日本財団 図書館


 参加者4――日本経済新聞の井本と申します。今のご意見にちょっと違和感がありまして、そうすると教科書は全くなくったっていいではないか、という議論をしているような感じがする訳です。しかし、確かに最近の教科書は、つまらない教科書が多いです。私は、なぜそういうつまらない教科書を出しているのかと言いたい。
 つまり、優れたマンガの作品に見合うような、小説なり論文なりをもっと教科書に取り入れるべきだと思うのです。例えば、私は中学1年の時に『千恵子抄』を習いましたが、今の中学校では『千恵子抄』をやっているでしょうか。詩の中に、人間のドキッとするようなことがありました。漱石や鴎外にもあったし、漢文からも、三好達治の詩からも習った。小学校でも色々なことをやっていた。『路傍の石』などは、今の教科書にはないですね。全部の教科書を見たわけではないですが。そういうものを、授業でやっていただければ、学校の教育もおもしろくなるという印象を受けました。
 それから、学力低下の問題も、たとえば円周率は3か3.14かという議論がありますが、やはり円周率は3ではないというところは、どこかできちんと教えておかなければいけないと思います。奥深さを感じさせるような教育でなければならない、ということだけを申し上げたいと思います。
 
 谷川――私が言った教科書の世界とマンガの世界は、昔の日本の教育界、学校では、とかくこの2つの世界は対立するものだったのです。永井豪さんの『ハレンチ学園』が出た、60年代、70年代頃は、教育界はマンガを全く排除した時代でした。マンガはいかに害悪であるかというような時代だったのです。
 その後、石ノ森さんが『日本の歴史』などをやってきて、今ではマンガが教科書の中にも随分入ってきています。私たちは、社会科の教科書の中で矢口高雄さんの釣りものを入れましたし、矢口さんのエッセイも国語に随分入っています。里中先生の絵も歴史の教科書に入ってきている。ですから、20年ぐらい前のアレルギーみたいなものは無くなってきて、今、マンガ家たちと教育者たちが語り合える場面が出てきていると思います。
 誤解があるとまずいので言っておきますが、従来の教科はものすごく大事にしたいのです。国語でも英語でも数学でも、教科というものは絶対に大事にしなければいけない。教育は「教」と「育」の2つからなると言ったように、教えるということがなければ教育になりません。そのめり張りをつけろということなんです。
 従来の基礎的な学力というのはものすごく大事だと思う。でも、それだけで子供が育つかという問題提起なのです。
 
 参加者4――生きる力は基礎学力と別なものではなくて、一体化したものであるはずです。それを教科書の中に入れて、教育の中でやるべきだと思います。
 
 谷川――それはやっているはずです。それなりにいい教材が随分入っているはずですよ。
 
 寺脇――いくら教科書にすばらしい文章を載せていたとしても、教科書を読むだけで、もっと小説を読んでみようとか、もっとマンガを読んでみようと思わない限り、あまり効果はないでしょう。教科書の改訂がある度にご批判を受けるのは、夏目漱石が載らなくなったといったようなことですが、非常に乱暴な言い方をするならば、教科書に載らなくたって、夏目漱石はその辺にあるんだから自分で読めばいいじゃないかと思います。つまり、夏目漱石を読みたくなるような教育をするのに、教科書に夏目漱石のサンプルが載っていなければ出来ないのか、という問題だと思います。
 つまらない文章しか載っていなければ問題ですが、つまらない文章は教科書に載せる訳にはいかないでしょう。ただ、何をもってつまらない文章と定義するのか。新聞の文章なんか無味乾燥だからつまらないという意味なのか。でも、ものを正確に伝える文章として、それはそれで必要ですね。むしろ、無味乾燥な文章を見ることによって、そうではない文章に思いを回らすこともあります。
 昔の国定教科書ではないのですから、「国民全部がこれを朗読しろ。これで立派になりました」みたいな考え方はちょっと違うように私は思います。
 むしろ、色々な本を自分で選択して読んでいって、いいものに到達するというのが一番良いことではないでしょうか。そのために様々な選択肢が用意されていて、本なのか、マンガなのか、ゲームなのか、テレビなのか、映画なのか、その選択肢の中で選び取る力と、それを理解する力をつけていく。
 要するに、画一的に皆が教科書に載っているものを読まなければいけない、それ以外のものは読んではいけない、みたいな方向へ流れていってしまっていたのを、それぞれ自分が読みたいものを読み、「この本はこんなにおもしろかった」「じゃあ、僕にも貸してくれ」みたいなコミュニケーションが出来るようにしていくことの方に、はるかに意味があると思うのです。
 
