日本財団 図書館


【質疑応答】
 谷川――それでは、これから30分あまり、フロアの皆様方から、ご意見でもご質問でも結構ですので、いただきたいと思います。手を挙げていただけませんでしょうか。
 
 参加者1――橋本と申します。ノンフィクションライターです。皆さんのお話に出ている子供といいますか、教育の対象というのは、18歳未満なのかもっと広いのか、その辺がちょっと漠然としている印象を受けました。
 
 寺脇――この4月から小・中学校が変わったということに皆の注目がいっているので、たまたまそういう話が出たわけですが、本来は生涯学習という考え方が根底にあるわけです。私たちが、日本の教育の構造改革と言っているのは、生涯学習というパラダイムに変えるということなのです。
 中央教育審議会の前に臨時教育審議会という、総理大臣直属の審議会があって、そこで生涯学習という考え方に変えようということを決めました。そのパーツの1つとして、学校週5日制、総合的学習、大学改革の断行、あるいは大人が様々な活動が出来るようにしていこうということなどがあり、これらが全部セットの話なのです。実際、パーツの1つ1つが変わるだけでなく、これら全部が変わらないと本格的に機能を発揮しない訳です。
 生涯学習というのは、読んで字の如しで、生涯にわたって学習する。勉強ではなくて学習です。勉強と言い換えても悪くはないですが、つまり、教育という考え方から学習という考え方に切り換えようというのです。教育する先生や教育の内容を決める文科省が主役なのか、実際に学習する国民の皆さんが主役なのかという話です。
 小・中学校だけを変えようというのではなく、学習する側が主役になって、一生涯どんな時期にも何らかのチャレンジが可能なようにしていこうという総体像があるのです。
 
 谷川――昔は「生涯教育」と言っていたのですが、「生涯学習」という言葉に変えたのが7、8年前でしょうか。
 
 寺脇――臨時教育審議会で1987年に出た答申に、生涯教育という言葉を使うのはやめなさいと書いてあります。「教育」と言っている限り、教師や学校や文部省は自分が主役だと勘違いしてしまうから、それを言い換えろと明言されています。
 
 里中――私は何となく「大人」とか「子供」と単純に言葉を使い分けてしまうのですが、40歳であっても自分の判断力がない人は子供だと思いますし、15歳であっても自分の判断で自分の道を選べる人は大人だと思っているので、あまり年齢を目安に考えていません。大変あいまいな答えで申し訳ないですが、教育というのはまだ大人になれない者が受けるものであり、大人になったら自分で選びとれる楽しい人生が待っているよというような感じですね。
 
 参加者2――フリーで編集の仕事をしている者です。このテーマに水を差すような話かもしれないのですが、小学校の3年生、4年生あたりで、普通のマンガの文法が理解できない子供が増えているようです。里中先生がおっしゃった、言葉があって絵があってコマが流れていくというような仕掛け自体が理解できない子供がいるのです。まだ10いくつかのサンプルしかないので何とも言えないのですが、完全に理解できない者も含めて、半分近い子供がマンガは難しくて読めないというデータが出来つつあるのです。
 1つには今のマンガが難しすぎるというのがあると思うのですが、マンガの文法が理解できない子供たちというのは、これはどうなるのでしょうか。
 
 里中――昔はマンガは子供相手のものだと思っていたので、作者の方も無意識のうちに小学生にでも分かるような表現を心掛けていたと思うんですね。それはより多くの人に読んでもらいたいという、一種の企業努力だったかもしれません。ところが、大人も読むものとなると、より難解なテーマに取り組みたいし、分かる人に分かるような表現にした方がより格好いい、となってくる訳です。そういう風に描く側の、読者層の年齢設定が高くなってきていることもあるかと思います。
 もう一つの理由として、小学生にも活字は読めるけれど、抽象的なテーマの難解な文学作品を読ませても分からないのと同じような現象が起きているのではないかと思うんですね。昔は売れているマンガ本がせいぜい50作品ぐらいだとすると、それは多分全員が理解できたと思います。今は膨大な作品があるので、選び方を間違えてしまうと分からない。中間小説も難解な哲学書めいたものも同じ本棚に並んでいるのと同じように、マンガも確かに皆マンガの顔をしているわけです。
 映画ですと、これは何歳向けか、あるいはどんな好みの方が観るかというのは何となく分かるのですが、マンガはその辺のセレクトがちょっと難しい段階に差し掛かっているのかなと思います。「最近のマンガは難しい」と言われると、「そういうのもあるでしょうね」と思います。確かに小学生の低学年と高学年に分けると、低学年向けの作品はむしろ少なくなってきているかなという気がしています。
 
