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「ロスケ」との二年に渡る“共同生活”
 最初は、一緒に暮らしたというのはおかしいけど、ロスケが家の半分に住んでいたんです。旅館をしていたから部屋がたくさんあるでしょう。だからその半分をロスケがね。
 私もたまに夜中に呼ばれて、(日本兵の居所を)調べられるのね。日本兵が防空壕(ぼうくうごう)にいたりしたからね。日本兵がいたことはいたんです。何人くらいいたかとか、どこにいたかというのを聞かれるんですが、分かっていても「分からない」と答えました。「分からないことはない」ってロスケは言う。でも通訳の人は「三時五十分」のことも「三千五十ネ」とかいうくらい訳せない人だったから(笑)。
 ある日、船に乗って穴澗(あなま)*まで連れて行かれて。そのときは母も一緒について行きました。穴澗にある缶詰工場の中に机を置いて、三人くらい偉い人がいて、「ママはここに入るのは駄目だ」、「ママ、ソッチ」って。それで尋問(じんもん)されました。
 他に日本兵はいるかどうかはっきりはわかりませんでしたけれど、大浜部隊というのがうちにいたの。何人くらいかな、三十人くらいかな。ロスケが入ってきたときは、ウチから出て、どこかの山にいたんですよね。
 (捕捉された日本兵は)武装解除されてね。軍服(ぐんぷく)に丸腰(まるごし)でね。私の主人もその一人で、連行されたけれど、シベリアから帰ってきた。当時はまだ結婚はしていなかったけれどもね。戻ってきてから結婚しました。(シベリアからは)私よりは早く帰ってきました。栄養失調で早く返されたんだって。
 神社のところに借家が二軒あって、そこに移りました。あまり遠いとこから学校に通っていると、兵隊がうろうろしているからということで。学校は見えるくらいの距離。
 借家は二軒で、(ソ連兵から)一軒を寄越せ(よこせ)と言われていわれて、しょうがないから一軒のほうで、お祖母ちゃんたちとそこで暮らしていた。他の兄弟は今まで住んでいたところから少しいったところに、うちが貸していた工場があったんです。砂浜のあるところですが、そこで暮らしました。別居ですね。
 そしたら、またその半分に、将校(しょうこう)さんの奥さんが来るんだから、半分寄越せと言われて半分やった。
 その奥さんが、「トシコー」って呼ぶのよ。「美味しいもの作ったから、食べに来なさーい」って、ソ連兵の家族と行ったり来たり。仲良くなってね。私、洋裁(ようさい)が好きなものだから、弟や妹のものを作っていたから、「うちの子供の服も作って」って。それで、作ってやったりして。
 そうすれば「今ご馳走をつくったから食べに来なさい」って。「うまくできたね、何が欲しい?」って言うから「バター」と言えば、バターをくれたり、「トシコ痩せてる(やせてる)から、たくさん食べなさい」っていろいろくれるの。それに、「トシコ(洋裁が)うまいから」って、あっちこっちから他の奥さんたちが作ってくれって持ってくるんです。
 振り袖(ふりそで)でも留め袖(とめそで)でも。「これでムッシュとダンスするから、何日までに縫ってくれ」っていうの。スタイルブックを持ってくるから、ロスケの体に合おうがあわなくてもどっちでいいと思って(笑)。
 留め袖で作ると、模様が出るから、きれいにできるので。そうしたら喜んでね。奥さんたちに重宝(ちょうほう)がれられたけれどね。当時は学校にも行っていたから、忙しくて、忙しくて――。
 
