ソ連兵に連行される日本兵
カガマイ港
ソ連兵が島へやってきたときのことですが、当初、ロスケは多楽には来ないんじゃないかと言われていたんですよ。九月三日だったかな、隣のおばさんが「清人(きよと)さん、清人さん。カガマイ*の方へ大きな軍艦が入っているよ」って。
私は「おお、そうかいそうかい。どれどれ」って、うちの工場の煙突を上って見たんですよ。そうしたら、大きな軍艦が入ってきているんだよね。上陸用舟艇(しゅうてい)*がね、兵隊何人かと将校一人を乗せてくるのが見えたんですよ。
こっち側は、あまり浅瀬のないところで、陸(おか)に入ると砂利なんですよ。そこへ上陸して乗り上げてきたんです。私と姉の亭主とで黙っていると、向こうから将校がてくてくと歩いてきました。将校一人と下士官一人、兵隊一人と三人で来たんですよ。
我々はマンドリンと言っていたけれども、連続してダダダダと機関銃を撃ってきたんです。「何でもいいから工場で黙って仕事してれ」って言って、やっていたら、ちょうどうちらがどういうふうに見えたのか、ヨード工場も、他の家よりよくできていたからね、ちょうど工場の前を通るようになっているから、工場の中に入ってきたのね。そうしたら、何とかかんとか言うんだけれど、ロシア語はわからないんですよ。
そうこうしているうちに、「日本の兵隊がどこにいるか」って聞いていることがわかった。それで私は外に出て、「この先を行くと川がある。川を越えたらすぐにお寺と学校があるから、そこへ行くと兵隊さんもいるし、みんないる」って言ったんです。言ったとたんにぶるぶる震えてね。機関銃を突きつけて言うんだから。
家へ来る前に天神(てんじん)さんという家があって、そこにも寄ってきたらしいんだよね。それで私に言ったことと同じことを訊いてきたらしいんだけれど、「ぜんぜんわからない」って答えたと言ったそうです。
なぜ日本兵を探していたかというと、日本の兵隊さんを連れて帰るっていうんだよね。将校が先頭になってね、馬に乗ってさ。それで、後ろに日本の将校が――その将校だけが刀を許されていたんだけれど――その後ろの兵隊はみんな丸腰(まるごし)さ。下士官もみんな丸腰。
そして、そのうしろの馬車には日本の銃や兵器が積んであって。そのまたうしろに日本の兵隊が二十人くらいいて、そのうしろにまたロスケの兵隊がいて警戒しましたね。そして、うちの前を通って、大きな船で連れていったんですよ。そのとき、私も兵隊にいった経験があるから、戦争に負けたらこんなふうになるのかなって、悔しくて悔しくて仕方なかったですよ。
島で越年(おつねん)していた人は、やはり何かあると兵隊さんと話をしたものでしたよ。当時、三月十日の陸軍記念日*というのがあって、そのときに島の小学校で演芸会をやるんです。そういう場合は、青年団も一緒になって劇をやったり、家族慰安会というかね、そいうのをやっていたものでした。だから、兵隊さんが連れて行かれるときに、その人たちは涙を流してね、兵隊さんも頑張りなさいよって握手して行ったもんだったよ。
あれはとっても見ていられなかった。私も工場の中に入って、涙を流しました。我々も、もし負けて捕虜になっていたら、こういうふうになっていくんだなと思ってね。そのとき満二十七歳でね、なぜそういう若い私らがおったかということですよ。皆さん恐らく分からないと思うんだよ。
私の父親はいいことにね、駐在巡査と仲が良かったわけさ。近くに駐在所があったから。昔は駐在所だけは家の裏にあったんです。私の考えからすると、船が来るのは家のところが一番よく見える、だからここにあったんでしょうね。誰かがこちらの島に向かってくれば、駐在所から巡査が見に行く。それも巡査の仕事だったんだよね。仲が良かったから、兵隊から帰ってきても、ヨードカリ製造の要員として一人じゃやっていけないから、一筆書いて出したいと頼んだんです。招集(しょうしゅう)も徴用(ちょうよう)*も来ない。