 参加者3――私どもは画材を販売している会社です。最近、絵を描いたり、デザイナーを育てるところで、コンピュータを使う世代になっているものですから、手づくりで自分の感覚を養うという面で、我々としてはちょっと問題があるのかなという思いがあります。
 私も小さい頃を振り返ると、小学校の時に図工とかが好きでしたが、学校の教育とはまた別に、親に隠れて、あるいは授業中にノートの端にマンガを描くということも好きでした。そういう陰の部分というか、秘めたるところにもマンガの楽しさというのがありまして、そこで自分で技を磨くというのもありました。
 今、自分の感覚を養うとか技術を養うという、そういう陰と表の世界が教育の現場にあるのかというのはちょっと疑問です。教育とマンガということなので、どういう位置づけでマンガが捉えられているのか。私の経験ですとマンガというのは割合と親に叱られつつ読み、先生に怒られつつ描いていたもので、それが唯一の子供としての楽しみだったというところもあるものですから、そういう部分をどういう視点でこれから捉えるのかということです。
 もう一つお聞きしたいのは、描き手と読み手の、どちらの視点で教育の中でマンガを捉えるのかということです。マンガで日本国憲法を描いたものもありますが、結局私は絵は読まずに文字を読んでしまうので、これだったらもっと文字をきちんと書いている方が分かりやすいと思うと、全然頭に入らないんです。このフォーラムのテーマとしては、読み手なのか描き手なのか。読み手であれば、それを教育の現場でどう使いたいのかという、フォーラムの目的をお聞きしたいと思います。
 
 里中――マンガは、おっしゃるように、反社会的な分野である方が楽しいです。親から認められない、世間から認められない方が楽しいのです。そう思い込んでいるのも、自分たちの好みなんですね。ですから、マンガ家でありながら文科省と拘わりを持ったりすると、すごく堕落したみたいに言われたりして。
 私は、描き手であると同時に読み手でもあります。そういうご質問が出ること自体、マンガという世界はまだ若いんだなと思います。最近、大学でもマンガ科が続々生まれつつありますが、大学に文学部があっても、皆が文学者になる訳ではないのと同じです。ある分野を知るということは、その人の人生を豊かにする多彩な調味料であると思います。どんな調味料を使えば自分が持っている素材を活かし、自分の人生がおいしくなるかという時に、その一つとして「マンガ的なものの見方もありますよ」ということです。
 教育とは、実はこの世のすべてと結びついている訳ですが、これまでマンガと教育ということはあまり語られてこなかった。でも社会の環境の中には当たり前のように、マンガもアニメもある訳ですね。この世にある当たり前のものとの関係である分野を考察してみるのは、ちっとも不思議ではないです。「環境と教育」とか「環境と家庭生活」といっても、当たり前だと思いますよね。ですから、そういう風に気楽に、当たり前だと思って聞いていただければいいな、と私は勝手に思っているのですが。
 