 参加者4――やはり歴史の風雪を経た文章というのはそれなりのものがあるから、そういったものを尊重した方がいいのではないか、と言いたいのです。それらは淘汰されて生き残ったものですからね。パワーのあるものを取り上げていただきたい。手塚治虫のマンガを今でも読みたいと思うのは、それだけのパワーを持っているからです。
 
 里中――やはり今のお話を伺っていても、世間に誤解があると思うのです。例えば、子供にとって、夏目漱石や森鴎外をはずすことは良くないと思う学校は、自由に夏目漱石や森鴎外も教科書のように使ってくださいというのが、この総合学習の時間であり、学校の自由裁量の部分なんですよ。
 文科省が示しているのは最低ラインだと思うんですね。ですから、これまでは子供たちにリンゴを食べさせるのに、皮をむいてきれいに煮詰めてコンポートのようにして与えなければいけないという決まりがあったとしますと、今は「子供にはリンゴを食べさせてください」としか言わなくなった訳です。
 各学校それぞれに自由裁量で色々なことを決めるというのが、今回の改革のポイントだと私は思っています。
 
 谷川――実は、私は今回の改訂では不満が多少あります。3割減らしたのは誤りだと思っているのです。あれは減らしすぎで、4分の1にしておけばよかったと。これは寺脇さんを批判するつもりは全くないけれど、3割減らすといって厳選という言葉を使い始めた時には、当時の文部省の中でもほとんど違和感がなかったんです。それが、この半年ぐらいは文部科学省があたふたしてしまって、5日制にしたのに「土曜日に補習をやる」とかいって、そんな問題ではなかったろうと、正直なところ、ちょっと見苦しいなと思っているのです。文部科学省も、現場も混乱しているということなんです。
 
 寺脇――現場が混乱しているというのですが、『学びのすすめ』が出たぐらいで混乱するような現場だからこそ、言わなければいけないのです。何が本筋かも分からずに、自分の都合がいいように誤解されたのではたまりませんから。混乱してしまうような状態がそもそも危ないわけで、何が本筋かというのは、それぞれの学校で考え、子供に合わせてください。ただし、勝手に決めるのではなく、子供の反応をきちんと見て、保護者の意見を聞く。地域社会の皆さんにも、例えば「うちの教科書に森鴎外は載っていないけれど、鴎外はこの津和野の町で育ったのだから、うちの小学校では鴎外をやろうと思いますが」と問いかけてやる。しかし、ほったらかしておくと唯我独尊がまかり通ってしまいかねないので、そこはやはり釘を刺さなければいけない。
 ただ、日本の教育は実態的に中央集権ではありませんから、地域によってものすごい温度差がある訳です。総合的学習の意味がすっかり分かっているところと、適当な考え方でやっていると指摘されても仕方がないような地域がある。しかし、文部科学省から「何々地域はこうやりなさい」と言ったら、それはウルトラ中央集権になってしまう。
 色々な見方や意見がありますが、例えば、円周率は3で教えればいいなどと誤解をしている教員がいます。とんでもない、ちゃんと3.14と教えるんです。円周率というのは基礎学力で、生活に必要なことなのに、いちいち3.1415なんて計算していたら生活とは結びつかない。子供たちが日常的に「このコップにはどれだけ水が入るか」といったことを考える時に、3.14では面倒くさくなってしまうけれど、およそ3で考えれば「大体これぐらい入っているのか」と分かる。それで「円周率っていうのはこういう時に使うんだな」と。でも、本当は3ではないということは、当然教えなければいけないのです。
 行政は、こう行くと決めたから、そっちはもう知らないよと言う訳にはいかないのですが、本当にそれで現場が混乱しているとすれば、ちょっと現場に任せておく訳にはいかないということになります。しかし、現実に今日本中の現場を回って感じるところでは、そんなことはないと思いますけれど。
 
