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聴き取りの記録(1)
鈴木としさん(85)
鈴木とし(すずきとし)さんの来し方
 大正十(一九二一)年十一月十八日、根室町生まれ。幼少期に色丹島(しこたんとう)*に移る。実家は旅館を営む。根室の裁縫女学校を卒業後、色丹国民学校の教員に。授業中、ソ連兵が教室に侵入してくるという極限状態を経験。その後、約二年に及ぶロシア人との“共同生活”を経て昭和二十二年十一月引き揚げ。根室市梅ケ枝町在住。
 
島の豊かな食卓
 私の家は(斜古丹(しゃこたん))湾に沿っていて、目の前が海でした。いい港でしたね。鯨(くじら)会社もこの辺りにありました。鯨が捕れるんです。あとは小魚がたくさん獲れました。引き網*で引いたりね。
 それから春先、氷があるうち――四月から六月ころまでは、まだ氷が割れたのがたくさん浮かんでいるときにカレイ網漁。朝早く獲りにいったんです。夕方、刺し網(さしあみ)*を入れてくるんですよね。
 朝すっかり明るくなる前には網を揚げるんです。そうするとカレイのえらが網に引っ掛かってたくさん獲れるんですよ。私も物好きですから弟たちとよく行ったんですよ。揚げてきて、そのカレイを冬のまかないとして干したり、子が入っているので、冷蔵庫なんかなかったから土を掘って樽の中に何か敷いて、そこに子を敷いて塩を振って蓋(ふた)をして、そして上からたくさん土を掛けて――。そうすると冷蔵庫の代わりになるんです。またちょこちょこ入れますからね。また子を入れて、塩をたくさん振って、それで冬のまかないにちょっとずつ取り出していただくんです。
 
斜古丹湾全景
 
 カレイは四月から六月くらいまで獲れるので、こうして仕込んでいると、冬になるとちょうどいいんです。それぞれの家で網を投げておくんです。引き網は全部の家にはありませんでしたが、小舟でちょっと行って、網を下ろして、魚が入るようにして、そして引いてくる。
 近所の家が網を入れると、近所からみんなで行って手伝いするんですよね。みんなで手伝って、そしてもらってくるんですよ。だから魚は買うということはなかったんです。
 カニとかエビ、カジカ*、コマイ*、チカ*――いろいろな魚がたくさんかかってくるんですよね。「どこそこで、引き網やるところだよー」という声が聞こえると、みんなパーッと篭(かご)を持って出ていくんです。
 私なんか、小さい時に引き網の所にいって、前掛けを広げてエビやら拾ってたら、隣のおばさんがね「としちゃん、としちゃん、そんなにしてないで、篭持っといで」と言ったんです。私は「篭取りに行くうちに、みんなに拾われてなくなるー」って言ってたって、隣のおばさんから、大きくなってから聞きましたね(笑)。
 誰の物というのでもなく、値段が付いているのでもなく、みんなで分けて食べるんです。食卓の上にはいろんなご馳走――カジカが捕れればカジカの味噌汁も出るし、カレイが獲れるとカレイの煮付けやら。
 刺し網なんかですと、カレイを干すんですよ。冬のまかないに。ガランガランになるように干しておいて、冬はストーブが燃えているところに、そのカラカラになったカレイをストーブの中に入れるんです。火が燃えている所にカレイを入れて。カレイの縁(ふち)が焦げてうまく焼けたら火ばさみで出してきて、そして石の上に置いて金槌(かなづち)でトントンと叩く。そうするとね、今、売っている珍味のような形になる。それを冬食べるんです。今考えると、豊かな生活でしたね。
 
東洋捕鯨場
 
 うちは旅館をしていましたから、(獲れた魚介は)旅館で使いました。うちの父が、手繰り(たぐり)っていうんですかね、袋のような網を持って、その綱をまくと、袋がだんだんと引かれて手元まで来るんですよね。すると、四斗樽(しとだる)*に半分くらい、大きなエビでいっぱいになって。私も一度やってみたいと思っていました。
 夏はノリを採りに行って、おにぎりには、自分で採ったノリを加工したもので包んで。カレイを焼いたのを叩いて。お弁当のおかずね。そして、石の上に腰掛けて、それをむしりながら。
 潮が引いていれば、石と石との間、チャポンチャポンと潮がきているところに手をやると、こぶしぐらいの大きなウニがピターピターッと(張り付いている)。小さいのは採らないの。小さいのがあったって、またこうして入れてやると、大きいのが見つかる。それをこまい石でトントン叩いて割って、塩水で内蔵を洗い流して食べながら、またおにぎりを食べたりね。
 
ノリ干し作業
 
村人総出のお祭り
 うちは十三人家族でしたからね。ちゃぶ台二つあわせて。子供十人いましたからね。ご飯はつば釜(がま)っていう、大きな釜で炊くんです。お米は島では穫れませんので、定期船が一週間に一回くらい、根室(ねむろ)と色丹を結んでいて、必要なもの――味噌、しょう油、塩、米などは船長さんに頼んで買ったんですよ。
 (島の学校は)全校で六十人弱でした。学校が四つありましたからね。色丹(しこたん)が本校、一番大きくてね。十人以上他の分校にもいました。生徒さんの家は、だいたい漁業をしていました。ノリを採ったり、フノリを採ったり。今、根室で漁業をやっている方はたいてい、島で漁業をやっていた方ですね。
 沖合(おきあい)ですと、コマイやカジカ、アブラッコが獲れました。あと、エビとか、カニとか。そういうものが獲れました。サケマスは、船を持ってもっと沖合に出て。湾の中は漁船が出たり入ったり。漁船がそうしてなんぼ出入りしていても、魚はどんどん入ってきて、湾の中の魚は新鮮でした。
 
いわし鯨の引き揚げ
 
 でも、以前北方領土に行ってみたら、魚は湾の中にいなくて、たまにいても、油臭くて汚くて食べられない。去年も行ってみたら、男の人たちが船で魚釣りしているんですよね。コマイとかカレイとかが幾らかいましたがどれもちっちゃくて。
 「獲れた魚は食べるの?」と聞いたけれど「いやいや、臭くて食べられない」と(笑)。随分海が変わったんですね。汚くなって、魚もいなくなって。
 神社のすぐ隣にうちの借家があったんですが、(地震で)そこも土砂の下になって。神社のすぐとなりに泥棒岩といって、大きな石があったんですが、その岩の裏に、うちの刀が二振り(ふたふり)あったのを、父と弟たちが埋めてきたって。今度行ったら掘ってくるかって言っていたけれど、みんな土で。
 神社の名前は、金比羅(こんぴら)神社*じゃなかったかしら。今でも一年に一回金比羅神社で色丹会*のお祭りをやるんです。当時も、神社ではお祭りがありました。家中全部出て、山車(だし)も出して。縁日(えんにち)も出ました。根室からいろいろ持ってきた人がお店を出して。
 お祭りは十月じゃなかったかしら。村の人たちは総出で。女子青年団*で、お祭りで寸劇(すんげき)のようなものをやってね。それからめいめい隠し芸をやったり、歌の上手な人は歌を歌ったり。女子青年団は十七、八から二十代の前半あたりでしょうか。十人くらいいました。お寺もありましたよ。
 島にはいろいろ肥料をつくる肥料場(ば)がたくさん出るから、そこで働く人がその時期になると増えるんです。冬はめいめいの家に帰るから、時期によって結構人は出ましたね。
 時化(しけ)になると、色丹は湾なので、マグロ船とか、たくさん入るんですね。風を待って。ぎっしり閉めきるように。

色丹島(しこたんとう)
 北方四島の一つで、納沙布岬の東に位置する。戦前、日本十八景に数えられた風光明媚な島。色丹島はアイヌ語で「美しい島」という意味を持つ。終戦時の人口は一〇三八人。
 
引き網
 網を水中で引き回し、浜や船に引き寄せて獲る漁法。
 
刺し網
 海中に網を帯状に張り、魚を網目に引っ掛からせて獲る漁法。
 
カジカ
 みそ汁や鍋の具として重宝がられる海水魚。ふだんは海底に棲息するが、冬季には産卵のため浅場に移動する。
 
コマイ
 漢字では「氷下魚」と書く。タラ目タラ科に分類され、全長四〇センチほど。コマイはアイヌ語で「小さな音の出る魚」という意味。
 
チカ
 サケ目キュウリ魚科ワカサギ属の魚。ワカサギによく似ている。北海道から東北にかけて棲息。
 
四斗樽
 一斗は一升の十倍、約十八リットル。四斗は約七二リットル。これだけの量の酒などが入る大きな樽。
 
金比羅神社
 北方四島には金比羅神社が多いが、これは高田屋嘉兵衛が文化年間(十九世紀初頭)に、各地に社を建てたのが源とされている。
 
色丹会
 元島民で構成する会。
 
女子青年団
 青年団は、地域に居住する青年で組織する自治団体。女子青年団はその女性版。戦前は修養、親睦、社会奉仕などを目的として活動した。祭や催しで中心的な役割を果たした。


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