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「ファンタジー作家のコメント」中山星香
 
 谷川――中山先生は、いわゆるファンタジーを描く代表的な作家として活躍されています。絵が細かくてきれいというだけではなく、きちんとした理論がある方です。
 
 中山――今日は原稿の締め切りがあったので会場へ来るのが遅れましたが、仕上げをアシスタントに任せ、担当の編集者に睨まれながらやって来ました。でも、先生方がマンガを授業に使う方法論、子供たちにどういうアプローチをさせるかというお話を聞いていて、凄いなと思うことがたくさんあったので、来て良かったと思います。
 マンガ家にも何種類かあって、マンガを描くためにマンガ家になった人間と、たまたまマンガで表現している人間がいますが、私は後者です。作品を作る時に、マンガではなく実写の映像としてすべてを考えています。頭の中に擬似空間を作り出して、多数の国があるならそれらがすべて同時に、今の地球に多数の国が存在するように、存在しています。どこかで魔法を使ったら、その影響がどこまで及ぶかという理屈も含めてすべて展開させて、話を作っていきます。
 それを表現する手段は、文章でも、マンガでも、映像でも良かったのですが、マンガを選んだのは第1に、手塚治虫先生、水野英子先生といった素晴らしい先達がいらしたということがありますが、それだけでなく、文章というのは読者側にある程度才能が必要だと思うからです。
 先ほども言いましたように、私は小説を読む時にも、すべて頭の中で映像として動いています。ある時、友だちと話していて、「小説を1冊読むと、映画を1本見終わったような感じだね」と言いましたが、全然通じないのです。私は、例えば「森」と書いてあれば、頭の中に立体的な森が広がって、温度、湿度、香り、風の強さ、住んでいる動物などが浮かんできます。しかし、大学の先生をしている友人は、巨大な「森」という字しか浮かばないと言うし、メルヘン系のマンガを描いている友人は、映像は浮かぶけれど、自分好みのセピア色の映像になるそうです。そのマンガ家の妹でファンタジー系の小説家は、小説を書くときに、登場人物が頭の中の薄暗い舞台に現れてセリフをしゃべって去っていくので、それを文章に書いていると言うのです。
 つまり、文字では、受け手側にイマジネーションの世界がどのくらいあるかによって、伝わることと伝わらないことが起きてくる。それも面白いですが、私は自分の作品の中で、色々なことが起きた時に、人がどの人生を選んで生きていくかという瞬間がとても大事だと思っていました。例えば、瞬間に死を決意した人の眼差し、あるいは今まで感じたことのないほどの喜びを感じ取った時の人の感覚を絵として描けるので、自分の作ったファンタジーを読者に直接渡せるマンガという手法を使おうと思ったのです。
 後年、マンガを選んだことに対して、後悔することもたくさんありました。例えば、「絵にも描けない美しい存在」を絵に描いたらウソになりますが、マンガではそれを描かない訳にはいきません。「邪悪な闇のような力」を明確な形のない効果線のみで表現したいと思った時、編集者にはマンガだから形をはっきり描かなければだめだと言われました。描いたら恐くなくなってしまいますが、それでも描かなければいけないというので、ファンタジーをマンガで表現しようと思った私が間違っていたのかと苦悩しつつ、描いたこともあります。絵にしたら神性を失ってしまう神を絵にする場合、何を込めれば神性を読者に伝えられるかということは自分たちで考えていくしかありません。
 マンガの良さは、一目で読者に分かってもらえることです。城の攻防を描く時に、敵の兵士がどういう武器を持ち、どういう作戦を展開しているか、すぐに分かってもらえます。味方側はどのくらいの人数で、敵側はどれほど膨大かというのも、絵なら一目で分かります。但し、それを絵に描くのは、ものすごい苦しみがあります。文章なら「100万の兵が来た」と書けば済むところを、絵にするにはどうすればいいのか。ただ数を多く描けばいい訳ではありません。それを表現するのもマンガの難しいところです。
 近年、読者のお手紙などを読んでいて、若い人たちが文字に弱くなってきていることを感じます。私は日本語の文字表現が大変好きなので、これは悲しいことですが、現実的にそうなっているので、作家としては絵の助けを借りられるマンガを選んでラッキーだったかもしれないと思うことがあります。ただ、絵の助けを借りつつも、日本語の美しさ、言葉の深さを読者に認識してもらいたいという願いもありますので、先生方に頑張っていただきたいと思います。
 ファンタジー作品では、トールキンが言うところの「準創造」、つまり新たな世界のロジックを組み立てて、そこでの真実の生死がある中で、苦痛、悲しみ、喜びなどを描いていきますが、世界そのものが現実から離れていることが読者にとって重要なのかもしれないと思うことがあります。
 近年、子育て中にノイローゼになってしまったお母さんからよくお手紙がきます。病院の待合室で、たまたま私のマンガを読んではまったので、全巻揃えて、子供から離れて、2時間ぐらいこもって読んだ。それまで子供に暴力を振るいかねないほど追い込まれていたけれど、マンガの異世界で擬似現実の喜びや悲しみを体験したら癒されて、子供と向き合うときに余裕が出来たというのです。ファンタジーが、現実とは離れた別の世界の現実を扱っていることによる、一種のセラピー効果があるのかなと感じました。
 子供たちも今は色々と追い詰められていますが、別の世界なりの現実があるので、それを体験してくることで少し元気になれる。その世界では本当の苦しみや悲しみが描かれているので、かなり重いものを読者に渡しているつもりですが、逃げるのではなく、それを乗り越えて帰ってくると――そのまま現実の力になるかどうかは分かりませんが――生きていくのにちょっとだけガッツを持てるようなのです。そういう時にマンガ家であって良かったと感じます。
 
