日本財団 図書館


■質疑応答
 谷川――フロアの方から、何か質問、意見等ありましたら、ご発言をお願いします。
 
 参加者1――橋本と申します。出版社関係の団体におります。犬木先生から自主規制についてお話がありましたが、例えば「少年ジャンプ」などが600万部なりを維持するためには、返品率が5%でも大変だということで、表現上の問題でびびることもあったと聞いています。有害図書に関しては、「少年」と冠してあるから子供が読むマンガとしては内容がそぐわないという話になるわけですが、出版社側は、少年の頃に「ジャンプ」を読んだ方たちが大人になってもまだ読んでいるから、読者層は非常に幅広いという説明をします。規制したい側は、それを理解しなかったのです。
 何が有害かはほとんど証明できないと、学者は言っています。それでも何年かごとに有害図書問題が起きるのは、国会議員の選挙があるとか、宗教団体の動きなど、いろいろな要因はありますが、規制の運動をする側としては何かをしなければという思いがある。その時に誰が火をつけるかが問題なのです。
 マンガは少年非行との関係で論じられることが多いです。戦後、非行のピークは4回あって、第1次が昭和26年で、槍玉に上がったのは青春映画でした。第2次は昭和39年、オリンピックの年で、テレビが槍玉に上がった。第3次は昭和58年で、少女問題。そして第4次が、平成2年から5年にかけて、ポルノコミックでした。ある学者は、これは槍玉に上がったものが本当に問題だったのではなくて、ただ結び付けられただけではないかと言っています。非行のピークの時に盛んであったメディアが流行るまでに少しタイムラグがあるはずだというのです。荻野先生が言われたように、凶悪な非行は減っているにもかかわらず、新聞等が書きたてるし、警察も大袈裟に煽る。表現の問題もさることながら、影の部分としてうまく利用されているのが、古典的メディアである出版物、特にマンガだと思います。
 
 谷川――日本では新しいメディアが出てくると、必ず影の部分を指摘されるものです。例えば、ワープロが出てきた時には、漢字を忘れるんじゃないかと言われましたし、携帯電話が出てきた時にもそうでした。マンガが隆盛を極めていこうとする時に、やはりマンガの影を指摘されましたが、今、マンガが元気がなくなってきたら、あまり指摘もされない。
 今のお話を伺っていて思ったのは、長野県の県知事選です。あれはどちらが光か影かを考えると、今まではたぶん県議会議員の方に光が当たっていたと思いますが、田中康夫さんは今まで光が当たっていなかったところに光を当てたのでしょう。それを考えると、どちらが光でどちらが影か、大変面白い。犬木さんの作品も、いじめにあっていた子供たちがダンボール一杯の感想を寄せるということは、その作品によって影の部分に光を当てたということです。犬木さんが意図的に慈善行為をしようと思ったわけではないにしても、結果的にはそうなったんですね。
 
 犬木――そうですね。描いている時には自然な感覚でした。ニュース報道されていた時は、逆に少し避けていたんです。恐かったんですね。でも、自分の中にも共鳴するものがあって、それでわざとタイムラグを置いて、静まった頃に連載を開始しました。そうしたら、今度はいじめというよりも犯罪と言えるような事件が報道されるようになったんです。
 
 谷川――お2人の社会学者のご意見を伺ってみましょう。
 
 馬居――非行のピークの話がありましたが、犯罪発生率というのは取締り率ですから決して客観的なものではなく、当局がその気になって取り締れば犯罪率は高くなるんです。本当は昭和20年代前半のほうが犯罪は多かったはずですが、昭和26年といえば戦後の混乱期から秩序を取り戻そうとする時期だったので、いわば光を再び取り戻そうという時に影が必要になったということだと思います。昭和39年は、オリンピックの前に日本をきれいにしておこうというので、たくさん捕まえた。逆に一番低かったのは、昭和43年です。それは私たちが騒いでいた頃(学生運動)で、警官がみんな公安の方へ行ってしまったから、非行の方へは向かなかったといえます。
 ただし、平成2年ごろの有害コミック問題は、そう単純ではないと考えています。やはり売る側の堕落はあったと思います。同時に少年誌の宿命みたいなところがあります。読者の年齢が上がっていくのにつれて少年誌の範囲を逸脱していくと、年齢の高い人はついていくけれど子供たちはそれを拒否するようになる。「少年マガジン」が「少年ジャンプ」に負けた理由の一つです。若年層の領域を「ジャンプ」に取られたからです。その「ジャンプ」も団塊ジュニアの成長と共に600万部まで行ったものの、現在はかなり減少しています。毎週600万部を維持するのは大変なシステムが必要になります。出版はクリエイティブな世界であると同時に、企業としてシステムができていますから、どこかが詰まると崩壊してしまうのです。
 また、先ほども述べましたが、作家の問題としては、今の若い人たちの才能はもうマンガには向かっていなくて、むしろゲームに向かっていると言われます。現在の社会がマンガを最先端のメディアとして選ぶかどうか、様々な課題があると思います。
 いじめの問題について私なりに整理してみますと、学校が拡大する社会は、子供が商品としての文化を消費する社会に転換すると同時に、子供自身の文化が消えていく社会でもあるということに関係すると思います。子供だけの世界がなくなって、大人の世界がどんどん広がっていく。では、学校でもない、家庭でもない、子供自身が実感している世界、生きている世界を、誰が表現しているのか。これまで日本でマンガがリードしていたとするならば、その部分にマンガは様々な手を尽くして、子供の世界に入っていったのだと思います。マンガを読んでみると、先生はたまに出てきますが、親はほとんど出てきません。『ちびまる子ちゃん』は家庭マンガですが、「ジャンプ」的世界、あるいは「花とゆめ」においては、家庭は出てきても、通常の光の世界における親子関係はほとんど出てきません。友人関係がほとんどです。つまり、学校でもない、家庭でもない、いわゆる地域でもない、今を生きる子供たちが模索している世界を描いていると思った時、子供はそこに自分を見出し、ファンレターを出すことになります。逆に言えば、そういう世界に向かったメディアが他にあったのか、ということだと思います。
 
