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「お国のために」と乞われて教員に
 私は、生まれは根室なんです。色丹へ移ったのは二、三歳のころだったと思います。そのころのことは覚えていません。父や母からもあまり聞きませんでしたからね。家は旅館やたばこ、雑貨商(ざっかしょう)などいろいろやりました。豆腐もコンニャクも作っていました。食料品店のような。根室では違うことをやっていたようですが。
 父母はいちど志発島(しぼつとう)*に行ったようですね。志発に行って、缶詰工場で働いて。その後色丹に行って居を構えたようです。父は九州の長崎、母は山形の出身です。結婚は志発でのようです。
 
色丹神社
 
 父は、朝から晩まで働く人でした。旅館だけでなく、料理屋もやりました。人も雇っていました。十人くらい。男の人が二人。女の人が七、八人。結構忙しくて、私も学校にいても、帰ってくると旅館の料理の支度(したく)とか。朝もご飯の支度を手伝ったり、結構忙しく働いていたので、いまだに働くことは苦にならない。のんきにしたいと思ってもね(笑)。
 色丹の尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)*を終えて、根室に五年、女学校に。それが裁縫(さいほう)女学校なんです。裁縫以外の勉強も一週間に一回はありましたけれどもね。ほとんどが裁縫をする学校。そこを卒業してから、島の家に帰ったら、待っていたんですね、島の人たちが。
 あんたが先生になるようにと言われたけれど、私は人に教えるような立場じゃないから駄目だと言ったんですが、「お国のためだから」と、「あんたよりいないんだから」と村長さんや校長先生、それから有志(ゆうし)の方が四、五人みえて言われました。色丹島では先生方がみんな招集(しょうしゅう)で戦地に行ったので、いなくて困って、急遽(きゅうきょ)私にやれということでした。いわゆる代用教員ですね。
 昭和十六年のことですね。大東亜(だいとうあ)戦争の始まるちょっと前くらいでした。七月ころかな。学校に行ったのが夏休みが終わった頃ですから。夏休みには根室に来ました。錬成(れんせい)講習会というのがあったんですよ。教職に就く人たちが集まって、十日くらい教え方を教わりました。
 夏休みが終わり、九月になって学校に行ったら、「助教(じょきょう)を命ず」って。二十一歳のころでしたね。赴任したのは色丹国民学校*でした。戦争の直前です。一年生から四年生までの担任をしていました。四学年一気に。大変でした。
 算数なら、「何年生は何ページを開いて、ここをやりなさい」、「何年生は小黒板のこれをやりなさい」、「何年生はこの小黒板を見なさい」って。十人ずつぐらいを一斉にやりました。
 当時の子供たちは素直でしたね。昔の子供は性質が可愛かったというか、叱られるとうつむいて「はい。わかりました」って。でも、すぐ忘れてしまう(笑)。仲がいいと思えば、取っ組み合いの喧嘩をしたりね。けれども止めると、さらっとやめて、「はい握手」って。そうするともう忘れちゃうんですよね。うじうじしていない。
 
千島黒ノリの製造
 
島ではみんな顔見知り
 親御(おやご)さんも、何かあれば、「うちの子は夕べこうだった」と教えてくれますね。そうすると「でも、学校ではこうだったよ」とかねぇ。コミュニケーションは親御さんとも子供ともとれていましたね。
 お家ではしっかりと(しつけを)やっていたようですね。教科は算数、国語、国史(こくし)*、理科――。低学年は自然の観察。学校の脇に畝(うね)をつくらせて一年生は何の種をまく、二年生は何の種をまく。そして何日目に芽が出てきたとかね。そういう観察をしたり、山に行ったり。そこで何の芽が出ていたとかね。
 運動会は九月の二十四日に必ずやっていました。学芸会もありました。学芸会も盛大でした。みんなお弁当やお寿司を作って、父兄が見に来たんですよ。私が子供だったころも楽しみでしたし、教師になっても皆さん楽しみにしていましたね。島ではみんな顔見知り。仲良くやっていたんです。
 