私はあのとき、兵隊に召集に来るんじゃないかと思っていたんだけれど、来なかった。私と一緒に旭川に行って、帰ってきた人は二回も行ってきている。なのに、私のところには来なかったわけさ。それがきっと影響したんじゃないかと思いますね。まあ、私がいなかったら我が家はどうなっていたかわからんかった。
私だってね、結局のところ、島に引き揚げることになっても、私と姉の亭主しか男がいない。姉の亭主は機関士でもなければ船頭でもない。ぜんぜんわからないし、私一人さ。いいことに私は兵隊に行く前に、船長の免状はとってあったんだ。引き揚げていってから皆さんが家や船を売ったり、あるいは親戚にくれたり、みんな引き揚げて。根室から来ている人も、内地から来ている人もほとんど先に逃げたんじゃないかな。
島に家財品を取りに潜入
あとの人はぼつぼつと隣近所で船をチャーターしたりして根室に逃げてきたわけさ。でも、私の場合一人だし、姉の亭主がいたといっても、船のことは何もわからない。困ったなと思っても、隣にも船はない。機械のついた船はないわけ。
隣の親父さんの息子が十七、八になっていたので、その丸山さんという人にどうするんだというと、「俺も困っているんだ」と言う。そこで、「丸山さん、あんたのところの息子さんに手伝いをさせてくれ」と頼んだ。そうすれば、あんたのところの財産も全部運んでやるからって。
そういう話をしたら、じゃあ行こうということになって、丸山さんという人の親父さん一人だけを留守番に残して、その息子さんと私と、姉の亭主の三人で根室に荷物を運んだわけね。
一番最初は夜具とかそういうものを。とりあえず根室に来ても眠れるようにと。それから、食べられるような米。それから人を、留守番に残っていた丸山さんの家族全員を船に乗せ、夜、暗くなってから多楽島を出港して根室に向かったんです。
悪いことに、私ちょうど結婚した年だったんだわ。島で越年(おつねん)する予定で、島に新しい家を建てたの。新しい家を建てて古い家を壊して。まだ材料がそこにあったわけさ。来年また来られるもんだと思ってたから、その古材を最後に運んだんだけれど、それが間違いさね。新しい家を壊して持ってくればよかったんだけど。
根室に渡ってからも、何回か通ったね。両家の荷物を運ぶために。ロスケに見つからないように、闇夜に隠れて。私の場合、回数は島で一番通ったんじゃないかな。二家族の荷物を運んだんだからね。
一回ね、夜、ランプをつけて小屋の中で荷造りをしていたら、どっかでロスケの野郎が見てたのかね、夜、走ってきたわね。それで、「おー、ロスケが来たぞ、積むのやめるべ」って言ってね。馬車に積んだ荷物はそのままにした。
そうしたら悪いことに、昔、軍隊で使った鉄かぶとが一つあったんですよ。なんでそんなところにあったのか、わからないんだけれども、根室で空襲に遭って焼けて鍋がないから、これを鍋がわりに持っていたものなんだろうね。ロスケの野郎は、それを見つけて「なんだこれは」って言うから「これは、マーレンケ*だ」って。そうしたら「そうか」って。それでも、しつこく「これから荷物を積んで逃げるんだろう」と言うから、「日本へは行かない。そっちに回るだけだから」って。
そしたら、ロスケの野郎は船のほうに来てね、当時焼き玉(やきだま)エンジン*ですからノズルというものがついていたんですが、それを外して持っていっちゃったんですよ。行かせないぞってね。
カガマイ
多楽島の北海岸中部地域。
上陸用舟艇
軍艦に附属する小型艇で、上陸作戦で使用される。
陸軍記念日
三月一〇日。明治三八年同月同日、日露戦争の奉天大会戦で日本軍が勝利し、奉天占領、奉天城入場を果たした日を記念して休日とした。東京大空襲はこの日を狙ったともいわれている。
徴用
戦時などに、国家が国民を強制的に動員して、一定の仕事に就かせること。また、物品を強制的に取り立てること。
マーレンケ
ここでは「子供のおもちゃ」という意味で使われている。
焼き玉エンジン
焼き玉機関ともいわれる内燃機関の一つ。焼き玉という燃焼室を加熱して赤熱状態とし、そこへ重油などの燃料を噴射して点火爆発させる。小型漁船に広く使用された。
|
|