日本財団 図書館


質疑応答
 
 谷川――フロアの方々から、ご意見、ご質問がありましたら、お願いします。
 
 中山――フロアではありませんが。私はヨーロッパなどに何度も取材に行っていますが、イギリスで資料として役立ったのが、各地の歴史的な名所などに必ずある子供向けの薄い冊子でした。ファンタジーマンガを描く場合、例えば王の部屋の扉の高さはどのくらいか、従者の部屋の扉の高さはどのくらいか、木の厚さはどうか、鍵はどうなっているか、食事やトイレはどこでするのかなど、様々な情報が必要ですが、そういう資料はなかなかありません。しかし、この子供向けの冊子には、城の構造が全て描かれていて、13世紀の子供が朝起きてから家では何をして、城へ行ったらどんなことを体験するかといったことが、1頁マンガのようにフルカラーで描かれています。その時代の生活が全て分かりますし、城の跳ね橋はどういうシステムで動くのかといったことも詳細に描かれています。絵だけではなく、文字でも細かく説明してあります。しかも、2、3百円で買えるのです。子供たちはそれを手にして、自分たちの歴史を身近に感じるわけです。そうすると、歴史の授業で王の名前が出てきても、背景の肉付きが違うので覚え方が違います。国がバックアップして冊子を作っているようですが、こういうものが日本にもあればいいと思います。
 私は、歴史は好きでも、なかなか覚えにくかったのですが、歴史小説を読むようになってからはよく覚えられるようになりました。歴史小説を読むのは時間がかかりますが、マンガは速く読めるのがよいところなので、子供たちが知識を得られるような、丁寧で、分かりやすく、ウソでなく、媚びない、パンフレットのようなマンガが日本にもあればいいなと痛感しました。
 
 参加者2――添田と申します。午前中のゲームは大変面白かったのですが、あれはマンガである必要はないと感じました。現に同じような心理ゲームをやったことがあります。マンガを使うと、作者がキャラクターを醜く描いたり、あるいは格好よく描いたりすることによって、本来はフリーに議論できる話題についても、ある程度の刷り込み、イメージ操作をしてしまう可能性もあるのではないでしょうか。
 今日は授業の中でのマンガの使い方が説明されましたが、一般的な図鑑、絵解き、図解と、マンガとの違いが分かりにくかったと思います。普通の図解や映像ではなく、マンガを使ったことで、逆にマンガの特色、構造が浮かび上がりました。もう少しマンガの特色について突っ込んだ認識を持って使えば、もっと有効だという気がします。
 また、マンガの線も変化してきており、劇画の線などは難しくなってきています。アニメのような平板な線の方が受け入れられやすくなってきているのは、マンガにとって不幸だと思います。マンガを読むこと自体が難しい子供もいます。歴史的なマンガは特に難しいと思います。だから、マンガを史料として使っても、子供たちが理解できるのかなと思いました。
 
 谷川――刷り込みという話がありましたが、私の経験では、最初に4人の党首を出した瞬間、子供たちの反応は明らかに違います。年寄りよりも若い方が好きなのです。但し、それは一瞬です。具体的に討論していくと、彼らは真剣に内容で勝負します。固定的な概念として考えているものを砕いていく、概念砕きという教育の方法がありますが、これはイメージ砕きみたいなものです。イメージでものを見てはいけないということを、教育していく必要があると思います。このマンガが妥当かどうかについては議論があると思いますが、内容に入れば入るほど、子供たちはそれほど外見では判断しないものです。
 2つ目の問題は、今の教育界の現状からいうと、マンガそのものを教える場所がないのです。マンガ学など、マンガそのものを教える時間があるなら別ですが、決められた指導要領の目標などがあって、その中で分かりやすく、興味を持たせて使っていくということになると、マンガの専門家からは邪道ではないかという意見があると思いますが、それは教材化によるやむを得ない部分でもあります。
 私は授業で、マンガそのものを勉強する、マンガとアニメーションはどう違うのかといったことだけで1時間やったことがあります。今後、そういうことを総合学習の時間でやれる可能性はありますが、今日提案をいただいた先生方はそれぞれの教科の方向性の中で使っている訳ですから、そこには限界がある訳です。また、作者からすれば、そんな使い方をされたら困るということもあるかもしれません。
 他にご質問などがなければ、先生方に今日お考えになったことなどを、2、3分でお話いただきたいと思います。順番にお願いします。
 