 谷川――今描いている作品のイメージが、高校生ぐらいからあったそうですね。
 
 中山――思い付いたのは中学生の時で、高校生から5、6年ぐらいかけて完成しました。ファンタジーもSFも、擬似現実でのロジックがあって、それがちゃんと構築できなければ成り立ちません。それを構築してイメージを作り続けて行くには、数年は必要です。全部作り上げずに勢いなどで描いていくと、世界のロジックが崩れてしまい、結局それはただのたわ言になってしまいます。私はそう思っています。
 
 谷川――そうすると学者の言っていることは、ほとんどたわ言ですね。それにしても、10代で世界が出来上がっていること自体、私には想像がつきません。それを天才と言うのでしょうね。
 
 中山――とんでもありません。先ほどの先生方の授業風景の話を伺っていると、子供たちには分かっているようだったので、同じなのだと思います。
 
「視覚教育専門家のコメント」笹本純
 
 笹本――谷川先生からは、今日の発表を聞いてコメントしてくれというお話でしたから、何も用意してきませんでしたが、私なりに感じたり考えたことを少しお話します。
 まず、先生方のお話を聞いて、プロ教師という感じを受けました。話が非常に上手ですし、人を引き付けるテクニック、人柄もあり、非常に魅力的なお話でした。大学の教師は研究者として専門家であることが優先されるので、教育上のスキルを学ぶのは、ともすると二の次になってしまいます。その点で大いに反省しつつ、勉強させていただきました。
 さて、皆さんは、マンガそのものを教えるのではなく、マンガを他のものを教えるための手段として捉えています。ただ、失礼ながら、マンガに対するイメージ、把握の仕方が画一的なものになっているような気もします。現在のマンガは非常に多様化していますし、全体的なものを把握するのは大変難しいです。今の子供たちも、1人がすべてのマンガを知っている訳ではなく、ある分野にのめり込むような形で関わっています。ですから、子供たちが実際に触れているマンガに、少しでものめり込むような体験も欲しいと感じました。
 二瓶先生の授業は、大変興味深く思いました。生徒が優秀なのですね。物語の構造といったことまで分かっているような生徒は、すごいです。大学生でもなかなかできないでしょう。マンガ作品の構造分析は、非常に面白いと思います。これは国語の授業としてよりも、マンガの教育として、もっとやって欲しいですね。
 ただ、マンガの場合は、言葉による物語の理論だけでは間に合わない部分があり、映画理論など色々なことが関係してくると思います。特に視点については、言葉の表現とは単純にパラレルの関係ではないという問題がありますから、難しかったと思います。僕、私、彼といった、単純な人称の問題ではなく、映像として表わされている部分があるからです。これはマンガ学の方でも論議になっていて、私自身も論文を書いています。
 マンガ作品の散文化も面白いです。一種のメディア間翻訳だと思いますが、一般に言葉で書かれたものをビジュアライズすることは行われますが、その逆はめったにない。何故ないのか、私も考えたり、学生と議論したことがあります。ビジュアライズしたものはやさしく受け入れやすい形になっているが、言葉のものはそれよりも難しい。難しいものをやさしくするのは一般的ですが、やさしいものを難しくすることはないでしょう。映画をノベライゼーションした小説に、あまりよいものはありません。こうしたことについても、まだ論議できそうだと感じます。普通にはちょっと無理なマンガの散文化も教育の現場だから有効なのでしょう。一種の外からの圧力によって散文化を経験することによって、生徒の表現力が伸びるのは確かです。
