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【必要なのは現場の創意工夫】
 里中――先程から色々な話が出ておりまして、こういう話をなぜ皆さんが熱心になさるかというと、それだけわが国の未来に関して心配なさっているからだと思います。心配なさっているにもかかわらず、寺脇さんはお気の毒に色々なことで矢面にお立ちになって、本当は言いたいことはもっとおありだと思うんですね。
 世間の方はご存じないことを、ちょっとだけお話しさせていただきます。私も旧文部省に対して偏見を持っておりました。文部省が教育の内容を押しつけているのではないかと。大人たちは昔から、何かあると「だって御上が」「文部省の指導要領はこうだから」と言う。先生たちも直ぐそう言う訳です。
 でも、文部省の方とお会いしたり、いろいろな委員会に入っておりますと、皆さん実に物分りがよろしい。物分りが悪いのは現場だということがよく分かりました。総合学習の時間にしても、学校の自由裁量の部分にしても、「ご自由に」と投げかけると、そう言われると何をしていいか分からないというのが教育現場の方々です。
 若い先生たちは、熱意を持って教育現場にお入りになります。ところが悲しいかな、若い先生たちもお年を召した先生たちも、生まれてこのかた学校以外の社会で生きた経験がないため、物事の価値基準がすべて学校という枠のなかで決められてしまう訳です。
 若くて情熱のある先生が学校に入り、「私は心のこもった教育をしたい。子供たちに勇気と力を与えたい」と思っても、実は学校内部での色々な型をはめるということにとらわれて意欲をなくしたり、ノイローゼになったり、自分が保健室で一日中寝ていたいというような先生も増える訳です。
 それで、「学校が学校独自の責任で、預った子供たちにこういう育て方をしたい、こういう教育を受けさせたいと思ったら、ご自由にどうぞ」と言うと、それでは困るという現場からの声が多い訳です。マニュアルが欲しいと。何をどこまで教えていいのか、総合的学習の時間に何を教えればいいのか見本を指し示して欲しいという声があまりにも現場から多く返ってくる。そのことを情けなく思いました。
 かつての教育は、子供の体格が大きかろうが小さかろうが同じサイズの制服を着せるのが公平だということで、大きい子は窮屈な思いをし、小さい子はダブダブで動きづらい思いをした訳です。もっと自由に、子供たちの可能性を伸ばすということは、一人ひとりが自分の体に合った洋服を着られるようにするということです。それが今求められている教育のあり方だし、文部省から文部科学省に引き継いだ投げかけ方だと思います。
 最終的には、これは現場の問題なんです。少子化で大変だと言いますが、少子化こそチャンスなので、色々なことにチャレンジすればいい訳です。でも、日本人は何でも「これではいけない」「これでは大変だ」というのが好きなのです。
 
【知恵を使う教育が人間力を育てる】
 新しい教育で、皆さんがご心配なさっていること、特に母親が気にしているのは、学力が低下するのではないかということです。ちょっと前まで、わが子を自由に伸び伸びと遊ばせたいと言っていたくせに、週5日制となると、よその学校、私学と比べて学力が衰えるとこの子の将来にとって不利だから、いわゆる受験学力を高めるための努力をしていただきたいと学校に迫るわけです。学校が当てにならないとなると塾に頼るわけですね。
 親というのは子供の将来の安定を願っているものです。受験学力をつけると、いわゆる「いい学校」に入れます。「いい学校」を出れば、「いい企業」に入れる。一番安心なのは官公庁ですね。一生クビにならないし、身分は保証されている。それで安心するかと思うと、平均寿命が延びれば延びるほど心配の種は尽きなくて、子供が70歳になっても100歳の親は心配しているわけです。
 いまだに現実が分かっていない親御さんたちは受験学力を求めます。ですが、少子化、大企業の倒産、銀行の破綻、国がどうなるか分からないという時、本当に求められるのは生き抜く力です。世の中がめちゃくちゃになった方が、何重にも重なった目のうろこが落ちるいいチャンスだと思います。
 『北風と太陽』のお話で、太陽の方がやさしさの代表みたいに言われています。躾においても「北風よりも太陽の方がいい」とよく言われますが、私に言わせれば、北風も太陽も旅人の上着を脱がせるという目的のために頑張る訳ですから、どちらも自分勝手であって、別にどちらがやさしいという訳ではないのです。
 北風も太陽も、自分の持っている知識、自分の持っている力、つまり基礎学力および応用学力を駆使して旅人に働きかけた訳です。どうやったら旅人の上着を脱がせることができるだろうと考えて、北風はビュービュー風を吹かせ、太陽はポカポカ暖めた。これが知恵です。知恵の点で太陽の方が勝っていたということなんですね。そして、旅人は、北風がピューピュー吹きつけると寒いものですから、余計に縮こまる。実はこの反応は、少しでも寒さから逃れるため、体が知っている知恵なのです。暖かくなってくると、上着を脱ごうというのも知恵です。
 学力があって知恵がある。人間として本当に人間らしく生きるためには、この知恵の部分が大事なわけですね。これがいわゆる人間力だと思います。これから求められているのは、この知恵を使う教育だと思います。では、マンガになぜ力があるのか。
 
【自発的疑似体験がマンガの底力】
 谷川先生から『うしおととら』のセリフで力づけられたというお話のご紹介がありました。いいセリフというのは、活字の名作の中にも転がっております。映画でもあります。先輩や母親、周囲の人が言ってくれる言葉もあります。それが、たまたまその子にとっては『うしおととら』というマンガだっただけではないかと思われる方もいるでしょうが、実はここにマンガの力が隠されていることを分かっていただきたいと思います。
 人がどんなにいいアドバイスをしてくれても、聞く耳を持たなければ右から左へ流れていきます。受け身でいても入ってくるもの、それが人の言葉であり、映画とかテレビのセリフである訳です。活字は、否応なく自分で読んで認識しなければいけないし、自分が認識した言葉しか心に染み込んでいきません。マンガのセリフも同じで、自分で読まなければストーリーが前に進まないのです。映画、テレビドラマ、お芝居などは、ボーッとしていても寝ていてもドラマは進みますから、完全に受け身です。同じドラマを味わうとしても、自分自身が読むものとは違います。
 そのうえ、マンガには活字にない要素があります。文字は記号ですから、それによって意味を認識する訳ですが、マンガの場合は色々なキャラクターがいても、どのキャラクターがこのセリフを言っているのかということを否応なしに、自然に認識します。
 読者は、それぞれのキャラクターが自分の一人称で語っているセリフを認識するために、そのキャラクターになった積りで読んでいる訳です。だから感情移入がしやすい訳です。活字や、映画、テレビドラマ、お芝居などでは、感情移入がしにくい場合もある訳です。
 マンガはストーリーを追いかけるために、否応なしに感情移入を成立させないと前に進めない。『うしおととら』のセリフを、読者は知らず知らずのうちに感情移入して読んでいたので、胸に染み込んでいった訳です。感情移入しやすいこと、これがマンガの力なのです。しかも、何通りものキャラクターになりきらないと、そのセリフの意味が受け止められない。ですから、マンガを読んでいる子供は、ただボーッと読んでいるようでいながら、実は心の中では様々なキャラクターの立場になって、そのキャラクターのセリフを読んでいる訳です。これが何かの役に立つか立たないかは、結局はその本人の問題ですが、様々な立場の人間の言い分をその人の積りで読むことは、他者の立場を理解するという、大変すばらしい能力を鍛えると思います。私はそう信じて描いております。子供たちにも、心が成長する一時期に、たった2、3ページでもいいから、複数のキャラクターが登場するマンガ作品を描いて欲しいと思います。ゲームが子供たちの間で流行っておりますが、それも実はゲームに登場する様々なキャラクターになりきって、その立場であれこれ、あの手この手を考える訳です。
 まだ心がやわらかな時期に他者になりきって何かをする、他者の立場になりきってその気持ちを読み取るという訓練は、なかなか他の分野では出来ないのです。なぜ子供がマンガに惹かれるか、ゲームに惹かれるかというポイントは、そこら辺りにあるのではないかと思います。
 マンガというのは、実は人間形成に役立つ力があるということですが、この「役立つ」という言い方は嫌ですね。親や学校の先生が子供に言います。「覚えておくとあなたの役に立つのよ」「今我慢すると将来あなたの役に立つのよ」「これを覚えておくと試験の時に役に立つよ」そう言わないと子供は覚えようとしない。大人は、子供の低い次元のレベルに合わせてものを言っているのです。
 日本の社会では、常に一番弱い者の立場に立って、話し言葉も世の中の仕組みも成立するという変な習慣があります。家庭の中でも一番年齢の低い者の目から見た立場名で互いを呼びます。太郎さんと花子さんは子供が生まれると、「パパ」「ママ」もしくは「お父さん」「お母さん」になり、やがて「おじいさん」「おばあさん」になる。子供も下の子が生まれると、「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と呼ばれる。そういう社会なのです。
 ですから、教育においても一番レベルの低い子に合わせて考えてしまう。それではかえって不公平だということで、今回の教育改革は、子供一人ひとりの体格にあったTシャツを与えようという考え方だと思います。Tシャツというのは多少伸び縮みしますから、子供たちが自分の着心地のいいものを着なさいということです。これが真の思いやりで、やっと日本の教育界も少し大人になった訳ですね。
 指導要領は、一応何年生ならここら辺までの漢字の数、ここら辺までの公式を覚えるといいですよという、最低ラインを示している。ところが、現場は「これさえ覚えればいい」と誤解して、覚えることが少なすぎるのではないかと心配する訳です。
