか。その日のうちに検査で島内を回りきれないときは家に泊まります。その泊まる先は、部落でそういう役をやる人がいて、そこに泊まって、翌朝また次へ行きます。
昭和十六、七年くらいに組合ができました。昔は、仕込み(しこみ)親方というのがいて、力のあるお金のある人は、そういう仕事をやらせてました。しかし、頭のいい人がいて、それじゃだめだということで組合ができたんです。
干場(かんば)の所有権を持つ人は、根室に多かったです。だから一年に一度、お金にすれば今でいう年間何十万というものを、お金じゃなく昆布で払う。私もその仕込み親方に払っていました。組合ができても、土地の所有は変わらないから引き続きそこに払う。昔はいろいろあって、高く売っても安く帳面につけるなんてことが多かったのさね。「なんぼで売れましたよ」といえば、「はいはい」と言ったもので。だから、島で商売している人は、なかなかお金をつくれなかった。
だけど、終戦当時はお金が残った。食べ物や衣類が全部点数制*だったので、買うにも限度があったからです。そのときに土地でも何でも買えばよかったのだけれどね。終戦になってからは、紙幣の切り替え*もありましたし。
水晶島
歯舞諸島にある平坦な小島。納沙布岬から珸瑤瑁(ごようまい)水道を隔ててわずか七キロの距離。終戦時の人口は九八六人。
除隊
軍人が兵役の任期満了、負傷などにより軍隊を辞すること。
配給制度
戦時下における物品統制。昭和十六(一九四一)年に米穀配給手帳制度が施行されたことを皮切りとする。米、砂糖などの生活必需品から、酒、タバコなどの奢侈品までさまざまな物が対象とされた。
宝引き
二メートルくらいの縄を十五本ほど束ね、一本に鈴を付けてそれを当たりとした。十人くらいでお金を賭け、当たりを引いた人が一人占めした。
点数制
戦時下における配給制度では、割り当てられた点数で物品の購入が制限された。昭和一七年には衣料が点数制となり、学生服が三二点、ワンピースが一五点というように定められた。お金があっても、購入できない状況であった。
紙幣の切リ替え
太平洋戦争後、GHQの施策の元、預金封鎖と新円切り替えが実施された。これにより、新しく発行された紙幣しか使用することができなくなり、手元の紙幣は紙屑同然となった。多くの現金資産を持っていた人たちは大打撃を受けた。
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