闇夜の脱出
父と志発(しぼつ)に帰ったのは八月の初めかな。島と根室の間は、毎日定期便が、運搬船(うんぱんせん)といって、人とか荷物を運んでいました。島で暮らしている人の日常雑貨やら食料やら運んでいたんですけれども、危なくて船も走れない状態なの。空襲ですぐに飛行機がきて、船なんか走っていると、やっぱりやられるでしょう。根室は輸送の根拠地で、兵隊さんはここから北千島(きたちしま)にどんどん物資を運んでいるということで、めっちゃめちゃにやられたからね。
ソ連の進駐は九月の三日でしたか、九月の初めですよ。うちの裏に、西村さんというサケマスをやっている大きな漁師がいたんですよ。そこの帳場(ちょうば)さんの平山さんが訪ねてきたんです。平山さんには、女の子が五人も六人もいたんです。
平山さんが父に根室に脱出するための船の舵(かじ)を取ってもらいたいと言ってきたんです。父は根室近海なら、目をつぶっていても航海できると評判でしたので。この平山さんという人も元々船の機関士なんですよ。でも、船の機械は動かせるけど、舵を握ることは船頭しかできないんですね。うちの父は舵を握ることだけは誰にも一目(いちもく)おかれるくらいの腕を持っていたんです。
それで私たち家族はそのうちの船で逃げることになったのですが、そのころには、みんな、「ロシアが来た」って言うんで、不安で不安で、夜誰も眠れないんですよ。
灯火管制(とうかかんせい)といって、夜窓に幕を張って光が外に漏れないようにしていたでしょう。空襲で来られたら爆弾落とされるから、隣の様子を見たりして不安で誰も寝ていなかったの。
九月の七日だったかな、その日の夜、何だか隣の家ががさがさやっているぞというので、みんなその様子を見にいったら、どうやら沖に行って船に乗り込んでいる。あれは根室に逃げるんじゃないかと。そうなると、「さあ、それじゃうちもうちも」と来ちゃって。あっという間に船は満員になっちゃったの。
私たちは初めに乗り込んだから、一番いい二段ベッドになっているところで寝て待っていました。でも、その船、長い間停泊していたものだから、エンジンがかからないわけよ。どっか調子悪かったんですね。
そのうちみんなどんどん不安になってきて、さらにロシアの戦艦が沖でパカーパカーっとサーチライトの灯りをつけているから、すぐにそこにいるんだってわかるでしょう。そうとう遠いらしいんですが、物音が聞こえるかと思っているから、おっかなくておっかなくて。
たまたま二艘繋いでいたので、もう一艘の小さい船のほうに移ろうかということになったのだけど、そうなると三分の一(の人)をおいていかなければならない。それで立錐(りっすい)の余地(よち)もないほど乗っちゃったの。そのうち雨は降ってくるし、上にいる人なんかはずぶ濡れなんだもの。子供は泣くし、まさに阿鼻叫喚(あびきょうかん)。
私たちは一番いいところに乗ったはいいけど、小さい船に移るとなったら、上の人から移るでしょう。そうしたら、(私たちは積み残されて)うちの父も平山さんも自分たちの家族をおいて、他の家族を連れて行かなければならないでしょう。それで父は困ってどうしたらいいだろうと。「先に下の者から」なんて行ったら、同じ日本人としてそんなこと言ったら殺されるほど殺気立って(さっきだって)。
そこでうちの父がしょうがないから小さい船に期待をかけてみようと。もし小さい船が動くようだったら、大きい船を繋いでいこうと。だから小さい船にも乗せて、あと何十家族も連れていけるんじゃないかと。
それこそ北浦(きたうら)から相泊(あいどまり)のほとんどのうちの男の人だけ残って、女子供は全部乗ったの。父は、(働きに来ている)娘さんたちを親御さんに返さなければならないという気持ちでいっぱいだったんです。
ふつう三時間半で着くのに十三時間かかって根室に。ロシアの船から見えないように、ずっと遠回りして、音が聞こえないように潮の流れにポンポンと、スロースローでいくらか機械かけて、船をロシアの船から少しでも遠く、島からも離れるように離れるように。それでないとロシアの船に聞こえるからって。