 長澤先生の発表については、私も芸術教育、造形教育をしているので、まさに私が普段考えているのと同じようなことを、低年齢の方を相手に苦労なさっていると思いました。指導要領で、マンガを使って何かを表現することを教育しなさいといきなり言われても困ると思います。中山先生が言われたように、線に注目したのは非常に面白いと思いますし、スクリーントーンのような旧来のアート教育ではなかったようなものを入れていくのも面白いです。
 マンガは単なる絵ではありません。大きく言えば絵と言葉が組み合わさって伝達を行う、複合的なメディアですから、美術の中だけでは扱いきれない部分があると思います。長澤先生はいろいろ考えていて、例えば、名前から顔をイメージするとか、絵の吹き出しに言葉を入れるといった方法は、絵と言葉の関連の問題です。私も「ナラティヴ・イラストレーション」という授業で、絵本やマンガを学生に作らせていますが、絵と言葉の絡みをどういう風に捉え直すかということを導入としているので、同じようなことを考えているのだと思いました。
 萩原先生は、本当にプロという印象です。特に申し上げることはありません。メリット、デメリットを考え、マンガを英語教育で使う可能性の様々な面をフォローなさっていて、素晴らしいと思います。
 最初の「フジ三太郎」のところで、日本語のセリフが外された途端に伝達が不能になるのは、マンガだからこそでしょう。マンガは絵だけではないということの代表的な例です。特に4コママンガは、1コマ目で、そのマンガの世界観、問題などを、白紙の状態にいる読者に伝えなければいけないので、非常な伝達力が必要になります。1コマ目に言葉がなくなると、いきなり分からなくなりますし、逆に1コマ目だけにセリフを入れておいて、残りの3コマのセリフを外しても分かると思います。
 私はまた、ビジュアルなものに付随した言葉の翻訳の問題も考えているのですが、文化圏の違いがあるので、単に言葉を直訳すればいいというものではない訳です。今、絵本の翻訳をする場合に、どうあるべきかが問題になっています。言葉だけではなく絵があるために、複雑な問題が絡むのです。萩原先生のご趣旨とは違いますが、その辺から見ても面白いと思いながら聞いていました。
 渡辺先生の手段は、教育にたいへん有効だろうと思いました。おそらく諷刺マンガを提示しながら討論することで、歴史の内容が字面で覚えるよりも身に付いていくと思います。江戸時代より前についてはどうするのか、などと考えたりもしましたが、たぶん浮世絵などを使っていくと面白いと思います。
 渡辺先生もおっしゃっていましたし、他の先生も触れていましたが、こうした試みを選択授業としてしかやれないところに、日本の教育の大きな問題があると思います。教えるべき内容はもっと自由でいいと思います。画一的に内容が定まっていて、それをいかに教えるかというテクニックだけが教師に要求されている。これはここで論じるべき内容ではないでしょうが、こうした優れた歴史の授業が、あるいは他の先生方の授業が、選択授業としてしか許されないのはどうかと思います。


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