尾岱沼に移住し、焼き干しで生計を立てるが・・・
根室に来てから、すごい苦労しました。尾岱沼(おだいとう)*から女の人を五人も六人も雇っていましたが、二番目の兄はその女工さんのなかからお嫁さんをもらいましたのでね。そこに親はやはり顔を出しに行かなければならないということで行ったんですが、うちの母が尾岱沼というところに惚れ込んじゃったの。
「ここは海だっていうけれど、沼と同じだと」入り江になっていますから。波が立たない。けれど、女の浅知恵ですよね。尾岱沼で生活できるかできないかというのは、母はそこまで考えられなかった。海があるから魚が獲れると思ったけれども。
野付半島(のつけはんとう)*は、今は地獄絵図(じごくえず)のように枯れ木ばかりですが、当時は密林でした。秋はハマナスの実がなっていて、風光明媚(ふうこうめいび)で素晴らしいところだったの。それが高潮で、津波って言っていたけれども、どんどん潮位(ちょうい)が上がってきて、野付半島を飛び越して外海の波が全部尾岱沼の港内に流れ込んで、うちなんか、道路に船が乗っていました。
潮位が上がったので、うちの中にも水が入ってきて、私たちなんか、本当に箱を積んだ上に布団を上げたり、一枚の布団に前から後ろからみんなで入って寝たりして。島には物を置いてきているしね。寝ているときに高潮になって、そういうので潮水が越してきたので、木が枯れちゃったの。尾岱沼には、引き揚げてきてから三年住んでいました。
尾岱沼に家を建てて、父が商売を始めたんです。チカ*を焼いて、ダシにするんです。焼き干し(やきぼし)といって、チカを一本ずつ串に刺して、炭で焼く。それを串から外してすだれに編んで干すんです。
でも、結局、あそこは大きな漁師は駄目なところなんですよ。そして、部落に五十軒なら五十軒、冬、湖に氷が張ったときに、五十画を割って網を指して、外から入ってくるコマイを獲る場所が決まっていて、それは尾岱沼の長男しかその権利が与えられないんです。場所がないから。
だから出稼ぎでようやく食べつないでる村だったんです。焼き干し作ったりいろいろやったんですけど、ぜんぜん原価がとれない。やればやるほど赤字になってどうにもならない。そのうち母が肝臓の病気になって、半年ぐらい入院して「今日は駄目だ、今日は駄目」と。
サメ漁に出て拿捕(だほ)
何とかして立て直さないと、うちはこれで息絶えてしまうということで、サメ漁をしようということになったんです。サメを獲ってきて、肝臓を煮て油を作る。普通は食用油というとシラシメという植物油ですよね、でも終戦当時は植物油は手に入らないから、魚油(ぎょゆ)といってサメの油*――ちょっと臭いんですが――それでもすごい売れたんです。
それで、うちにある網を全部サメ網に作り直して――小さい目の網じゃなくて、大きい目の網でいいんですけど、新しい網を買うお金もないものですから、コマイの網からエビの網から、サメを取るためにうまく作り直したんです。
でも、父は喀血(かっけつ)を二回もしているから沖にはもう行けない。それで、兄に「お前が今度メーターを持って尾岱沼の港を出たら、国後(くなしり)をこういうふうに見て、爺爺岳(ちゃちゃだけ)*が見えてきたらあと何分走って、深さを測って、何尋(ひろ)あったら、そこはどこどこの先というところだ」とか「そこは何という瀬だから、こういけ」と、父は網を指す場所を教えたの。サメの通る魚道(ぎょどう)というのがあるので、そこに刺すといっぺんに捕れると。
母が病気で組合にもたいへんな借金があるけれども、サメで一山(ひとやま)あててれば何とか立ち直れるからとやったんですけれども、網を刺したのに、兄はさんざん空(から)戻りしてきたの。
立て網というのは網を刺したらボンデンの旗をつけて置いてくるんです。魚がかかるのを待って、一日か二日たってから網を上げるのですが、兄は網があるところに行けないで、空戻りしてきたんです。だって目印がない。大海の中だから。
