日本財団 図書館


上級生とヤマメ釣り
 上級生の方とね、ヤマメ釣りに行くんですよ。四、五年生ぐらいのときに行くんだけれども、(歩くのが速くて)ついていけないんだね。熊もおっかないしさ。熊出るんじゃないかと先には行けねぇ。そうすっと、先に行った人がいいとこ釣ってしまって、こちらは何もつれねぇんだ。泣きながら釣って(笑)。
 富山の薬屋さん*の話を聞くと、よく熊に出会ったなんて話をしているんですよ。そんときは、ぜったい動かないことですよ。熊と睨み合いっこしているうちに、熊のほうは姿消してしまう。そういう話は聞いたことがありますよ。薬屋さんの話をよく聞きました。置き薬屋さんの数は十二人ぐらいおりました。
 修学旅行とは言わないんだけれどもね、かわりにニキショロ湖*あたりにキャンプに行くんですよ。そうすると、先生がね、「おいおい、これ、熊の糞だぞ。まだ新しい」って。怖かったね。だから、必ずラッパ吹いたりカンカン鳴り物を鳴らしたりしてね。熊には、馬がたまにやられますね。食べられちゃうんです。
 青年団*の服を着て、胚嚢(はいのう)*とかシートとか毛布とか。大変なんだよね、重いし。それでね、海から上がってくる魚をとらえて、造った生け簀(いけす)に。ところが、それを熊に食われたりして。
 だいたい二晩泊まります。ヤマメ釣りとか、キャンプに行ったりですね。先生もいますよ。キャンプに行くと先生もね、一杯飲んでさ、夜中に生徒の寝ている上を先生が飛んで歩くんだわ。酔っぱらってね(笑)。
 
ニキショロ湖
 
 (生活は)そんなに不自由はなかったね。苦しかったということはなかったね。お米はぜんぜん穫れないです。運搬船で根室から持ってきて、全部積んどくんです。(流氷で)途絶えることも何回もあるんですよ。だから十一月ごろになれば、越年米といって、もうちゃんと米半年分も積んでしまう。先に配給してしまうんです。
 お米は貴重だったですね。蟹場で五十人もいるとね、一俵の米が大体もって二日半だね。だから、おにぎりを二日間も続ければね、なくなっちゃう。だから、三ヶ月分ぐらい積んでおくけれどもね。
 米俵(こめだわら)を開けるのが、子供の頃の楽しみでね。必ず富良野(ふらの)米だとか、旭川米だとか、お猪口(ちょこ)が必ず入っているんですよね、米俵ん中に。これはどこどこの米だって。これが楽しみでね。どういうのが出てくるかね。それを集めたりしたんだね。
 最初のビザなしに行った時、ロシア人がお猪口を四、五個くれました。どこへしまったかな。
 人数が多かったから米俵で買ってね。一つは倉庫は米だけ入れておく米倉があってね。家族が十数人。蟹場のときは、みんな大きい釜で家族の全部炊くから。何合あったのかな。
 缶詰工場に来てみれば、ご飯に、切り干し、わかめに菜っぱ。蟹はまずないね。高級だというわけじゃなくも、ボイラーのところに行けば、すぐに食べられるからね。こんな太い、こんな長いの。二本なんか食べられないですよ(笑)。
 あとは鯨肉。藁(わら)でできた塩ガマスに入れて、鯨を塩漬けにして。食べるときは、塩を脱がして切って。そのままだとしょっぱくて食べられないから、水の中に入れて、二日でも三日でも塩分を抜いて。
 氷が来るところの下でコマイが獲れるんです。そういうものも食べた。ジャガイモなんかも塩で煮て。
 
古釜布尋常高等小学校
 
お正月の思い出
 お正月になるころには、十二月の二十八日あたりになると餅つき。五十人分の餅つきがものすごい盛大なの。だいたい俵二俵はつくんです。元気のいい者が裸ふんどし一貫でもってね餅つきするんですよ。蒸籠(せいろう)というふかすやつを二つ置いてね。休みなしさ、三時間ぐらいかな。それでたまに酒をやりながらやったりさ。なんぼ空臼(からうす)を叩かせる*かって、盛り上がるんです。早くついてね。
 一升枡を下に伏せ、その上で一俵の米を片手で持ち上げられるかとかやるんだね。子供たちは、それを遠くから、畑の方から見てるんですよ。暇になると、相撲を取るんです、若い衆が。若い衆は三十人くらいで、女衆が十五、六人。家族もいてね。
 子供たちも若い衆と遊びました。百人一首(ひゃくにんいっしゅ)しましたね。お正月は女工さんたちも混じってやるんだ。女工さんも正月はいて、六月に漁が終えると帰るんです。
 ほかにも、宝引き(ほうびき)*。年中の遊びだけど。金を掛けて、一銭だとか二銭だとか。十人いれば二十銭で、当たるのは一人だけ(笑)。
 国後には温泉もあって、瀬石(せせき)*っていうところにも。これはアイヌ語で「お湯の出る」というところだそうです。択捉(えとろふ)にもセセキっていうところがあるんですよ。国後の瀬石温泉には、家の職場は湯治で行きましたよ。一ヶ月とか。旅館もあって。馬車でもって行くわけですね。まだ五年生か六年生かのころね。
 それで、(家族を温泉に置いてきたので)帰りは一人になるでしょう。うちの馬が手荒くて癇(かん)がが強いもんだから、駈けるんですよ。行くときはお祖父さんがいるけど、帰りは一人で残されるから、そうすると暴れる。行くときは普通だけど、帰りはめちゃくちゃですよ。何度止めても聞かないんだわ(笑)。
 うちの親父は根室によく行きました。行ったら一ヶ月ぐらいいるんですよ。根室に当時、周旋屋(しゅうせんや)というのがいたんです。仕事を探している人を、旅館の主人が引き合わせてくれるんです。「あ、どこにいる、ここにいる」って見つけてくる。床屋もいれば、大工もいれば、いろいろな人が集まるんですよ。霧多布(きりたっぷ)からも本州からも来ていた。
 
根室港の船着き場

富山の薬売り
 いわゆる「置き薬」を扱う富山出身の行商人。取引先の子供たちには、紙風船などのおもちゃをプレゼントすることがあり人気があった。
 
ニキショロ湖
 国後島の中部、泊村の湖。
 
青年団
 青年団は、地域に居住する青年で組織する自治団体。戦前は修養、親睦、社会奉仕などを目的として活動した。祭や催しで中心的な役割を果たした。女性版として、女子青年団もある。
 
胚嚢
 リュックサックのような背負う形式のかばん。皮や布で作り、主に軍人が用いた。
 
空臼を叩かせる
 もちつきで行われた戯れ事。捏ねる側が、もちをつく側のタイミングを外し、空になった臼を叩かせることを楽しむ。
 
宝引き
 二メートルくらいの縄を十五本ほど束ね、一本に鈴を付けてそれを当たりとした。十人くらいでお金を賭け、当たりを引いた人が一人占めした。
 
瀬石(せせき)
 羅臼山の東側斜面に位置する温泉地。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION