聴き取りの記録(2)
若松富子さん(77)
若松富子(わかまつとみこ)さんの来し方
昭和四(一九二九)年十月十二日、根室町生まれ。六歳で志発島(しぼつとう)に移る。終戦直後、志発島でソ連の侵攻に遭い、闇夜に脱出。十三時間かけて根室に引き揚げ。その後、尾岱沼(おだいとう)に一家で移るが、一家は困窮し、根室で教職に就きながら家計を支える。根室市松ヶ枝町在住。
根室から志発島(しぼつとう)へ
うちは両親とも富山の出身*ですよ。どちらも小倉(おぐら)姓なの。遠縁(とおえん)同士で結婚しているんですよ。富山県から親戚の者も母の兄弟も小倉姓。父の親が県会議員か何かをやって、政治に注ぎ(つぎ)込んで・・・。だからこっちに来て大きくなろうと。
ここが蝦夷地(えぞち)*と言われた時代に来ていますからね。蝦夷(えぞ)に行くにはそれだけのことがなければ、富山からなんか来ないですよ。来て成功すると、その人を頼って、みんながいい商売ができるって来るでしょう。だから、ここ根室は富山の人が多いんですよ。
最初、父は根室に住んでいました。船頭(せんどう)さんっていうんですか、大きな商売をしているところの船の舵(かじ)を持って、ずっと北洋(ほくよう)のほうまでサケマスを獲りに行ってましたからね。
私が小学校に入る時に島に行ったんです。そのころ、志発(しぼつ)の相泊(あいどまり)*というところには、サケマスを獲っていた大きな漁師がいたり、日魯(にちろ)の大きな缶詰工場がありましたね。相泊は最初から開けたところでしたけれど、(あまり開けていない)北浦(きたうら)というところに住んだんです。
西から東へどんどん回って来ると北浦、うちらが行ってから開けました。最初はぜんぜん拓けて(ひらけて)いないところで、国有未開発地というのかな、そこを拓いて家を建ててちゃんと仕事をすると、土地が払い下げ(はらいさげ)になるというので、父は船頭をやめて入っていったようです。
相泊は日魯の大きな缶詰工場がありましたから、女工(じょこう)さんがいました。サケマスを獲っている大きな番屋(ばんや)もありました。サケマスの時期になれば四艘も五艘も自分のところで抱えて、大勢の船乗りやら、獲った魚を処理する女工さんやらたくさんおりましたね。日魯の工場は、私の家のすぐ裏でした。
島では昭和十八年頃から男の人たちがみんな兵隊に行っちゃったから、昆布を採る人がいないんですよ、若い人が。うちばかりじゃないんですが。現役で働ける人はいませんでした。女子供と年寄りだけ。だから女子供と年寄りでもできる仕事をやるよりしょうがないから、昆布巻を軍需(ぐんじゅ)工場*に納める仕事を始めました。
根室が空襲*で焼けてから、母の身内で母子家庭が二家族ありましたが、住む家もないし、根室にいたって生活できないから、その人たち家族を島に連れて行って。島は大きな番屋があって、たくさん人を雇って住めるようになっているから、そこでその人たちを養った(やしなった)んです。
志発に移った時、私は六歳でした。生まれは根室です。姉も兄も移りました。姉は小学校に入っていました。二番目の兄はちょうど学校を卒業した年でした。沖へ昆布を採りに行く仕事をしていましたが、出征(しゅっせい)していきました。
学校の生徒がみんな旗を振って、「兵隊さん、万歳(ばんざい)、万歳!」って言って、志発島から出征して行きました。長男は二度目の招集、次男は現役(げんえき)です。
長兄*は招集後は、長男だから道内にいました。小樽(おたる)の停車場司令部というところ。だから終戦になったらすぐに帰ってきましたよ。二番目の兄は、南方のほうにやられてて、台湾からビルマとか行ってたみたいでね、マラリア*になって帰ってきてね、帰ってきてから旭川(あさひかわ)の陸軍病院に入院しました。
「仕込み親方」からの投資を受けて