 谷川――基本的に寺脇先生の考え方は私もよく分かっている積りです。ただし、現場ではどう対応したらいいか分からないという動きがあることは事実です。
 時間がなくなってきました。議論が沸騰したところでおしまいにするのは残念なところもありますが、次回以降、またこういう基本的な問題について議論できると思います。
 日下先生から、感想等をお願いいたします。
 
 日下――私は別にマンガの専門家でも教育の専門家でもありませんから、「皆さん、ありがとうございました」と言えば、もう終わりだと思います。強いて言えば、本日は2002年型の議論になっていたと、大変喜んでいます。
 
 谷川――ありがとうございました。里中先生と寺脇先生、何か追加があれば、1分ぐらいずつお話ししていただけませんか。
 
 里中――地域差というのがあります。私は大阪で生まれ育ったのですが、小学校の頃、クラスで尊敬されるのは、勉強のできる子ではなく、人を笑わすことのできる子なんです。私も毎朝学校へ行く度に緊張感に満ち満ちておりまして、今日は何を言って笑かそうかと。笑ってもらえない人間は存在する意味がない、ぐらいに思われるんです。いかにアホのふりを、ふりだと分からせずに出来るかという、大阪人の自己満足というのがある訳です。
 人を笑わせるというのは、一人ギャグを言っていても駄目で、相手との受け答えの中から生まれてくるものなんです。臨機応変にその場の雰囲気に合わせてパッと切り返すことが出来るという、この判断力があればあるほどおもしろい子ということになる訳です。
 人とのつきあい方の、ちゃんと人に自分を分からせる、あるいは客観性を持つという、この笑いに見る人間力というのも、やはり自己表現ですから、マンガとかアニメなど、子供でも描けるものとどこかで繋がっているような気がいたします。
 皆が人を笑わすことができて、あるいは人がどうしようとしたがっているかを敏感に察して、うまくそこで笑ってやるとか、そういうことがお互いに出来るというのは、それぞれの演出能力もあると思います。そういう意味で、様々なキャラクターの気持ちになれる、マンガの世界というのは潜在能力を秘めていると思った次第です。
 
 谷川――「笑いによる人間力」なんて、すてきな言葉ですね。ありがとうございました。
 
 寺脇――このフォーラムは本当にすばらしいと思います。職場は近所ですから毎回聞きに来たいぐらいですが、なかなかそれも叶いません。こういう催しが実施され、その結果が何らかの形でまとめられる。そういうところから変わっていって、私たちが選び取る21世紀の教育システム、あるいは子供たちにどのような未来を提案できるかというようなことになるのではなかろうかと思います。
 
 谷川――本音と建前と分けると、一般的にシンポジウムとかフォーラムというと、建前で終わってしまうケースも少なくないのですが、私としては絶対にそうしたくない。せっかくこれだけプロフェッショナルな人たちが集まってきているのだから、自分の思いとか意見を闘わせて、何かを持ち帰っていただきたいという思いで、あえてアグレッシブな司会をしました。少し真剣に討論し合えたことによって、何か新しい次の見通しが生まれてくるのではないかと思います。今後、参加者皆様方のご協力・ご指導をいただきたいと思っています。これで第1回のフォーラムを終了いたします。ありがとうございました。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION