聴き取りの記録(5)
楠木秀夫さん(82)
楠木秀夫(くすのきひでお)さん来し方
大正十三(一九二四)年九月一日、国後島古釜布(ふるかまっぷ)生まれ。カニの缶詰工場で働く父たちの手伝いをしながら幼少期を送る。昭和二十年、兵役に就き、国後島白糠泊(しらぬかどまり)へ入営。埼玉県川越(かわごえ)で終戦。その後、漁業に従事する。根室市歯舞在住。
「女工さんの手柄は外国までも」
私は国後(くなしり)の古釜布(ふるかまっぷ)*の出身です。お祖父さんの三郎兵衛(さぶろべえ)の代で島に来ました。父は寅次郎(とらじろう)です。祖父と父は一緒に島に渡ったんじゃないかな。富山出身です。
仕込み制だったものだから、そこに使われていました。川端元治(かわばたもとじ)さんのところで働いていました。
古釜布港
国後では、昭和八年頃から、カニの缶詰工場の生産者をしていました。カニはタラバ*専門です。だから雄(おす)しか獲らないんです。雌は缶詰にしないんです。
蟹工場は三社あって、全部で二百五十人はいたんじゃないかな。それとは別に女工さんも。一軒の生産者で、男女あわせて五十人から五十五、六人。一隻あたりです。父はその船を預けられて「お前はこれでカニを獲れ」ということで、責任者になってやっていました。
その船で、国後と色丹(しこたん)の間に行きました。刺し網で、ふた晩から一週間ぐらいおくと、網にカニが絡まってくるんです。それが一隻でだいたい三千反(たん)*から四千反にもなるんです。だいたい一日二百反から三百反ぐらいの網を繰り返していきます。それを抜き身にし、工場に渡したわけです。
それが大量の時は抜き身で最高八百貫(かん)。今のキロに直すと二トンくらい。船は二十トンクラスです。船が満杯になると引き揚げます。朝はだいたい一時か二時ぐらいに、起きたら直ぐ(すぐ)に行きます。乗組員は船で二時間くらい仮眠をとって、明け方くらいから始めます。そして、場所によって時間は違いますが、一時から五時か六時ぐらいに帰ってきます。
濃霧が激しいんです。コンパス一つで勘でやった時代だから、自分の目印を置いて帰ってきます。
カニを引き揚げたら、陸(おか)に二人でモッコで担ぐんです。そして、煮炊きする大きなボイラーでもって茹でてしまう。カニを茹でるには直径二メートルぐらいの木の枠を使うのですが、足と胴は別々に茹でます。かかる時間が違うんですよ。炊きあがったあとは、塩水で冷やすんです。缶に詰めたまま炊くんですね。
カニ缶詰工場の女工さん
昭和九年に、根室から新造船が来ました。工場も新しくなって。だから、当時としては最高の設備だったね。
昭和九年というのは全盛期だったんですね。そうそう、古釜布だけでも大きな缶詰工場が工場三つもあったんですよ。カネカさんと泉工場、カクマの三つです。
値段は高くて、日本人は普通買えなかったんじゃないですか。輸出用でしたから。ラベルも貼ってね。缶に添って横にこうやって貼るんです。英語で書いてありましたね。
缶詰ができた後は、根室に運びました。別の船に積むか、汽車で持っていくか。
女工節*というのがあって、「女工、女工と侮る(あなどる)な、女工の詰めたる缶詰は、横浜検査に合格し、女工さんの手柄は外国までも」と。これを工場で、みんなで歌いながら作っていました。この時、尋常小学校五年でした。大正十三年九月生まれですから。
手伝いはしましたよ。弁当運びが主だったね。番屋(ばんや)*から工場まで。網から外しているところまで持っていって、働いている人に運びます。弁当の中身はおにぎりだったと思います。夜食ですね。船の状況によって、遅く入ってくれば遅くなるし、早く入ってくれば早くなります。漁があると忙しいからね。そうといきは、夜中であろうとなんであろうと。あまり遅くなったら寝ちゃうけれども(笑)。
カニの最盛期はやはり三月ですね。二月の二十日頃から編み上げが始まります。流氷(りゅうひょう)だから出入りできるんですよ。西のほうは氷がびっしりつくんですよ。こっちは、冬は主に北風が吹くもんだから、この太平洋側は(氷が)開く(あく)んですよ。
カニ缶詰工場
三月ごろが最盛期なんですね。三月が一番忙しいですね。でも、学校は行っていました。学校は一日も休んだことない。休みたいことあんだよね。でも学校へ行けって。厳しい父だったね。
夏はやりませんよ。六月の十日というと切り上げちゃう。二月の十日ぐらいから六月で終わり。その間は雇っている人は解散。出稼ぎなんです。女工さんは地元の人も結構いましたね。その間は塩虫(しおむし)。(塩虫は)海の中にいるんですよ。それを肥料にするんです。それをけた引き網で採ってきて、天日でムシロに干して俵に詰めて出荷する。肥料は根室に出荷して、リンゴとかに使われます。
昆布も採ったりね。その他にホタテ、フジコやったり、あとは動力船でけた引き*。ナマコは小舟で一人操業。フジコは一回り大きく、沖合で動力船で取ったんですね。
それと、サメの刺し網。サメのヒレを目当てに。サメを釣るために、青森県から運搬船を呼んだもんですよ。こっちは加工(できる場所)がぜんぜんないんですよ。(青森県人は)サメがないと年を越せないというくらい。
サメは主に秋ですね。夏は保たない(もたない)んですよ。あと、サケマスやりました。国後にいても現金収入がないわけですよ。でもサケマスだったら水揚げして買い手がつけば、次の日には金になるから。
昆布運搬馬車
古釜布(ふるかまっぷ)
国後島の玄関口で、島の南側中部に位置する。
タラバ
脚を広げると一メートルを超える大きさ。暗紫色で多くの棘がある。北海道以北に分布し、タラの漁場に多いことから、「鱈場(たらば)」と呼ばれる。
三千反
一反は約十六メートル。三千反は約三・二キロ。
女工節
国後島の蟹工場で誕生したといわれる励み歌。九番まであるが、それを繰り返して歌う。一番は、「朝は早くから起こされて 夜は遅くまで夜業する 足がだるいやら眠いやら アラ思えば工場が嫌になる」。楠木さんが紹介する「女工、女工と侮るな――」は八番。
番屋
漁場の近くの海岸に作る作業場兼宿泊施設のこと。主に漁民が使用する。
けた引き漁
巨大な熊手状の「ケタ」を海底に突き立て、それを引きずりながら行う漁法。ホタテ、ホッキ、ウニなどの漁で行われた。
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