聴き取りの記録(4)
富山清人さん(87)
富山清人(とみやまきよと)さんの来し方
大正八(一九一九)年四月一日、根室町生まれ。父が昆布漁をする多楽島(たらくとう)と行き来する生活を送る。根室商業学校卒業後、根室実業夜学校で苦学する。兵役後、根室空襲で父、姉、姪を亡くす。多楽島でソ連侵攻に遭遇。往時の多楽島を綴る『たらく物語』を刊行。根室市明治町在住。
根室と島を行ったり来たりの生活
生まれは、根室町鳴海町(なるみちょう)です。多楽島(たらくとう)*へはいつから渡るようになったかは覚えていませんが、鳴海町に居(きょ)を構えて、春三月の末か四月の始めに島に渡り、根室と島を行き来する生活でした。秋になり、十一月末か十二月の初めに根室に帰り一冬を根室で越します。そういう繰り返しの生活でしたね。ですから、島と根室の両方に家がありました。
私、戸籍上は四男なんですが、全部で十二人ぐらい兄弟がいたらしいです。でも、あの当時は(子供が)粗製濫造(そせいらんぞう)である上、島に医者はいません。富山の置き薬*ぐらいあればいいほうで、島にいて病気になると、死に至ることもありました。
私も、島にいたときに一人亡くしたのを覚えています。また、根室で亡くなった子もいます。長男も富山で亡くなっていますが、私は記憶にありません。だから、全員で十二人というのは、聞いた話というだけ。
私の両親は富山県生地(いくじ)(現黒部市)の出身で、昔は富山から根室まで働きに来ていました。ですから、根室と富山を行き来するのが何年か続いたようです。
親父の実家の本家――親父の兄のところは子供がいなかったので、私はその家にもらわれることになりました。そのころは子供がたくさんいて、私のすぐ上にも下にも兄弟がいたので、中抜きをすればある程度暮らしに余裕が出るということだったんじゃないでしょうか、私を内地の本家に渡す予定でいたんです。
ところが内地(ないち)では、本家のすぐ前に親父が住んでいたために、私は夜になると、預けられていた本家から、泣いてすぐに家に帰ってしまったそうなんです。そういう状況が続くので、ついに私を本家に出すのは駄目だということになり、父は私と兄を置いて漁師として働きに出ました。
そういう生活が何年か続いた後に、親父が根室に古い家を買って居を構えたわけです。そして、根室から島へ行ったり来たりする。そのころには、もう内地には帰りませんでしたね。
私と上の兄は、小学校に上がる七歳までは内地に預けられていました。私は一人だと泣いて帰ってしまうから、小学校に上がるようになって初めて根室に行ったんです。ですから、私は根室の学校に通いました。
当時、親父は何でもやっていましたね。多楽では、主として昆布を生業(なりわい)としていましたが、そのほかにもタラ釣りなどをやっていました。まだ流し網というものがない時代で、延縄(はえなわ)といって、餌を付けてサケマスを釣る仕事をしていたんです。
一方、根室ではどうしていたかというと、島へ行って昆布を採ることで一年の生計を立てるくらいの余裕がありました。ですから、根室では寝て暮らすといった感じでしたね。
我々は子供だったから、根室に留まって(とどまって)学校に行っていました。したがって、私の親父が島から根室に帰ってくると、我々は少し大きくなるようでした。
庭には、ストーブ用の薪(まき)がいっぱい積んでありました。それを鋸(のこ)でひいて割って、日の当たるところに積んでおくんです。雪が降っても中に雪が入らないようにして。「あ、明日は雪が降るな」と思えば、薪を庭へ入れたもんです。
島から帰ってきてからの私たちの仕事は、薪を切ることと。十月になると餅つきをやりました。それが終えるともう仕事はないんですよ。だから、私の親父たちは、毎日花札(はなふだ)をやっていましたね。
多楽島(たらくとう)の暮らしぶり
島に住んでいたときの家は、いわゆる掘っ建て小屋でした。要するに、家に住むために最低限必要なものだけです。穴を掘って柱を立て、丸太だろうが角材だろうが、穴を掘って、その上に梁(はり)を渡して屋根を作ってね。その屋根も長柾(ながまさ)を使いました。島の場合は潮風があるから、釘をさしてもすぐ錆びてしまう。それで、長柾といって、三十センチぐらいの柾を使ったんです。家を建てるのも、自分たちでやるんだけれど、忙しいと言えば、隣近所から手伝いに来てくれて皆でつくりました。
青年団員等(トド島にて)
柾を並べた後は、釘は使わないんですよ。木舞(こまい)*という材料を使い横にやって、上に石を載せるんです。そして風に飛ばないようにして。そうする家がほとんどで、昭和に入ってからは、越年(おつねん)する人たちがぽつぽつと普通の柾屋根を使うようになりましたね。トタンの屋根は、巡査駐在所と海産物の検査員駐在所ぐらいだったね。
食卓には、いつも魚が並びました。野菜を作っている人は大根、人参(にんじん)、菜っぱや馬鈴薯(ばれいしょ)なんかがあって、不自由なく食べられたけれど、動物性タンパク質はほとんどありませんでしたから、結局は魚を捕って食べたわけですね。
また、トド島*という小さな島が多楽島の沖にありました。そこは無人島なので、鳥が巣を作り、いろいろな海鳥が卵を抱えてふかしていました。
トド島の本島港
私たちは、春昆布と夏昆布を採るちょっとした間、暇な時期があるのですが――ちょうど六月くらいかなぁ――そのときにここに行くと、カモメなどの水鳥が卵を抱いているんです。その卵をとって食べたり、鳥の肉を食べたりしました。
その他、各自ですぐ前の海に夕方に刺し網を入れて置く。すると、朝になってカレイの二枚三枚はかかっていたし、カジカはもちろん、アブラッコなどがかかっていました。だから、魚についてはいつも生きのいいものばかり。
特にカレイだと、生きたまま網の袋に入れて、流れないように重りつけ、海に入れておく。沖から戻ってきてからそれを上げて、晩に刺身にしてたべる。そういう、天然の生け簀の中に入れておけるんですよね。そうして、粋の良い動物性タンパク質が手に入っていた。
古別海岸とトド島
しかし、冬はそれができない。できないけど、島に鉄砲を持っている人がいて、これで猟をする。カナクソという小さな岩があったのですが、そこにいくと、いつもトドが上がっている。
春二月、三月くらいかな、そこらにトドが来るんです。だから、それが来る時期になると、ドドーンと撃って。船に積まれないから、引っ張って陸(おか)まで持って来るんですよ。
そして、解体して、ご近所に分けてあげるわけさ。このトド肉は、当時、主にみそ漬けにして食べました。テッピ一枚、二枚と数える。合計四枚、これが取れるわけですが、それを一枚共同で買うなどしていたんだよね。
今なんて、トド肉なんて食べる人はいないけれど、当時は島にいて肉といったらこれしか食べられないから、当時にしたら、おいしかったね。当時はライスカレーの中に肉を入れるといっても、キリダシといって、牛とか豚の肉の売り物にならないような筋になるとか、油のよけい付いたところとかを細かく売っていたんですが、それを買ってきて入れたもんですよ。
島でも野菜はつくりました。春は、島で畑をそれぞれにもっていて、そこに種を植える。そして、秋には収穫をするわけです。菜っぱ類は年に何回もできるから、夏にも収穫できました。
大根やにんじん、芋は一回しかできなかったけれども。我々のように根室に引き揚げてくる人は、秋に穫った芋とか大根を自分の畑に穴を掘り、野菜を埋めるんですよ。それで土をたくさんそこにかけて山をつくって。
春になって島に戻り、雪が溶けたころに掘って食べる。そのかわり、島に越年してきた人たちは野菜を貯蔵するムロをつくり、その中に芋を入れて保存して食べていました。野菜や魚は、ある程度食べられましたね。
多楽島(たらくとう)
歯舞諸島の一島。歯舞諸島のなかでは最も北に位置する。平坦な地形で、最高標高は二五メートル。戦前の人口は一四五七人。昆布漁が盛んであった。
富山の置き薬
あらかじめ設置した薬を使用した分の料金を回収する「先用後利」方式をとる。富山の商人が中心となって全国に広まった。
木舞
屋根裏板などを受ける細長い材。六、七センチほど。
トド島
「海馬島」とも書く。多楽島の東方にあり、島と岩礁を総称して「トド島」と呼んでいる。
|
|