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ヨードカリの製造を手掛ける
 昭和十四年に根室にいて徴収されました。兵隊に行ってからは、旭川に一年半、その後、樺太(からふと)の国境へ行って一年半。合計三年、兵隊に行っていました。
 その後、根室に戻ってきたのですが。親父は島で、当時の軍需品として、昆布から製造するヨードカリをつくることをやっていたんですよ。タラ釣りにいけないし、かといって、若い男の人は戦争に行っているから、人を雇うわけにいかない。したがって大きな仕事ができないもんだから、自分でヨードカリの製造をやっていました。
 軍需品としてカリは、火薬の原料になりました。その他、今でも使っていますが、カリ肥料というものもありました。農家が使っているカリ肥料です。そうして肥料にもなるし、火薬にもなる。ヨードというのは主に薬品ですね。ヨードカリの原料になる昆布のことを、我々は雑昆布と呼んでいました。いわゆる売り物にならない昆布ですね。それを焼いて、残った灰からヨードカリを製造するんです。硫酸(りゅうさん)やマンガンという劇毒薬(げきどくやく)を調合をしてね。
 自分の採った昆布ではたかがしれているので、親父は昆布の灰を買いに行かなければなりませんでした。馬車で買いに行くんです。戦時中だったもんですから、ヨードカリを製造する人たちには「特配(とくはい)*」といって、お酒を年に二升ほどもらったかな。親父は酒を飲むのが好きだったから喜んでやっていましたね。
 しかしながら、戦争がますます激しくなってきて、採った昆布も売り上げが少なくなりました。昔は採った昆布を中国に輸出したものでした。大阪などの関西方面にも出しましたが、中国向けが多かったんです。しかし結局、中国も戦争で日本の物は買わないということになりました。
 したがって、昆布採りばかりやっていた人たちが、「どうやって食べていくんだ」ということになりました。隣近所が集まり、お互いどうしたらいいんだと話し合って。富山方面から来ている人たちのなかで、気の早い人は、自分たちの財産を売ったりもしました。
 その時点では、また来年も来られるということを確信していましたから、玄関に板を打ち付けたりして帰っていったんですね。そして、昭和二十年の七月、根室が空襲にあったんですよ。
 その一週間くらい前の頃だったでしょうか、隣近所でアブラッコ*を釣ろうと出かけたんです。網が五、六枚あったので、それをすべて持って。それを使って捕ったものを、根室に出すと売れる。けれども、釣ったあとにどうやって根室へ持っていくのかということになって、うちの親父が「持っていく」と言いだした。
 私が機関士をやって、もう一人、船長さんを頼んで。三人で根室に運ぶことになりました。島にいる人たちは自家用の資材しか持っていないので、資材調達には俺が行くと。とにかく、父親と三人で船に乗って根室に来ました。
 根室で魚を揚げたあと、島の水は汚かったですから、風呂にでも行こうと。風呂に行って、ご飯を食べて。そこで、明日には物を積んでいかなければならないといっていたところで、空襲があったんですよ。それが七月十四日です。
 
根室空襲で肉親を失う
 その日は、やたら飛行機が旋回(せんかい)していまして、それを日本のものと思って「おーい」って手を振ったりしていたんですよ。なのに、それがバババババっとやったから、「これは日本の飛行機でないぞ」ということになってね、びっくりしてみんな防空壕に入ったりしたものですよ。
 我々が島に行く際に、誰もいなくなってしまうといけないということで、姉夫婦に留守番を頼んでいったんです。けれども、根室に来て空襲にあって。
 米軍が飛行機から撃った機銃弾(きじゅうだん)が、屋根の上の棟木(むなぎ)を突き抜けて、隣の塀の下にささっていたんです。びっくりしてね。それで、「早く島へ戻らなきゃだめだ」ということで、箱も何も積まないで来た道を帰るつもりでいました。なのに、次の日に、また空襲があったんです。それが十五日です。
 
根室空襲を伝えるハワイの新聞記事
 
 うちの前の道路に、町内会で掘った共同の防空壕があり、うちの裏には自分たちでつくった防空壕がありました。私たちは町内会で掘った防空壕に、姉の子供二人と私、それから私の妹の二人の五人で入った。
 一方、父親は自分たちが掘った防空壕に、私の姉と一歳なるかならないかの姉の娘の三人で入りました。そのすぐ目の前に自家用の井戸があって、そこに爆弾が落ちた。そのときに父たち三人が入った防空壕は潰れ、三人はそこで亡くなったんです。私たちは、もう一方の防空壕に入ったために助かったのですが、空襲は続く。過ぎ去ったと思ったらまたやってきて。近くに落ちたときは、本当に地面が浮き上がるんですよ。
 私は戦争に行かなかったから、恐ろしい思いはそれほどしなくて済んだと思うけれども、この空襲ではとても恐ろしい思いをしたね。
 しばらく時間が経って、空襲の音も聞こえなくなって、静かになったので、もう爆撃は過ぎたと思って、防空壕の蓋(ふた)にかぶせた畳を上げてみたら、辺り一面火の海さ。すぐさま、「今、防空壕から出なければだめだぞー」と言って自分は出たんだけれど、父親と姉のことがとても気になりました。
 どうなったかなと思って、父たちが入った防空壕のほうを見たけれども、その壕はぺしゃんこになってて、これではもう助かりようがないと思いました。ですから、こちらの子供たちだけでも助けてやろうと思ってね。道路には電信柱が倒れてぼうぼうぼうぼう燃えているわけさ。
 昔の電信柱は木だったからね。木にコールタールを塗って黒くして。だから、なおさら燃えやすかったんだ。小さい子をおんぶして、もう一人の子供の手を引いて、それらを飛び越えて山に逃げたものです。
 それでも、余分な米なんてどこにもない。自分の家に行っても食べるものなんて何もないんですよ。隣のうちは大きな家で、中が真っ暗だったので「何かないか」と探したら、麦粉(むぎこ)が缶にちょっと入っていたんですよ。
 それを持ちだして鍋に入れ、空襲で焼けて燃えているところに持っていき水を入れて炊いて。それを山に隠れさせていた子供に食べさせようと持っていった。幸い子供たちはおにぎりをリュックに入れて持っていたので、それを食べました。毛布もあったので、そこで一晩を明かしました。
 その翌朝は、飛行機も来ないから大丈夫と山を下りました。しかし、家を見たらぺしゃんこ。父親たちも、もちろん亡くなっていました。
 父と姉たちを、焼け残りの木を集めてお骨(こつ)にして持っていた布袋に入れて、とりあえず島へ帰ろうということになりました。何も積まずに島に帰りました。
 しかし、帰ったら、今度はみんな根室に逃げる準備をしている。うちの姉の亭主と私ぐらいしか男手がいないから、ひとまず食いつなぐために、ヨードカリを製造しました。そして、結局、最後まで残ってヨードカリを製造して、船に積んで持ってきたんですよ。

特配
 特別配給。戦中の統制経済下では、配給制度が実施されていた。配給制度とは、国が生産者から安く買い上げ、それを国民に均等に配布する制度で、食料や日用品を対象とした。しかし、国に貢献度の高い人に対しては例外的な措置が成され、それを特別配給=特配と呼んだ。
 
アブラッコ
 アイナメの現地名。


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