 寺脇――里中先生がおっしゃる通りです。文学部に入ったからといって、皆が小説家になる訳ではない。例えば、私は今まで3,000本ぐらいの映画を見て、多分もっと多くのマンガを読んだろうけれど、マンガを描いたこともなければ、映画をつくろうと思ったこともないですね。私は御門違いの文科省の役人なので、映画もマンガも実利に繋がる訳ではない。でも、それが意味がなかったとは全然思わない。
 先程のご質問で、マンガを読む力が下がっているということでしたが、それは読む気がないからだけでは。例えば、コンピュータゲームの攻略本は難しいですが、小学校の低学年でも、どうしてもこのゲームをしたいと思ったら読みます。ですから、マンガに興味があれば、マンガを読みたいと思えば、どうやったらこれを読めるか考えるでしょう。
 私はよく映画の観客と、色々な映画祭やティーチングで話すことがありますが、私に「今の映画のテーマは何だったんですか」「あそこで主人公がこう言っていたのはどういう意味だったんですか」などと聞く人がいる。私は、「もっと自分で理解する努力をしないとまずいよ」と言います。全部人に聞いていたらおもしろくないでしょう。何のために映画を見ているのか、マンガを読んでいるのか。
 陰の部分という話は、今は陰がないのです。学校や社会が陰をつくらないシステムで、全部管理して危なくないようにしてしまった訳ですね。学校が土曜日休みになるといったら、子供の居場所をつくれなんていう方がいて、そんなのは自分で探せという話になる訳です。小さい子供なら分かりますが、小学校4年、5年ぐらいの子供なら、自分たちで路地や空き地を見つけたりしていくことがある。
 ですから、先程全部セットにならないと解決しないと言ったのは、学校だけを変えたって駄目なので、家庭や地域社会の有様、根本的には大人のものの考え方を変えることなんだろうと思います。
 マンガが一方的に悪者にされていた頃は、日陰だから隠れて読まなければいけなかった。今はどちらかといえばゲームの方が悪者扱いされているのかもしれません。マンガはすばらしいものだから必ず読んだ方がいいというのもおかしな話で、やはり大人が判断を示して、「マンガもいいけれど他のこともやろうね」というようなアドバイスをしていく部分なのではないでしょうか。
 
 谷川――とてもいい問題提起をしていただいたので、コーディネーターとしての意見をちょっと述べたいと思います。寺脇先生がおっしゃったように、マンガだけやっていればいいというものではなくて、どんなものを考える場合でも、どんなものにも2つの視点が必要なんですね。
 人間の体には、目が2つあって、耳が2つあって、手足も2つあって、肺も2つあって、肝臓も2つあってと、2つずつで出来上がっています。胃が2つある訳ではないから、消化器系統は別です。
 人間の社会も基本的に一緒で、例えば「教育」という言葉は、「教える」と「育てる」という言葉から出来ていて、この2つがなければ教育は成り立たない。そうやって考えると、今までの教育というのは、学校ばっかり主義なんです。家庭でも小学校に入るとランドセルを買って、机に教科書を並べる。子供たちの中にすべて学校が入り込んできている。これが30年ぐらい続いてきた状況です。地域からもはみ出て、学校、学校できている。
 学校というのは、どちらかというと正しい所、間違いのない所、合理性が求められる世界です。それを私は比喩的に「教科書の世界」と呼びます。教科書の世界は、これだけやっていれば何とか将来の役に立つだろう、受験にも役立つだろうというような世界です。学校は、こういう世界を子供に押しつけてきたのです。
 でも、子供はそれで育ってきたのか。『うしおととら』の大学生の例もそうですが、多くの悩める中学生、高校生たちが悩みを解決するのに、教科書から学んでいる訳ではないですね。それを比喩的に「マンガの世界」と呼びます。教科書の世界が合理性とか間違いがないことを問題にするのに対して、マンガの世界は感性、勇気、あるいは批判力です。
 手塚治虫さんが亡くなってから出た『ガラスの地球を救え』という本の中で、手塚さんが何のためにマンガを描いてきたかということを書いています。子供たちに、感性とか批判力とか夢見る力とか冒険力とか、そういうものをつけたいからだと。教科書では絶対に冒険力なんか教えられないです。
 今度の指導要領の改訂で、総合的学習が入りました。これは授業時間全体の1割程度ですが、教科という国の枠で一定の基準が決められたものではないものが、人間形成に必要だと判断して作ったという風に、私は見ています。
 子供たちが自主的に自分たちで作っていく世界というのは、先程言った雪だるま式学力の世界なんです。どんなに小さくても、どんなにいびつでも、とにかく何か自分の世界を自分なりに作っていく力。これはやはり生きる力ということですね。
 マンガとかアニメーションを読み手の立場から客観的に見た時、人間が育つうえで意味があると思います。学校ばっかり主義や、学校化社会というようなところから一歩はみ出していくことが、このマンガフォーラムで考えていきたい基本的路線だと思っています。十分ご理解いただけないかもしれませんが、そんな思いで話しています。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION