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簀巻き(すまき)にされ、箱船で海に放逐(ほうちく)
 そういう目に遭ってね、そして結局あちこち回されて、北朝鮮に来たのさ。北朝鮮まで来て、清津(せいしん)からずーっと金剛山とか咸興(かんこう)行って、興南(こうなん)*っていうところに来た。最後がここなんですけどね。興南で今度身体検査させられたわけさ。そしたらね、またそこでも甲種、乙種、丙種三段階に身体検査があったわけ。
 ぜんぜん使いものになんねえ、させるだけ損だっていうのが丙種さ。今度は丙種にさせられたわけ、僕が。足ぜんぜん利かないでしょ。だから体自体もすっかり弱っちゃってるしね。もう外へ出て洗濯したりなんかしたりっていうこと自体ができないようなね。足が動かないもんだからね、丙種さ。
 今度、丙種は全部島流しだっていうことになったわけさ。丙種はスッポンポンの裸にさせられて、ロスケの白いきれみたいのをくるくるっとひとまわり回して、そしてムシロをこう広げて横になるの。ぐるぐる回って海苔巻き(のりまき)みたく回されて。
 で、下に大きな箱舟があるわけさ。その箱舟にうまく転がって入ればその箱舟に入れるけんども、下手(へた)に頭だとか足のほうが回転が速ければそっちが海の中へばっさりさ。僕ら六百何十人だかね、兵士がいたんだよ。そして僕が後ろから三番目か四番目だったんだわ。
 だから僕は上積みさ。上のほうさ。下積みだったのはそれこそほんとに下になって終わりだったと思う。僕は上の方だったもんだからね、まず上のほうでもって海に落ちないで箱の中に入れたからよかったんだろうけどね。帆かけみたいな船で、興南の港から流されちゃった。
 
「私は永塚でした」
 どのくらい漂流したか、もうぜんぜんわかんない。ムシロの中に入ったまんまだから。前なんかぜんぜん見えないの。僕ら、もうおっかないっていうことはなかったね。そういう気持ちになれなかったね。処刑のあたりから腹決まってましたからね。どこいっても助からないんだと。だけどあえて人間替えてさ、永塚が死んだんだってことで佐々木に名前替えてもらってね、そこで生かしてもらってっていう、そこでやっぱり生きていたいなあっていう、なんだかそういう気持ちも起きちゃったからね。
 そして昭和二十二年の一月に佐世保(させぼ)の南風崎(はえのさき)っていうところに漂着したんだね。アメリカの沿岸警備隊の兵隊に発見されて。十一人だかしか生きていなかったって。それから日本の航空兵舎で治療してもらえたわけさ。
 気がついて、しゃべった後、「私は永塚でした」って言ったの。その後、佐世保に回されて佐世保で今度三ヶ月ばかり治療してもらってね、命救われたんだけどね。
 最初、三千人が捕虜になった。生き延びたのはほとんどいないね。シベリアに行ってね、一生懸命仕事を、ロスケの兵隊の奥さんの洗濯ものなんかしたり、一生懸命真面目にやる人ほど早く死んでるんだよね。
 
爺々山(ちゃちゃやま)会の結成
 引揚げ後、教員生活を続けました。転々とあちこち歩って、四十八年に根室市内の北斗(ほくと)小学校に奉職したんですよ。そこで十年間勤めまして、昭和五十八年に、定年退職になりました。そのとき島の関係だよねっていうふうに友達から声かかって。島のこれから、北方領土のことについていろいろ大きな仕事が山積(さんせき)されているんで何とかそっちのほうで手伝いしてもらえないかっていうことででした。
 
爺爺岳
 
 私たちの集落、部落にね、会を作ったらどうだっていう声もあったりしたもんでね、まあ懐かしいなって思いながら足を運んだところが、そこで会を組織するっていうことで、話になったんですね。主な集まった発起人の方々がね、初代会長は永塚君に頼むっていうことで会長になって。
 島を離れて六十一年だねえ・・・。我々が住んでたふるさとなんだからね、行き来できるぐらいはね、やっぱりこう国がなんとか図ってもらえないもんかなあって思ったりしているのさ。
 お墓にもね、行ってみたいなと思います。まあ熊に倒されてしっかり苔(こけ)に包まれてもう、ひどくなってたっていう話も聞かされましたからね。行って立てかけるもんであったら立ててね、それこそ苔でも結構生えてると思うけども、我々の手でできる程度にね、洗い落としてきたいもんだなあと思ったりしているんだけどね。
 僕ら、島時代の同級生もさあ、僕一人しか残ってないの。あと全部もう、病気その他でいなくなっちゃって。だからみんなのためにも僕はもう少しやっぱり長生きをして、この爺々山会(ちゃちゃやまかい)*をなんとか存続させていたいんだなあ、と思ったりしているのさ。
 
【聴き取りを終えて】
 永塚良さんは物静かな雰囲気の方ですが、訥々(とつとつ)と語られるその来し方はすさまじいのひと言です。
 侵攻してきたソ連軍に捕えられ、捕虜としてシベリアへ。その間、何も食べ物も飲み水すらも与えられず、ついには大便を食すという極限状態を経験。劣悪な収容所生活で毎日数十人という人が死んでいくなか、ささいなことで難詰(なんきつ)され、処刑されることに。
 処刑台に立たされたまま、拳銃を持った将校がカウントダウン。「一」になる直前、永塚さんは気を失い、気が付くとベッドに寝ていました。処刑に失敗し、九死に一生を得たのです。しかし、足には銃剣を受けました。その傷を私に見せてくださいました。今もなお生々しい傷跡に私は慄然(りつぜん)としました。
 その後も反乱分子ということで、永塚さんは治療を受けることができませんでした。刻々と迫り来る死を受け入れざるを得ない状況下、山形出身の衛生兵の機転により、他人になりすますことができたのです。ようやくまともな治療を受けることができたのも束の間。転々と身柄を移された永塚さんは、北朝鮮の収容所で身体検査を受けさせられました。身体検査とはいっても、不要な人間を排除するためのもの。
 永塚さんに下されたのは「丙種」。丙種の人たちは役に立たないということで、丸裸にされて、ムシロに巻かれ手足の自由が効かない状態にされ、箱船の中に転がされました。落ちたら溺死、そうでなくても圧死。幸いにして永塚さんは海にも落ちず、船底で圧死することなく、箱船の上に転がり落ちました。
 頻死体でいっぱいになった箱船は海に押し出され、そのまま漂流。このままでは数日内に死を迎えることになります。しかし、永塚さんはここでも九死に一生を得ます。米軍の沿岸警備隊に発見されたのです。
 こうした物語を永塚さんは、子供の頃の思い出を語るかのように懐かしそうに語ってくださいました。そこには達観した人生観や運命論の奥義のようなものはありませんでした。これだけの体験をされたのであれば、何かおありなのかなと水を向けてみましたが、腹をくくれば何も怖くなくなったとお話になるくらい。
 私にはこうした永塚さんの姿に大きな衝撃を受けました。何事にも運命や自我、そして人生の意味を見出そうという現代人にとって、「生きる」ということの有り様をまざまざと見せつけられたような気がしたからです。(盛池雄歩)

興南(こうなん)
 日本海に面した朝鮮半島(現北朝鮮)の港湾都市。
 
爺々山会
 永塚さんが会長を務める国後島元島民の集まり。


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