昆布漁の手伝いを
学校へ上がるようになってからは、私も島によく行きました。学校が終えて帰ってくると、それからは仕事の手伝いです。島にいたころは、昆布を採る夏の期間、子供であっても、結構仕事がありました。
古別の昆布干し風景(昭和一二年頃)
昆布漁というのは、朝、船を出して、大人たちは昆布を採って置くとまた沖に出ていく。その間に残った子供たちが、昆布を干したり、前の日に採った昆布を浜へ置いて、その上にムシロをかける。昆布の根元――私らが島にいたときは、ダマといったけれども――を切り取って投げる。それをやらなかったら、学校へも行かせてもらえず、遊ぶことはもちろんできなかったもんですよ。だからムシロ干しと昆布の根を切るのが学校に行く前の仕事です。
学校の授業がある日も、浜にムシロを干して畳む仕事を学校が終えてからやりました。だいたい毎日一時間くらいかな。担いでいって浜に配って、昆布をあげ、それを掛ける。その繰り返しです。家では漁をやっていたけれども、三月には鱈(たら)釣り。五月、六月にはサケマスの仕事をやっていました。
ですから学校も、冬が根室、それ以外は多楽島で通いました。他にもそういった通い方をしていた子供たちは多かったですね。もちろん、島で冬を過ごす人も居て、そのことを越年(おつねん)*と呼んだものです。そういう人たちも我々と同じで、秋になると冬支度といって、衣料品だとか米味噌しょうゆを買いに根室に出てくるんです。
そのころは仕込み親方というのがいました。仕込み親方は干場(かんば)*を持っていて、土地のない人に土地を貸し、昆布で地代をもらっていました。だから、仕込み親方のところに行って、秋に精算してもらうわけです。仕込み親方には、夏に米や味噌を送ってもらったりするので、干場料とあわせて、そういう必需品を送ってもらった代金も、秋になってからあわせて計算するんです。
昆布漁だけであれば、漁具の仕込みなどは大きな金額がなくても足りたんです。ある程度親方に信用があったり、干場主(かんばぬし)や干場の支配人に信用があれば、誰でも簡単にできた仕事だったんですね。海産干場といって、誰も持ち主のいない土地であれば、一筆書いて出せば、誰でももらえたわけなんです。干場主というのは頭のいい人で、自分でもっている干場を仕切って個人に貸していました。だから、割と昆布だけをやっている人は生活が楽だったわけですよ。
ただ、その当時、子供が多かった。子供の服や食べ物、お菓子というのは冬支度といって、根室まで買いに出たものです。そして、根室で精算してもらって、冬の必要なものを買って島へ帰る。私の家は、根室に冬ずっといたから、そういったことは必要ありませんでしたが。
仕込み親方はとにかく頭のいい人だから、根室でふんぞり返って店員さんを使って、どこそこに何をナンボ貸したとか、どこに米を何俵送ったとか、帳場の人を頼んでやっていました。だから、いつもいい着物と羽織りを着て。我々はそういう人のことを羽織漁師(はおりりょうし)だと言ったものですよ。だから、漁のことなんてぜんぜんわからないんだけれどね。
古別高台より
うちの親戚で干場を持っている人がいたんですが、そこの支配人という立場でしたから、その干場を借りたいという人が来れば、うちの親父の頭で貸したりしていました。親戚も富山の方面から来ていました。結局、富山から来ても頭のいい人は干場をもらったり、大きな仕事をしたりしてふんぞり返っていたわけです。
うちの親父は干場を持っている親方とある程度ひっかかりがあって、うちの親方は親父に一切を任せていました。その家の屋号はカクマサ、トミヤマというのですが、そこへ誰かが干場を借りたいといった場合、親方は何も分からないから、「富山(とみやま)(父)のところに行って訊け」と言われて、うちに来るわけです。そうすると、この人は今までどこそこにいて真面目に働いたといった信用があると、じゃあ、これだけ貸しましょうと。その一人分として、年間、昆布五十段*を物納してもらっていました。
多楽の場合、漁師としてはタラを獲る親戚がいて、富山姓では二軒ぐらいやっていましたね。そういう人たちは、春三月から行って早くからタラを釣るんです。
島で越年する人は、タラ釣り業者が魚を売り分けてくれました。しかしながら、タラは出荷してしまうので、タラ以外の雑魚(ざこ)が自家用や近所の人へのお裾分け(すそわけ)になりました。
川湯温泉で骨休め
島の学校には、教室が二つありました。一から三年で一組、四から六年で一組です。それぞれの教室に先生が一人。学年を越えて一緒の教室で授業を受けることになるので、私は、一年生の勉強なんてできないんです。隣の二年生の勉強ばかり頭に入ってくるから。そういう点では得しますね。根室では、他の学年と一緒ということはありませんでしたが。
二クラスだけといっても、島の学校にも一学年二十人はいました。当時は、島にも子供がたくさんいて、その子供たちが小学校を卒業すると、もう一丁前(いっちょうまえ)に仕事をやらせるんですよ。男の子であれば、すぐに親父と船に乗って沖に行って昆布を採るんです。
多楽小学校の六年生
私が学校を出たころ、親父はもう昆布採りはやっていませんでした。人を使う立場にいましたから。春にはタラ釣りをするのですが、この漁業の商売というのは、人手がたくさんあるわけさ。沖乗り(おきのり)*にも四、五人いますし、陸廻り(おかまわり)といって、沖乗りと陸廻りという役目がそれぞれいたわけです。
部落連合大運動会
だから、タラ釣りなどの春の漁が終わると、うちに使われていた人たちが自分たちで昆布採りをやったわけです。無駄なく働いたということですね。
富山から来た人たちは、十一月になると富山に帰ります。湯治(とうじ)というのでしょうか。昆布採りは体を冷やすから、ゆっくり湯治して休んだんです。
あと、うちの親父もそうですが、根室から来た人は川湯(かわゆ)温泉に行きました。私も一年に一回は行きましたね。若い者たちで「おおい、温泉行かねぇか」って言って。二晩ぐらいして帰ってくる。それがまた、汽車に乗る楽しみというか。根室駅から川湯の駅まで行くと、駅からすぐ温泉街に行けたんですよ。当時は若かったから歩きましたね。
学校は、尋常(じんじょう)小学校に六年行き卒業してから、高等科へ二年行って。そして、「勉強しなきゃだめだよ」と言われて、進学をしました。
昔、根室商業学校という学校がありまして、そこの、今で言えば定時制のクラスヘ通いました。その間は島へ行かず三年間根室に留まりました。その時、新聞配達をしたり、納豆売りやったりしながら、根室実業夜学校へ通いました。実業夜学校は本科で二年行けば良かったんです。卒業したのは十八。その後、二十歳で兵隊検査を受けました。
根室実業学校
越年
冬期でも島を離れず、通年島で暮らす人のこと。「通年」とも。
干場
昆布を干す場所。乾場とも。
昆布五十段
一段は約三二キロ。一段は八貫超。一貫は約四キロ。二、三段の昆布を担いで一人前と言われた。
沖乗り
陸地で働く「陸廻り」に対して、船で操業して昆布などを採集する。
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