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根室の盛況(せいきょう)と逼迫(ひっぱく)する生活
 当時、根室がサケマスですごかったから、国後の辺りの入は、みんな尾岱沼にどんどん入ってきたんだけれども、結局こんな乞食村にはいられないと、みんな引き揚げて根室に来たんです。港でサケマスが獲れて獲れて。拿捕がなかったから。ソ連が来た後でも、六、七年は漁ができたんです。
 
好況の花咲港
 
 飲み屋さんが住むために荒れた小屋でも何でもいいから貸してくれって。船が入ってくると、ご飯食べてお風呂に入って。飲み屋さんは朝からばんばん音楽かけて、「母さん、父さん」ってお姐さんたちは声をかけて。うち連れたって。男性は胴巻(どうまき)*に万札入れて、女の子たちに遣って。女の子たちはキャーキャー言って。もう西部(せいぶ)の町と言われるぐらい。ゴールドラッシュさ。
 船が出るときは演歌流れて。女が手を振って見送るんだから。そのころは景気良かったんだ。獲った鮭鱒(けいそん)は、学校の運動場ぐらいの広い所に出すんですが、魚がお腹(おなか)の高さにまでなりましたよ。
 私はそのとき、妹を高校にあげてやりたくて根室に来ていました。一番末っ子で、うちで一番出来のいい子だったから、この子は何とか進学させてやりたかった。だれか根室ににいないと高校に上がれないから、私は尾岱沼の学校を辞めて、根室の花咲(はなさき)小学校の教員になったの。
 そのとき母が入院して、「危篤だ、危篤だ」と標津(しべつ)の病院で言われてたんです。尾岱沼には病院がなかったからね。土日になれば、私も泊まりがけで母のところに様子を見に行っていたら、父が帰って来ないと。もうそのときで一週間近くたっていましたね。時化(しけ)もないのに船が沈むはずはないから、これは拿捕されたんだろうということになった。そろそろサケマスで拿捕されている人がいたのでそう思ったんです。
 ソ連から連絡なんかありませんよ。役場にも行ったら「それは拿捕されたんじゃないか」と。舵を持たせたら、どんな荒海でも帰ってくる父が、時化もないのに帰って来ないなんて。これは拿捕だろうと言われたたんです。
 母は退院してから女中奉公(じょちゅうぼうこう)に行ったんですよ。ご飯食べていけないんだから。兄嫁は赤ちゃんを産んでいたから、乳飲み(ちのみ)子がいたの。生活保護受けたらどうかと言われたけれど、母が「娘も教員をしているし、ぜんぜん収入がないわけでもないのに、役場のお世話になったら、父が帰ってきたときに肩身の狭い想いをするから。私も働きに出ますから」と。もう五十代の後半でしたけれど、病院に女中奉公に行きましたよ。付添婦(つきそいふ)もしてね、何十年も働いて。私、そのときはね、夜の街に行って身売りしようかと思いました・・・。
 父たちが帰ってきて、病院に入るときでも、お金が一銭もなかったんですからね。病気を治さないとね。三人とも栄養失調で青ぶくれになってね、顔がぶつぶつと腫れているところにおできができてものすごい状態でロシアから帰ってきました。
 父は担架で運ばれて来るときロシアの将校さんから、「お前さん、今帰れば死ぬ。樺太(からふと)のいい病院に入れてやるから帰るな」と言われたそうです。「子供たちと別れて、そんなところに連れて行かれるんだったら、途中で死んでもいいから日本に返してくれって」言って、父は担架で帰ってきましたよ。
 担架で運ばれて船から下りるところは、「アサヒグラフ*」の表紙に出ましたよ。当時はまだ拿捕が珍しかったんです。
 そのとき、歯舞(はぼまい)の親戚が当時のお金で六万円持ってきてくれたんです。今のお金だったら三百万か四百万でしょうね。当時の私の給与が月二千円ももらっていないときでしたから。「こういうときでなければ、親戚が助けてあげることってないから、このお金を使ってくれ」って言ってくれてね。拿捕で取り上げられた船も歯舞にある兄嫁の実家の親戚がくれた船です。
 母は八十近くまで働いて、そのお金は全部返しましたよ。「要らない(いらない)要らない。あれはあげたお金だからね」と言ったけれども母は「返させてほしい。私はこれを返すために、それを生き甲斐に働いてきたから」って言ってね。
 それから本当に地獄のような日々でしたね、お金がないっていうのは。あんなに弱っていた母が働かなくてはならないというのはかわいそうでかわいそうでしょうがなかったです。私はとことん貧乏しましたからね、貧乏に強いんですよ(笑)。
 結局、漁師は廃業しました。組合にはたくさんの借金をつくりましたしね、もう漁師をしようにも、網を全部サメ網に作り替えてしまったから、網も一切ないし、船も取られてないし。
 母が病気をしている間にお金もかかっちゃったものですから。生活費も全部組合の借金だしね。せっかく尾岱沼に父が三百坪以上買って、木を植えて土止め(どどめ)をしてね、家と倉庫と焼き干しを作る製造小屋を建てたんだけれど、組合の借金のカタで全部渡して。根室に来て、市の土地を借りてバラックの家を建てて。十二月になっても戸がないんですよ。外の戸を開けると、すぐ茶の間なんです。ご飯食べてても、風が入って寒くて寒くて。
 当時、戸を四枚入れるために、父は「おれは信金に行って借りるけれども、お前たちがこの借金を払っていってくれるかどうか。おれはきっと払わないで死ななければならないから、借金を残して『あそこは払わなかった』と言われないように、なんとかして払ってくれ」って。父は年明けて間もなく死んだものですからね。
 その借金も母が払ったんですよ。毎月信金の通帳を持っていって、当時のお金で七百円だったか、七千円だったか。七と言う数字でしたね――払って。それで戸が入ってね。「いやー、寒い思いをしないでご飯が食べられるようになったね」って言ったんですよ。
 