「ホッカイドウ、ハジハジ」
 夜中の二時頃、ドンドンと起こされて、「ホッカイドウ、ハジハジ*」と。船が来ているから早く行けと。早くと言われてもね、着る物も持たなきゃいけないとかあるでしょう。リュックに入れて持っただけ。そして三時とか四時ぐらいには船に乗って。
 そういうことになるだろうという話はあったから、いつだかわからないけれど、支度しておいたほうがいいとは聞いてました。米や豆を煎って(いって)、臼で挽いて(ひいて)粉にして。生のまま持っていったって食べられないからね。そうしたものをリュックに詰めてね。
 いろいろ商売やっていたものだから、郵便局にお金はあったけれど、送金はできない。あれば没収されちゃう。お金があっても郵便局には持っていけない。だから、家族のリュックを作ったんですよ。で、リュックの底にお金を入れたんです。
 父はブリキ細工(ざいく)が好きだったから、女の子には底を二重(にじゅう)にして裁縫箱を、男の子には筆入れ(ふでいれ)を二重にして、底にお金を入れて。そして命令がある前に作っておいたんですよ。
 そしたら、ちょこちょこ遊びに来るロスケが「樺太(からふと)で、洋服屋がボタンの中にお金を入れて捕まってチョロマ*」だとか、「靴屋は、靴の底にお金入れてつくって、見つかってチョロマ」って。
 行くときは、お金は一人いくらって決まっていたのです。いくらだったか忘れてしまったけれど。お金にミシンの針の跡があってもチョロマ。そう聞いたから、針の跡があるお金は、しょうがないから全部引き出して。
 私は二十二年の十一月に引き揚げました。樺太*で十一月三日で明治節(めいじせつ)だねと行っていたのを覚えています。樺太の収容所で数日いました。函館から根室に来たのは十一月の末か中頃か。雪が降って。根室に親戚がありまして。親戚の石屋にやっかいになりました。
 ソ連兵から脱しただけで気分は楽になりましたね。夜になってからドンドンドンドンって外で叩かれるんですから。
 裁縫する鏝(こて)を火の中に入れておいたの。もし戸を蹴破って(けやぶって)入って来ておかしなことでもしたら、鏝を二つも三つも。それで立ち向かおうと思ってね。
 (暴力事件は)ありませんでしたね。紳士的でしたね。一緒にいたときにね、ロスケが「日本人はそれこそ、酷い(ひどい)ことをした」とね。「酷いことをやった。だけどロスケは酷いことはしない」と。「日露(にちろ)戦争のときは、女の人たちに火を付けて、みんな穴の中にいれて燃やしたんだぞ」とか「足をこっちとこっちを別々の馬に引かせて裂いただぞ」とか。本当かどうかわからないけれど、そういうことを聞かされたらざわざわっとしたけどね。意地悪い兵隊が来るとね(そんな話をしていった)。
 ちょっとでも反抗的になれば、意地悪もしたくなるんだろうけど、何が欲しいと言えば、「そうかいそうかい」ってくれたりするところもありましたから。
 
【聴き取りを終えて】
 鈴木としさんは、現在、根室市梅ヶ枝町で食堂を営んでいらっしゃいます。お店の名は「としのや食堂」。文字通り、鈴木さんご自身が創業したお店です。ご家族で経営されているご様子で、今も鈴木さんご自身が調理に腕をふるったり、店先で注文を取ったりと忙しく働いていらっしゃいます。
 聴き取りは、平成十八年九月二十一日の夕刻、「としのや食堂」の二階で行いました。お茶をいただきながら、約二時間インタビューさせていただきました。
 鈴木さんのお話で印象的なのは、やはりソ連兵が教室に進入してきたシーンでしょう。当時を語る鈴木さんは、まるで昨日のことを語るかのように、生々しく描写してくださいました。
 得体の知れない軍艦が静かな入江に現れて、ソ連兵が大挙上陸。学校背後の山に銃を据え付けました。さらには、銃で武装したロシア人の大男が数人が小学校の教室にいきなり侵入してくるのです。
 もしそういう状況に置かれたら、私ならどうしていたでしょうか。まったく想像がつきません。鈴木さんのように毅然とした態度でソ連兵に向き合うことはできたでしょうか。
 足ががくがく震えたということですが、咄嗟(とっさ)の判断で侵入してくる兵士に手をさしのべあいさつをし、そのまま授業を進行した鈴木さん。じつに堂々とした態度です。ソ連兵も鈴木さんの落ち着いた態度に安心し、敬服したに違いありません。この毅然とした態度が子供たちの命を救ったのです。
 また驚かされたのが、その後約二年に及ぶソ連兵たちとの「共同生活」です。私はいくらか歴史に精通している方であると自負していましたが、こんな歴史があったとは、今回お話を伺うまで知りませんでした。ソ連が侵攻して来るなり、島民たちは強制退去させられたものと理解していたのです。
 平和だった島に突如現れた外国の軍人・兵士たち。当然、何が起こるかわかりません。ましてや妙齢の女性教師、身の危険とは隣り合わせです。布団部屋に姉妹で隠れ、その後も村の人たちの警護を受けながらの教師生活――。極度の緊張感を強いられた日々が二年も続いていたとは・・・。
 平和な時代に生きる私たちには、それがどのようなものであったのか、なかなか想像できるものではありません。
 しかし、鈴木さんはいたって冷静に客観的に当時を振り返り、時にはユーモアを交えながらお話になりました。遠く昔の出来事だからなのでしょうか、私はそれだけとは思えません。この時代の日本人、それもフロンティアともいうべき北方の島々の人々だからこそ色濃く持つ精神の強靱さ、度量の大きさ、大らかさに裏打ちされているのではないか――お話を伺いながら、私はそう確信したのでした。(盛池雄歩)

穴澗(あなま)
 島の北岸中央部の地域。旅団本部が置かれていた。
 
ホッカイドウ、ハジハジ
 「北海道へ行け」という意味で語られた言葉。
 
チョロマ
 ロシア語で監獄を指す。
 
樺太(からふと)
 現在のサハリン。戦前まで南半分は日本の領土であったが、ソ連によって占拠された。北方四島からの引き揚げ者は樺太の収容所を経由して、日本(函館港)に向かうこととされていた。


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