前の日の夜に船に乗ったのに、次の日の昼過ぎに根室に着いた。根室に着いたら、桟橋(さんばし)にマスコミやら根室の人が「島から逃げてきた第一陣」と言って、黒山の人だった。
ぜんぜん何も状態かわからなかったから、マスコミも「どうですか、ロシア人が来ましたか? どういう状態でしたか?」と訊くので、「兵隊さんは島の人口の倍もいましたが、それが武装解除されて軍艦に乗せられてシベリアに連れて行かれたらしいっていうことになったから逃げることになったのさ。それでなければ逃げなかったのさ。兵隊さん方が俺たちが守ってあげるから、島の人たちも安心して暮らしていないさいというから暮らしていたら、みんな武装解除されて丸腰で、こうやって後ろ手になってみんな連れて行かれたということになったから」。こんなふうに答えました。
島を往復しながら
上の兄は終戦二日目くらいに復員(ふくいん)*してきたんですよ。島へ心配だからって来たんですよ。でも兄は島に残ったわけ。荷物持てないから、結局風呂敷包み一つっていうことに限定したから、うちだけ荷物持ってくわけにいかないでしょう。根室に来たって食料がなくてなくて、みんなお芋の皮食べて暮らしている。
島には俵米があって、なんでかっていうと、根室と交通が遮断(しゃだん)されて行き来ができなくなったときに、兵隊さんも飢えちゃったらたいへんでしょう。島民も飢えたら大変ということで島は食料になる魚以外で取れる物ないから、三年分の食料を国からちゃんと前渡しされていたの。だから、お米は何俵も倉庫に積んでました。
そのお米、持って来なきゃならないから、持ってきましたよ兄は。父と兄はその後二回ぐらい島に往復していました。うちは機械の船がないから、昆布採取用の船に帆を掛けて荷物を取りに行ってました。兄は最初残っていたのですが、お米を根室に持ってくれば何十倍でも売れる。根室の人は食料がなくて、それこそ日本国中食べ物に困っていたときだから、島だけ米がある。米をもってくればどんなことだってできるでしょう。
兵隊さんが島民の倍の数いたんだから。その人たちが三年も四年も食べるだけの米があったから、その米を取りに行ったのさ。十何時間かかるでしょう。帆を掛けるから、追い風のときは機械積んでいるより速いときもある。島は焚き物がありません。色丹島以外は木なんか二、三本しかありませんよ。四つの島は全部裸島。最後に残った人たちは空き家になった家を壊してそれを焚き物にしたんじゃないですか。
兄は二回くらい往復していると思いますよ。でもね、ロシア人が上陸してきたの。兄が軍隊で戦闘帽をかぶっていたから、戦闘帽の日焼け跡がついていたんです。そうしたら「お前は逃亡兵じゃないか」と言われて、「逃亡兵ではありません」と旭川に兵隊に行っていたんだけれど、ちゃんと除隊になって終戦になって帰ってきたんだと父が言ったけど、後で本部で調べるから待ってろって将校が言ったんだって。脱走した兵隊がいたんですって。
父が何か因縁(いんねん)をつけられて長男が連れて行かれたら大変だということで、物も何も要らない、命だけあればいいからお米だけ持って帰ろうと、兄を連れて逃げてきたの。
それっきり行かないから、結局二艘持ってきたきり。うちは手押しの船は十何艘も持ってたんです。よそにも貸してたんですけどね。
よその船で米を取りにいったり、盗みに行ったりとか、闇に乗じて行って、捨てて行ったんだからいいやと持ってくる人もいた。それに米を根室に持ってくれば高く売れるから、軍の米を盗んできて商売にしてた人もいるんですから。私たちの顔が映るようなお粥を食べているときにね。
最初はロシアもぜんぜん感づいていなかったので。うちの島だけでなく、みんな逃げていくから、夜陰に乗じて島へ物を取りに行って銃撃されて死んでいる人もいる。だから、だんだんとおっかながって行かなくなったの。
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