当時、「仕込み親方(しこみおやかた)」っていって、お金を出す資本家がいました。島に来て拓いたら、その土地は国が払い下げしてくれますよと言うけど、そうするためには家を建てて住まなきゃならないでしょう。それから行ったばかりのときは、浜はすぐ昆布が干せる状態ではなくて、草がぼうぼう生えているような荒れ地ですから、草を全部取って、そこに砂利(じゃり)を運んできて撒く(まく)とかの準備をしなければならないんです。準備金がいるわけなんです。それを出す人が仕込み親方。資本家です。
鮭の缶詰工場
仕込み親方というのは、島に行って仕事をするための費用は一切(いっさい)立て替えて出してくれるわけ。最後に権利書が払い下げられるでしょう。親方は今までの借用書と権利書を引き替える。お金がないと始められないでしょう。家も建てられない。資本家である親方が、根室の本町(ほんちょう)というところにいまして、なかには何十件も仕込んだという人もいました。
同級生でも親方の娘さんたちは「本町のお嬢様」って、言っていましたよ。女中(じょちゅう)さん使っているような家のお嬢さんがいましたもの。着ている物から違いましたね。
たまたまうちの母の甥(おい)っ子が、山田商店という仕込み親方のところに弟子に入って。兵隊に行くときに五尺一寸(ごしゃくいっすん)だったので、兵隊検査*に通らなかったんです。背丈が足りなくて兵隊に行けなかったの。そのおじさんが山田商店の親方のところに丁稚奉公(でっちぼうこう)に入って修行して、兵隊検査の次の年から背がぐんぐん伸びてね、ものすごく大きくなったの。
本町
家に入るときに、鴨居(かもい)をよけるようなしぐさをやってね。常治郎(つねじろう)おじさんていって、私たち恐れていんですけど、仕込み親方になったんです。最初、丁稚奉公に出て、年季(ねんき)が明けて、つましくつましく自分が貯めたわずかな賃金を貯めて貯めて。最初のうちは少しずつお金を出して自分が堅い(かたい)人に仕込みをやらせてみて、その人から権利書をもらったら、次の人にまたやらせてとやっているうちに、何十件も自分が仕込みを持つような人になった。母の兄の息子です。
父は常治郎おじさんの資本で始めました。屋号(やごう)は「ソイチ」といいました。お祖父さんが宗十郎(そうじゅうろう)で、父が宗一郎(そういちろう)で、兄が宗長(そうちょう)、二番目が宗治(そうじ)といいました。みんな「宗」の字を受け継いできたので、屋号を「宗」に「一」で「ソイチ」とつけました。大きい商売の人は、マルイチとかイチマルとか屋号で通るの。でもうちはソイチなんて通るような屋号じゃなかった。まだまだ貧しいほうだったから。でも十年ぐらいで、根室に家を買って、私は女学校に上げてもらえるようになりました。昆布で景気も良かったし、うまくいったんですね。
若松さんご一家(右端が富子さん)
富山の出身
北方四島には北陸出身の人が多い。とくに多いのが富山県。
蝦夷地
北海道、千島、樺太の呼称で、明治以前に使われていた。明治二年に「北海道」と改称されることになったが、人口に膾炙し続けた。
相泊(あいどまり)
志発島の中心集落。大規模なカニの缶詰工場があり、戦後ソ連に接収された。
軍需工場
戦争遂行に必要とされる物資を製造する工場。学生・生徒も動員され、軍需工場で働いた(学徒勤労動員と呼ばれる)。
根室空襲
昭和二〇(一九四五)年七月一四日午前五時一五分に始まり、翌十五日に至るまで米軍機からの空襲を受けた。市街地の七〇%が焼け野原と化し、死者は約二〇〇〇人、負傷者約一〇〇〇人という他に類を見ない甚大な被害を受けた。北方への物資供給拠点としての根室は、米軍の重点攻撃対象とされた。
長兄
家長が絶対的な権限を持ち家族を統率する家父長制下の日本では、長男が大切にされていた。長男は徴兵されても、激戦地への配属を回避されるなど優遇された。
マラリア
蚊によって感染する伝染病。太平洋戦争中、南方(フィリピンやビルマなど)で戦う兵士たちが苦しめられた。
兵隊検査
徴兵検査のこと。二〇歳に達した男子に義務付けられた。検査に合格した者は翌年の一月に各連隊に入営する。甲種合格は男子の誇りとされた。甲種合格の目安は身長一五二センチ以上、身体頑健だった。
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