【聴き取りを終えて】
 若松富子さんのご自宅を訪問したのは、平成十八年九月二十二日のこと。ちょうどサンマ漁が盛んな時期ということで、ご自宅の台所には、大量のサンマがバケツに入れられて置いてあったのが思い出されます。
 若松さんはとても溌刺とした方で、とても情感豊かな方という印象を持ちました。昔のことをお話になりながら、時折涙されていました。今でこそお幸せに暮らしていらっしゃる若松さんですが、たいへんなご苦労をされたのです。
 最初のご苦労は、やはり闇夜の脱出でしょう。ソ連侵攻を受けて、志発島民たちは窮地に陥りました。何も情報のないなか、自分たちの生命を守るためには島を脱出せざるを得ません。
 しかし、根室に達することなく海の藻屑(もくず)と消えるか、またはソ連の監視に引っ掛かりさらに困難な状況に陥るかもしれません。危険度のきわめて高い脱出に若松さんご一家は命を賭けました。何が何でも預かっている女衆を親元に返さなければならない――。若松さんのお父様は大きな責任を感じての船出でした。
 闇夜、二隻の船で脱出を図るも、主力である一隻のエンジンがかからない。後(あと)から押し寄せる島民で船は立錐(りっすい)の余地(よち)もないほど。ようやくエンジンがかかったものの、ソ連の監視網をくぐり抜けながら、航海すること十余時間――。島からの脱出にはこんな壮絶な物語があったのです。
 また、北海道に逃れてきてからも苦しい生活を強いられました。尾岱沼(おだいとう)にいったん落ち着いたものの、お父様やお兄様が、サメ漁の最中拿捕。苦しい経済状況には拍車がかかりました。年老いたお母様は親戚から借りたお金を返済するために病院に勤めに出、若松さん自身も夜の街に身売りということも考えたと、目を赤くされていました。折しもサケマスで景気のいい根室でしたが、若松さんのご一家には縁のないものだったのです。
 私が感動したのは、お母様とお金を用立てた親戚の方とのやりとりです。親戚の方は、返済しようとするお母様に「要らない要らない。あれはあげたお金だからね」とおっしゃったそうです。それに対して、お母様は「返させて欲しい。私はこれを返すために、それを生き甲斐に働いてきたから」とおっしゃって、八十過ぎまで働いて完済したのです。
 この二人のやりとりに、この時代に生きる人々の誠実さと責任感を見る思いがしました。苦境にお金を差し上げようという親戚の方の心根にも感動しますが、お母様の人様にはご迷惑をおかけしたくないという強い責任感にも感服させられます。
 このお二人の姿、女衆を親元に帰さねばというお父様――極限状態に置かれていても、人間としての品性を失わなかった当時の日本人。その姿に私たちが学ぶことは多いはずです。(盛池雄歩)

胴巻
 腹に巻きつける帯状の袋。男性が着用し、金銭や貴重品を入れた。
 
アサヒグラフ
 大正一二(一九二三)年創刊の雑誌。時事問題を中心に扱い、写真記事が充実しているのが特長。


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