たしかに父が教えたように行ったというのだけれど、父はメーター一つで漁に行くことができたのですが、択捉(えとろふ)のほうまでそれこそ目をつぶってでもいけるぐらい海のことに詳しかった。でも兄はだめなの。
それで父が「あの網を上げて来なかったら、今年うちはお釈迦(おしゃか)*なんだよ。どうするんだよ」と言うんだけれども、兄もどうしようもない。それで、父が「じゃあ、おれが乗っていく」と、喀血したばかりなのに行った。
そうしたら、本当に「あのボンデン、見えないか?」って言って、兄のお尻を蹴ったそうです。父は一発で見つけた。“海の神様”と言われた父だからね。
ただ、父はお酒を飲むとちょっと癖が悪くてね。英語もちょっと囓った(かじった)くらい学力があったんだ。だから、根室の辺りの親方はみんなボンクラだって、父はバカにしてたんだ。だからみんな、父のことを使わないの。使われなきゃならないのに、理屈こきで。商売下手なのね(笑)。
網を上げていたらね、ロシア兵にばっと捕まっちゃった。拿捕(だほ)*されたんです。魚を一匹も上げずに。拿捕されたのは昭和二十一年の十月。そしてひと冬、春まで帰ってきませんでした。帰ってきてから父は間もなく死にました。
拿捕された母の甥っ子は機関士だったんですが、二回目だったの。一回目はサケマスで捕まって。二回目だから、「佐藤」という偽名を使ったの。本当は、池本という名前だったんですが、「池本」というと「お前は前にも捕まっている」と言われると思って。それで結局スパイ容疑をかけられてシベリアに送られたの。三年帰ってきませんでした。
そこのお母さんに泣かれて泣かれて。母子家庭だったんですね。「おばさんがなんとか貸してくれというから、光夫(みつお)を貸したのに」と。うちの母も「申し訳ない。わしが代われるものなら代わってやりたい」って言ったけど、どうしようもなくてね。父たちは釧路(くしろ)に戻ってきましたが、母は「光夫さんが帰ってこないのに、私が喜ぶわけにはいかない」と言っていました。
(拿捕抑留者の待遇は)酷かった(ひどかった)ようですよ。食べ物もなくて。兄たちに厚い毛糸のジャケットとか股引(ももひき)とか、母の持ち物と替えては編んで着せたのに、そういうものも向こうで全部ほどいて、靴下を編んで、それをパンと取り替えるんですって。ひもじくてひもじくて、お腹が減って、めまいしてくるんだって。
塩汁(しおじる)の中で何か浮かんでいるかなというくらいのスープと、ちいさくて薄っぺらいパンが一枚か二枚。みんなチョロマ*に入ってね。狭いから寝返りを打とうにも身動きがとれないから、一斉に「せーの」で寝返りしてね。これは帰ってきてから聞きました。
根室で遠藤さんというのが有名で、「鉄砲遠藤」って言われて拿捕されるので有名だったんだ。うちの父なんかは、拿捕された最初のころじゃないかい。父といっしょに拿捕されたのは、兄たち四人でした。
尾岱沼(おだいとう)
野付半島によって包み込まれる野付湾の通称。現在は、打瀬舟によるエビ漁と風光明媚な観光地として知られる。
野付半島(のつけはんとう)
北海道標津町・別海町にある半島。延長二八キロに及ぶ日本最大の砂嘴。
チカ
サケ目キュウリ魚科ワカサギ属の魚。ワカサギによく似ている。北海道から東北にかけて棲息。
サメの油
サメの肝臓は大きく、全体の三分の二を占める。肝臓には脂が豊富で、品薄の終戦直後は重宝された。焼玉エンジンの燃料や料理にも使われた。
爺爺岳(ちゃちゃだけ)
国後島北東部にある火山。標高一八二二メートル。
お釈迦
お手上げという意味で使われる。お釈迦→仏→死――という文脈が背景か。
拿捕
領海や経済水域を侵犯する他国の船舶を捕らえ、支配下におくこと。
チョロマ
監獄という意味のロシア語。
|
|