 長澤――ことさらマンガ、マンガと言って教育現場で扱うことには、実はまだ抵抗があります。私自身が中学生の頃には、マンガは排斥されるものであって、それに多少反発する形で、マンガも文化ではないか、授業でも使えるのではないかと思いながらやってきている部分もあるので、マンガの功罪を確認しながらさらに研究しなければいけないと感じています。
 
 萩原――私自身が、今日ここに来て得したと感じています。この場の意義は、色々な教科の先生が集まって、それぞれのマンガの使い方で交流するということです。私が日ごろ参加するのは英語教育者の集まりですから、マンガの使い方を捉えてどうすればそういう授業が可能かということを細かく追っていくような、各論的な話になってしまいます。今日は、他の教科の先生に、色々なマンガの使い方があることを教えていただいて、自分の視野が広がったような気がします。最近はマンガを使った授業をサボっているので、これを機会にいいマンガを使って、いい授業をしていきたいと思います。
 
 二瓶――実践について話してくれないかという話があった時、すぐにハイと言ってしまいました。それは私がマンガが好きだからです。私の人生に一番影響を与えた本は、手塚治虫さんの『火の鳥』であり、竹宮恵子さんの『地球へ・・・』です。国語教師として子供たちに言葉の教育をするのですが、1人の教師として、優れたマンガが人の人生に与える影響の大きさを伝えることも必要ではないかという、個人的な思いがあるのです。だから、国語の授業に優れたマンガを導入することを、もっとやらなくてはいけないと考えています。
 現在、平成17年度版の教科書を作っていますが、小学校の全学年の国語にアニメを入れようと考えて、スタジオ・ジブリにシナリオの部分を掲載させて欲しいと言いましたが、断られました。ジブリの作品は、子供たちの娯楽のために作っていて、見たい人が見てくれればいいのであって、教科書で扱われると強制になってしまうから、ありがたいがやめて欲しいというのです。とても残念なことですが、今回はあきらめました。その代わり、国語の教室に、「ナウシカ」「もののけ姫」「千と千尋」のアニメをぜひ導入したいと思っています。
 
 中山――マンガと勉強を結び付けて考えたことはあまりありませんでした。小説を読むのは、得意な人はとても速いのですが、遅い人もいます。マンガは内容が詰まっていても、1冊読むのに時間がかからない。しかも、アニメと違って固定したイメージが残りやすい。その辺のところをうまく使っていただければ、子供たちの勉強に役立つかもしれないと思いました。
 
 笹本――マンガそのものの読み方を若い人に伝えたいという思いが、私には強くあります。先ほどフロアからも発言がありましたが、マンガ自体を読めなくなっていることもあるのです。マンガだからすぐ分かるという時代ではなくなっていると思います。おそらく、マンガも文学作品も絵解きして、こういう風に読むとか、こういうことが描かれているのだとか、内容、形式などについて、ある種のガイドが必要な時代になっている気もします。そういう形でマンガを古典として残していかないといけないような、危機感を持っています。今の、雑誌に連載したものを単行本にするという形自体、そのままでは残らないと思います。出版や流通の形態も変化していますし、内容も高度で難解なもの、ビジュアルな形式によるノベルといったものなどがあり、国際化、多様化してきています。そういう時代に子供たちが生きているということを、先生方にも認識していただきたいと思います。
 
 牧野――先ほど、マンガと一般の絵との境界線はどこにあるのかという、基本的なご質問がありましたが、京都精華大学ではほとんどないと言っていいと思います。学校側は一応、ストーリーマンガ、ビジュアルなどといった名称で分けていますが、学生たちは自分をアーチスト(表現者)としてしか意識していません。ですから、油絵の学生がストーリーマンガを描いて、竹宮恵子先生のところに持っていくようなことが当たり前のように行われています。まして、ビジュアルコミュニケーションデザインなどは、伝達することを表に出している訳ですから、ラインを引くことは事実上不可能な状況です。
 では、マンガは何かといえば、お節介なほどに親切なのです。デザインは、どんどん洗練されて行く方向にあり、トイレのマークにしても、単純化され幾何図形の三角形と丸だけになったりしますが、マンガは、もうトイレと分かっていてもおしっこしているところまで描いてしまう。さらに、吹き出しをかいて「ああ、いい気持ち」などと、言わせてしまうから、顰蹙を買う。そこには「分かってくれよ」という描き手の気持ちがあります。それがマンガであり、なりふり構わず伝えようとする、過剰なサービス精神の発露が見られます。そこを活かしていったらいいのではないかと思います。
 
 渡辺――歴史的な諷刺マンガなどは、理解できない社会のことなどを描いていますから、難しいと言えばそうです。しかし、文字と違うのは、よく説明しているし、子供たちから多様な発想が出やすいのです。歴史教育は、理性的認識、知識を重視しすぎてきましたが、感性から入って、自分の力で理性的に知性的に分かっていくという過程を考えると、マンガ教材は大変有効性があります。マンガそのもので歴史を代行することはできないので、教材化する必要は避けられません。その時に、難しい問題があります。例えば教科書に「サザエさん」を載せたいと思っても、著作権料がものすごくて載せられない。授業でも取り上げられない。古くて著作権が切れているものはいいのですが、新しいマンガはなかなか難しいのが現状です。その辺がひとつの課題になると思います。
 また、中山先生が言われた、歴史的なマンガが各地で、マンガ家の協力を得て作っていけると、子供たちはイメージから入って、イメージを砕いて、認識を深める形に繋がっていくと思います。今後、そういう共同作業が進むといいと思います。
 
 谷川――教科を越えて、マンガについて議論したのは、これが日本で最初だと思います。課題は大きく、まだ始まったばかりという感じですが、私の趣旨としては、授業でマンガを上手く使えばいいというようなレベルの問題ではないのです。
 私の発想の根源にあるのは、子供たちは学校教育だけで育ってきたのかという疑問です。そんなことはなくて、学校の教科以外のところで学んだことが自然に蓄積されて、現在の大人になっているはずです。私はそういうことを復権したいのです。学校の教科だけやっていれば人間がまともに育つという訳ではなく、マンガやアニメなどのサブカルチャーに触れながら、なおかつそこで何かを得ていく。恋愛の仕方、友だちとの付き合い方などは、きっとマンガで学んだでしょう。ある意味では、教育を考える根本的な問題点をここで深く考えたいということです。
 
 教育学をやっている人にもマンガに理解を持っている人は結構いるのですが、マンガ家と深く付き合っている人はいません。私は、この10年ほどかなり深く付き合せていただいて分かったことは、中山先生のお話を聞いてやや自虐的に言ったことなのですが、大学で学問をやっているような人間から見ると、マンガ家は凄いのです。何が凄いかというと、はっきりと決められた路線はなくて、自分の世界を作っていって、なおかつ子供たちに影響を与えている。そういうものを作れるというのは、大変なことですね。マンガ家にも色々あるとは思いますが、我々とは根本的に違う能力を持っていないとできないのです。私などは公務員ですから、なんだかんだ言っても食っていけますが、マンガ家は常にその能力を磨いていなければ食っていけなくなります。ね、中山さん。
 
 中山――それはそうですが、ただ、描かずにいられないという、おのれの欲望が強いだけの人間という説もあります。書き続けなければ、即仕事を失うシビアな世界ではありますけれど。
 
 谷川――授業で上手く使うというより、むしろ教師にはマンガの作り方を知って欲しいと思います。マンガで大事なのは1番最初と最後だと言う人がいますが、なるほどと思いますね。とにかく次の頁を開いてもらわなければ話にならないからです。授業も同じで、本当は授業の最後に、次の授業が待ち遠しいと生徒に思わせなければいけないのですが、普通の授業では「ああ、やっと終わった」と思う訳です。
 授業を作ることとマンガを描くことには、どこかに共通点がある。私たちは教育の世界だけでやってきましたが、色々な世界の物づくりから学んでいきたいものです。例えば、よく教師は長くしゃべっても何も伝わらないと言われますが、マンガの吹き出しに入っている言葉は長くてはいけませんから、マンガ家は選びに選んだ簡潔な言葉で伝える訳です。こういうことを、教師の問題として、教育の問題として学びたいと思います。
 本日は、大変長時間お付き合いくださいまして、ありがとうございました。


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