色丹小学校の運動会
 
 家の前を通りかかったら、「どうしてる?」とか「帰りに寄って行きなさい」とかね。それで、家の中に上がってお茶飲んだりお菓子食べたり。
 私の家の前を通って学校へ行く生徒は、毎朝、「先生、行きましょう!」って生徒が呼びに来て、一緒に学校に行くんです。途中、やはり生徒の家があって。八時頃家を出て、学校までは二十分くらいかかったかな。授業は九時から始まり、夕方の三時くらいまでありました。
 道は舗装されてなかったのですが、土が固まっていて、けっこういい道でしたよ。ぬかるみでなくね。途中で砂のところもありました。砂のところは肥料場です。鯨会社とかから肥料にするものを持ってきて、ムシロを広げて干すのですね。通れる道がちょっとあるくらいで、あと全部砂になっている。道幅は二メートルあるかないかくらいでした。それでも、村の中の大きな通りでした。そこを歩いて生徒と一緒に学校へ行きました。
 消防訓練もありましたね。めったにやったことないけれど。一ヶ月にいっぺんだったかな、隣組(となりぐみ)*もありました。(他の島との交流は)あまりありませんでしたね。根室へはたまに買い物に。学校に行くようになってから、一度か二度ですね。講習会があったんですよ、そのときに出てきたようなものですね。
 玉音放送(ぎょくおんほうそう)*はガーガーといっていて雑音であまり聞こえませんでした。天皇陛下の声は聞こえたけれども、何を話していたかあまり分からなかったです。ちょうどその日は女子青年団で、わら人形をつくって、竹槍(たけやり)を持って、(敵兵が)来た場合に、やーっとやるという訓練*をやっていたんです。そうしたら天皇陛下の話があるから学校に集まれと。
 
高台の銃口が教室を向く
 九月一日は、秋晴れのいいお天気の日でした。学校に着いたら、生徒がわーっと集まってきてね、「先生、あれ!」って。大きな軍艦が入ってきたんですね。軍艦は沖の方でしたが、他の漁船なんかとは比べものにならない、初めて見るような大きさでした。そのときは、アメリカだかソ連だかわからなかったんです。
 見ていたら、小さいボートにたくさん移ってきて、どんどんどんどんこっちに向かってきたときに、朝の授業の鐘がなって、教室に入ったんですよね。
 
色丹小学校
 
 教室に入って、授業が始まるか始まらないころに、学校の向こう、山の上に兵隊が集まって。山に登って、機関銃のような台を据え付け(すえつけ)たんですね。そうなると、勉強も手につかないんですよね。
 「先生、あれ、あそこに機関銃だか据え付けて、銃口(じゅうこう)がこっちの教室の私たちのほうを向けている」っていうんだよね。撃たれるんじゃないかと。そうしたら、生徒もおっかなくて勉強どころじゃないのね。学校に入ってこないだろうかと。どんどんどんどん兵隊が上がったり、下りたりしているんですよね。そしたら、学校に用事があって来るわけじゃないから、軍の武装解除(ぶそうかいじょ)に来るんだと言いました。そう言うことは聞いていましたから。
 武装解除だから、学校には来ないよと生徒に言ったんですが、「でも、来たらどうする」って。銃口こっち向いてるから、撃たれるんじゃないですかって。
 距離は、遠くなんですけどね、五百メートルくらいかな。グランドがあって、グランドの下からずっと山になっていたから。兵隊の数は、どれくらいあったんでしょうかね。台座(だいざ)を据え(すえ)てね。
 「大丈夫。来ないから」と言いましたが、私も来るんじゃないかなと思っていました。でも、「来るかもしれない」なんて言ったら、生徒が恐ろしがると思ったから、「武装解除に来たから。軍に用事があって来たんだから、何かあって来るようなことがあっても、あなたたちは勉強しているんだから、先生のほうだけ見て、入ってきてもそっちを見るんじゃない。こっちだけ見ていなさい。そっちを見たらだめだよ」って。
 外国人なんて見たことないですからね。きっと恐ろしい顔をしていて、見ただけでも怖いから、「絶対見るんじゃない。いつもの通りにしていなさい」と言いましたけれども、私だっていつもの通りにできるかどうか分からない。一人でも傷つけられたらたいへんだし。
 
色丹小学校裏の坂でスキー

志発島(しぼつとう)
 歯舞諸島の一島。面積約四五平方キロ。終戦時の人口二二四九人。歯舞諸島のなかでは最大の島。近海には、昆布などの豊富な水産資源がある。昭和二〇(一九四五年)、ソ連軍に侵攻占領された。戦前は歯舞村に属したが、昭和三四(一九五九)年より根室市に編入されている。
 
尋常小学校
 旧制の小学校。満六歳以上の児童を対象とした義務教育課程。修業年限は六年。
 
色丹国民学校
 昭和一六(一九四一)年より、尋常小学校は国民学校と改称された。
 
国史
 日本史の戦前における呼称。
 
隣組
 第二次大戦時、国民統制のために作られた地域組織。町内会・部落会の下に属し、近隣数軒が一単位となって、互助、自警、配給などにあたった。昭和二二(一九四七)年に廃止。
 
玉音放送
 昭和二〇(一九四五)年八月一五日正午、昭和天皇が終戦の詔書を読んだラジオ放送のこと。「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」の文句で知られるが、放送そのものは難解かつ雑音がひどく、聴き取れなかった人が多い。
 
竹槍訓練
 敵の襲来に備えて行われた訓練。婦人を中心に、竹槍を携え、敵に見立てた麦わらに突進するという訓練を反復した。


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