 荻野――犬木さんのマンガは、ある種の癒し効果を持っていたのでしょう。おそらく多かれ少なかれ誰でもいじめられた経験はあるのでしょうが、あまり他人には言えない中で、マンガを読んでいじめられることは誰にでもあることが分かると共に、いじめられっ子が仕返しをすることで、自分もスカッとする。そういう効果を持っていたわけですから、多くの子供たちにとって、有害どころか薬としての機能があったわけです。
 マンガは現代社会を考えるうえで大変意味があると話しましたが、犬木さんの言葉で、マンガ家自身が社会の動きを考えながら描いているということを聞けたので、個人的に大変参考になりました。
 先ほどフロアから、有害コミックについて、いくつかの団体から反対運動が起きるという話がありましたが、私が調べたケースではかなり自発的に起きた部分がありました。和歌山県田辺市では母親が集まって、一部の性的表現に問題のあるマンガを排除しようとする運動を起こしていた。ある力を持った団体が運動を起こしたのではなく、母親たちの言葉を借りれば、「有害」なマンガを本屋に並べておくのはおかしいという気持ちから、そういう運動が起きたということでした。
 また、1990年代に東京都が有害コミックに関する調査報告書をまとめています。性的表現に関して批判的な報告書ですが、この場合は子供に害悪があると言っているのではなく、性的表現の中で女性が不利な扱いを受けている、つまりフェミニズムの立場から性的な表現は男女差別を助長するから良くないという考え方です。これは90年代の新しい動きだし、もしまた有害コミック問題が出るとするなら、性的表現に関しては男女差別の問題に絡めて批判される方向に変わっていくのではないかという気がしています。
 
 馬居――ついでに言えば、手塚治虫さんの『ジャングル大帝』が引っ掛かったのは、黒人の表現に関するもので、人権問題でした。光と影で言えば、マンガは常に影の部分を描いていたと思いますが、男女差別も含めて人権問題を出されると、結構しんどいことになると思います。古典落語が喋れなくなるのと同じ形です。文化が持っている活力の部分でもあるのでしょうが、差別は常に内包されていたので、それを全部排除しろと言われるとどうなるのかなと思います。しかし、もちろん、人権問題は考えていかなければなりません。
 いじめについて、補足しておきます。うちの大学ではいじめに関する総合科目というのがあって、そこで毎年アンケートをとっているのですが、何らかの形でいじめに関わったり、見たり、聞いたりしたことのある学生は全体の8割でした。その結果に対する学生の反応は、ないという2割の人が問題だ、そんなことはありえない、もしくはその2割は全く人間関係がないのだ、というものでした。言い換えれば、いじめが日常的にある中で、それを人に言えないし、それぞれが閉じているために、講義を聞いてやっと自分だけでないことが分かった。そして、学生たちは2割の方が異常だと問題視した。これがたぶん現実だと思います。
 
 谷川――それをどう評価するかは、意見の分かれるところだと思います。
 フロアから発言をどうぞ。
 
 参加者2――横山隆一マンガ記念館の佐竹と申します。本日の参加者の中では最高齢に属していると思います。先生方のお話を聞いていて、皆さんお若いと思いました。皆さんが対象にしているマンガは、日本的なストーリーマンガですが、伝統的な日本のマンガは一こまあるいは四こまであって、これらは諷刺やユーモアを1つのスピリットにしているのではないかと思います。言ってみれば、自分が影にいて、世の中に光を当てるものです。そういうものは、先生方がおっしゃるようなストーリーマンガにはほとんどないと思います。そういう意味では、これらをいっしょくたにマンガと呼ぶのはおかしいような気もします。伝統的なマンガは、批評によって世の中をある程度矯正してきたのではないかと思いますが、伝統的なマンガがなくなったら、それらが果たしてきた役割も失われてしまい、そうすると世の中は良くならないのではないか。いかがでしょうか。
 
 馬居――伝統的なマンガはなくなった訳ではなく、新聞には一こまマンガが載っています。ストーリーマンガに批判性がないというのは、実際に読んでもらえば分かると思いますが、様々な批判意識はストーリーに散りばめられています。
 
 荻野――おっしゃる通り、戦前からあるような諷刺マンガとストーリーマンガは分けて考えるべきだと思います。別のものと考えた方がすっきりする。諷刺マンガは政治などを批判の対象としていますが、ストーリーマンガの場合にも対象は違っても批判性は持っています。


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