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マンガリテラシーが創作力の原点 【日下公人】
 
 日下 マンガ・アニメをめぐるいろんな論点が出まして、まさにこれが日本人の多様性だろうと思います。25年前、イタリア、フランス、スペインなどを歩いていて、テレビをつけるとまず音が「マリアンヌ」とか「ジュリアン」とか出てきて、やがて絵が出てきてみたら『アタックNo.1』だった。登場人物の名前がフランス人の名前になっている。でも、学校の名前とか後ろの看板は漢字のままなので、これを見れば日本のマンガとわかりそうなもんだと思うけれど、もともと漢字も何もわからないから、まあそうなんだろうなと思ったことがあります。
 里中さんが、「私はデッサン力なんかないけどいいんだ。美しい女性はこういうもんだと、思うとおりに描くんだ」と。なるほど、里中さんにお会いしたとき、「あの美しい女性とそっくりの顔をしてらっしゃるな。自分の顔を描いていたんじゃないか」と思ったものでございます。
 日本人にはもともと漢字が絵なんですね。「女」という漢字は、女性が赤ん坊を抱いている格好なんです。「母」という漢字は、おっぱいが2つあるのを立てちゃった。こういうのを難しく言うと、リテラシー(読書力)ですね。あれはマンガを見てわかるのと同じことなんです。私は学生のころリテラシーがあるほうでありまして、真面目な本を読んでいても「女」という文字を見ると、むやみに興奮いたしました。たったこれだけの三角の組み合わせを見て女性をイメージするというのは、読書力としてはちょっと行き過ぎではないかと思ったことがあります。
 最近、電車の中で若い人がマンガを読んでいるのを見ると、ものすごくスピードが速い。しかも、ちゃんとわかっているんですね。ストーリーも、主人公のキャラクターもわかっているし、「あ、こいつは今に死ぬぞ」と、終わりまで読んじゃうわけです。だから、マンガのリテラシーは、ものすごく発達している。文部省はこういうのを学力とは認めないのが遅れている。リテラシーといえば学力のように聞こえるけれど、そういう学力は日本人の間でものすごく発達していて、ここから創作力が出てくるんだろうと思っています。
 日本のマンガ・アニメが世界の子供の心を変えるという話もあるんです。ポケモンを見たアメリカの子供は心の中が日本人になると、アメリカのPTAから聞いたことがあります。アジアの子供はもうおおかた日本人になっちゃいました。それを日本人は気がつかない。アジアの人も気がつかない。気がつくのはイギリス人なんですね。イギリス人は、文化的に世界を洗脳して、イギリスが世界一であると思わせて大変得をしてきました。それを今は日本人がやっているとは、けしからん、許せん、怖い。これはロンドンの「エコノミスト」という雑誌が書いたんです。日本のマンガ・アニメでアジアの人は心の中が日本崇拝になっているから、これは日本の外交・防衛に大変な貢献をするであろう、と書いてあるんです。それから、日本が儲けられる、将来有望な産業であると。
 ハローキティちゃんをビル・ゲイツが買いに来たんです。あれをWindowsに入れておけば、日本のOLが喜んで買うであろうと思ったんでしょうね。で、つけた値段が7,000億円だったという噂があります。あんなネコの顔で、丸描いてチョンチョンてやって、ヒゲがピュッと生えてて、リボンつけとけば7,000億円ですからね。それでもまだ辻信太郎さん(サンリオ社長)は売らなかったわけですけれど。だから、皆さんのお子様は、勉強なんかしてる場合じゃないですよ。マンガを描いてるほうがいいんですね。マンガは勉強の邪魔ではなく、勉強はマンガの邪魔である。私はそう思っております。
 本当に議論したいのは、創作力という点だと思っております。日本には原作をつくる力がある。原作をつくる力がない人は、そういう話をフォローしません。里中さんと弘兼さんのお話だけで終わっちゃうわけであります。そのへんをここでもっと掘り下げられればいいなと思います。
 
 谷川 ありがとうございました。
 前半でお2人のマンガ家の先生にお話をいただきましたけれども、今回のテーマ「マンガは世界に何をプレゼントできるか?」について、マンガ家の立場からご提案、ご意見をいただければと思います。
 
マンガで自己表現力−世界の子供達に− 【里中満智子】
 
 里中 人は、何かで自己表現したいと思うものです。それは、話すことだったり、文章を書くことだったり、歌うことだったり、いろいろあります。実は私は、どんな子供にも生涯に一度は、数ページでいいから、数人のキャラクターをつくって、マンガを描いてほしいと思っているんです。
 マンガを描くには、最初に言いましたように、絵がそんなにうまくなくてもいいんです。自分の思いをキャラクターを通じて言わせる力が持てれば、すべての子供たちが自己表現力を持てるわけですね。文章だけだったら、文章能力がないとだめです。絵だけで訴えようとしたら、絵が上手じゃなければいけません。言葉で訴えようとしたら、人前で話せる度胸がいります。マンガは、ストーリーをつくる力、脚本をつくる力、画面を構成する力、キャラクターをデザインする力、すべての能力を集めて描きます。
 そして、私たちは効果と言ってますけど、絶対に見えない風なんかも描く。風が何かを動かすから風があるとわかるんですが、マンガの中ではごく当たり前に風の線が描いてあり、これをみんな受け入れています。こういうすごいことをやっているわけですね。
 そういうすべての力を結集させて、「マンガを描いてみようかな」「自分の考えたキャラクターを動かしてみようかな」と思う気持ちを与えるだけで、何か自己表現につながる強い後押しができると思っています。
 道具はとくにいりませんので、世界の子供たちにぜひマンガを描こうという気持ちになってほしい。人は自分が何を表現したいかで、自らのアイデンティティを確認していくものだと思います。自分自身が何者であるかを知ったとき、初めて人は大人になれるわけですね。これからの教育現場においても、また、教育を受けられない地域の子供たちについても、自らが何者であるのかを知ることはとても大事だと思います。そして、同じテーマで、同じセリフで、同じ角度で絵を描いても、絶対1人ひとり違うキャラクターになってしまうものです。これこそが、1人ひとりがかけがえのない存在だということに子供たちが気づく、大変わかりやすい方法ではないかなと思っています。
 「マンガは世界に何をプレゼントできるか?」未来の子供たちが自らを見つめ、自らに自信を持つ目を、マンガという分野はプレゼントできると思います。この場合のプレゼントというのは、日本語的表現のプレゼントです。
 
 谷川 私は教育学が専門ですが、キャラクターをつくって動かすというのは、教育論としてもすごく面白いんです。NHKの「課外授業ようこそ先輩」という番組に、里中さんも出られているんですけれど、何人かマンガ家さんが自分の母校で授業をしているんですね。そのなかで、ちばてつや先生は、子供たちに自分の好きなキャラクターをつくらせた。子供に自分を見つめなさいと言ったって、そんなに簡単に自分を客観できないんですが、好きなキャラクターに自分を託して自分で動かすことで、見えてくるものがいっぱいあるんですよ。そういう意味で、里中さんのお話を感動して聞いてしまいました。では、弘兼さん、お願いします。
 
 弘兼 私は、子供とは離れた概念でお話しします。今回のテーマの「マンガ」を「日本マンガ」に変え「日本マンガは世界に何をプレゼントできるか?」とすると、マンガは子供のものだと思われている国が多いので、マンガというのは、単なる子供向けではない、笑いだけではない、そして軽薄なものではない、情緒的なものであり、感動を与えるものであり、そして重厚なものでもある、そういうメディアであるということを世界にプレゼンテートしていきたいと思います。
 
 谷川 ありがとうございました。大塚先生はOHPを使いながらお話をされるので、セッティングの時間を休憩とします。
 
【休憩】
 
 大塚 ※レクチャーは図版がないと伝わり難い内容のため、割愛します。内容としては拙書『教養としての〈まんが・アニメ〉』『アトムの命題』で繰り返したことで、手塚治虫の「戦時下の子供」としての体験が、まんが表現に身体性を発生させ、それが戦後まんがを特徴付けているという主張です。日本のコミックの特異性の根拠を「日本の伝統」ではなく、この国の戦時下、戦後の歴史に見出そうとするぼくの立場は表明しておきます。
 
 谷川 どうもありがとうございました。大塚先生には大学で10何時間かかる内容を、本当に短い時間でしていただきました。里中さんと弘兼さんに、今の見解についての簡単なコメントをお願いできればと思います。
 
 里中 今の講演で刺激されて思い出したんですけれども、私が子供のころ主流だったのは、劇画じゃないほうのマンガですね。でも、そのキャラクターたちが嘆き悲しんだり、血を流したり、死んでいったりというのをリアルに受け止めてましたね。確かにデフォルメされた存在が生と死をちゃんと演じてることを、絵空事でなく受け止めていた。それを自然に受け止めていた自分の、読者としてのあり方。これはマンガ読者としてのあり方だけではなくて、育っていく過程で、自分が一己の人間であるとわかりつつある過程の中で、何かとても重要なものだったような気がしています。すごい刺激を受けました。
 
 弘兼 何か大学で講義を受けているみたいで、そういう考え方もあるんだなと、ちょっと驚いて見ておりました。手塚さんはウォルト・ディズニーの影響を強く受けている人で、初期のころ、手塚さんのマンガの指が4本しか描かなかった時代がありました。手塚さんはそれを「簡略化」とおっしゃったそうですけれど、あれは間違いなくウォルト・ディズニーの動物キャラクターの影響を受けている。その手塚さんの影響を受けて、石ノ森さんとかその他の人たちも、初期のころは全部指が4本でしたね。そういう形で、ディズニーの影響がすごい強いということ。それとウォルト・ディズニーは、日本のことをあまり好きではなかったらしくて、実は太平洋戦争のときに国威高揚というかそういう方についてらしたそうで、そんなことを手塚さんのマンガと比較されて、そういう見方があるなと思いました。
 
 谷川 大塚さん、何かコメントありますか。
 
 大塚 里中満智子先生の世代を、我々マンガファンは「24年組」という風に一種リスペクトして申し上げていますが、少女マンガの中で里中先生たちの世代が画期的だったのは、少女マンガ表現の中にも生身の女性たち、思春期を迎えて、初潮を迎えて、性というものをどうやって受容していくのかという過程を、直接的にではなく、暗黙のうちに抱え込みながら葛藤する女の子たちとして描いていた印象があります。そのことが里中先生たちの世代のマンガ家が、すぐれた表現を生んでいくきっかけになったと、一人の読者として思います。里中先生のマンガは、10代前半の女の子たちにとって性という切実な問題を抱え込んでいく中で、女性たちの心をきちんと描いていかれた。そういう作家だということを、蛇足ですけれど、補足しておきます。
 
 谷川 里中さん、いかがですか。
 
 里中 あまり自分自身のことは語るべきじゃないとは思っているんですけれども、私自身がどうしてマンガを描きたかったか、マンガ家になりたかったかということとつながってしまうので。私が小さいころのマンガで私が面白いと思ったのは、少年マンガだったんですね。少年たちが身体能力を生かすということは、彼ら自身の生き方につながるわけです。ところが、少女マンガの中で描かれていた少女たちは、ほとんどが状況の中にある運命でしかなかったわけです。ヒロインたちはほとんど何も考えていなかった。悲しい、さみしい、うれしいという感情はふんだんに表しておりましたが、何を考えて悲しがっているのかが、ほとんど描かれていなかった。
 少女マンガにおける手塚作品は、初めてストーリー性をきちんと見せたというので画期的でした。次に、石ノ森章太郎さんが、初めて感性というものを画面に表したわけですね。ところが、所詮彼らが男性であったからとは言いたくないんですけれども、少女マンガの中における少女たちは、ほとんどすべてがある設定における存在、象徴としての存在でしかなかったのです。
 そこに登場したちばてつやさんは画期的でした。私が読者として感じた、初めて自分が女だと意識している女の子だったからです。その女だという意識の仕方も、女であることを武器にしたくない女の子が描かれていたのです。『ゆかをよぶ海』では、彼女はちゃんと自立していたので、私は大変感動しました。これこそ少女マンガで待っていたヒロインだ、と。
 だから、本当に笑い話なんですが、「ちばてつや」っていうペンネームだけど、きっと女だろうと思ったんですよ。その後、小さい写真を見て、どうも男みたいだけども、そうかゲイなんだなと思って、納得したんです。その後しばらくして、ちばてつや先生が結婚なさいましたっていう記事を読んで、世を騙すためにこういう形をとったのかなと思ったんですけれども、後になって、もちろんごくごく真っ当な男性だとわかりました。
 それほど渇望していたわけです。自分自身がマンガ家になったとき、自分で考える女を描きたかったんですね。状況とか設定というのは、誰の人生にも起こりうる、与えられたものですが、そこでどう生きていくのかは、多かれ少なかれ、皆自分で考えて選びとっていく。その選びとるところに主人公の生き方が現れるわけで、それを描きたかったのです。
 現場の苦労っていうのはあまり語るべきじゃありませんけれども、デビュー当時まだ若かったですから、編集者からは、可愛げのある、同情されるような主人公を描いたほうが絶対いいのにと、いろいろレクチャーを受けましたけれども。
 大塚さんに言われて、ああ、そうだなあと。何ゆえに描いてきたのかということを、若いころのことを思い出しました。変な言い方ですけれども、ありがとうございました。
 
 谷川 少女マンガの問題に話が進んできたんですけれども、阿部先生はたぶん「少年ジャンプ」とか「少年マガジン」という話になるんじゃないかと思いますが、ご提案いただきたいと思います。


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