 総合学習の時間は、各学校の自由裁量で何を教えてもいい。子供の生きる力を育むために体験学習でも何でもしてもいいのです。ところが、例えば、「小学校でこの時間に英語を教えてもいいか」という質問に「学校の自由でおやりください」という例を挙げると、その夜のテレビで、したり顔のニュースキャスターが「今回、文科省は、小学校から英語教育をしようと発表しました。文科省はできる子、エリートをどこまでつくれば気が済むのでしょう。できない子は益々ついていけなくなります」と言うのです。
 幼児期に子供は遊ぶことで覚えていく。まず体から覚える訳ですね。そして次に学校教育という場で、頭で覚え、頭を鍛えていく訳です。ところが、自分にも物語があるということ、すなわち、自分の人生の意味を知らなければ心は育たない。そして、物語への感動や共感が心を育てる栄養になるのです。
 大人はこれまで、手取り足取り子供を引っ張ってきたのですが、これからは子供に対して「あなたが行く道には可能性がこれだけありますよ。Aの道を行くとこういうことが待っているかもしれない。Bの道はこうだよ」ということを、子供に教えるのが大人の役割です。そして、「どの道を選ぶかあなたが選びなさい」というのが真のやさしさです。
 それだけではなくて、道の外側をついていって、子供が迷ったら「スタート地点に戻って、違う道を行ってもいいよ」とアドバイスする。あるいは、道の途中で子供がとまどっていたら、手を引っ張るのではなくて、「今は上り坂で苦しいかもしれないけれど、登り切ると後は下るんだよ」と道の脇から声をかけてやる。これが大人の役割、真の愛情だと思います。
 
【マンガに見る日本人の創造性を教育現場で】
 さて、日本のマンガやアニメが世界でも例のない勢いで発達した原因には、ドラマの多様性、テーマの多様性、キャラクターの多様性があります。かつてマンガというのは、子供が見るものだから、ちょっと教訓的な話であって、でも子供にとって難しすぎてはいけないというので、分かりやすいお話、つまり、正義は必ず勝つという教訓的なお話が主流でした。子供に与えていい健康的なおもちゃと同じように、子供の暗い部分を刺激するものであってはいけなかった訳です。
 ところが、戦後日本においては、手塚治虫を筆頭とする改革者たちがそれまでの常識を打ち破って、マンガという形式を利用して、表現できるものはすべて表現しようとチャレンジした訳です。ですから、子供相手のものにもかかわらず、暗いドラマも生まれたし、格好良くない主人公も生まれたのです。必ずしも正義ばかりが勝つのではない物語も生まれました。
 でも、子供たちはそれを読んで、一人ひとりのキャラクターとなって、そのセリフに感情移入しながら実感する訳ですから、理不尽な結果になる物語を味わうと、その理不尽さに対する憤りというのは、教訓めいたお話を聞くよりももっと心に迫るものがあるのです。
 学校で、「人を見かけで差別しないようにしよう」というお題目のような、誰もがそれはそうだと思うことも、頭で分かっても心ではなかなかついていかない部分があります。ところが、手塚作品の中で、悪者と言われているロボットの彼なりの事情を述べられると、そこに至るまでに感情移入して読んでいるものですから、悪いロボットの悲しさとか辛さまで分かるし、なぜ彼が悪いことをしてしまったのかという理由も、子供ながらに納得できるわけです。そして、その悪い奴をやっつけてめでたしめでたし、ではないのです。悪いロボットに感情移入した子供が考えることは、こういう悪いことをしてしまうロボットが生まれないような世の中にしなければいけないという、そういう正義感なんですね。
 マンガのキャラクターに表情がついていて、それまでのドラマを背負って色々なことを言います。それは実感として胸に響くわけです。マンガの中のキャラクターに感情移入して一体化していますから、その言葉が実感として味わえる訳ですね。この一体感がマンガやゲームに子供たちを惹きつけるのだと思います。
 キャラクターの多様性ということでは、世界の多くの国々では、主人公は分かりやすいヒーローでなければいけなかったし、悪者は最初から悪い顔をしている。ところが、日本のマンガにおいては、異形といわれる者でも主人公に成り得たわけです。これは大変大人っぽい、暗い世界です。子供たちにはそういう世界を理解する可能性があるし、その暗さを味わうことによって、その人の置かれた立場、そういう姿に生まれた者の悲しさを味わうこともできる訳です。
 日本のマンガ家は、基礎の絵の力に頼らずにキャラクター造形をやってまいりました。それが「下手な絵」とか「デッサン力もない」と言われるゆえんですが、デフォルメされた絵は記号として何を言わんとするかが伝わればいい訳です。その自由な発想のもとで、「下手であっても味わいのある絵」「デッサンは狂っているけれど、とても心惹かれるキャラクターの動き」といったものを生んでまいりました。日本人にはそういうものを受け入れる素地がある訳です。
 浮世絵で、実際にあんな変な顔の人はこの世のどこを探してもいないでしょう。目の幅の半分以下の口幅は、実際にそのまま町を歩いていたら気持ちが悪いですよね。ところが、あの流麗な線は、デフォルメされて記号としての口だと分かる。あんなに小さい口は実際にないと分かっていても、その誇張を美しい、格好いいと感じる訳ですね。
 アニメーションのキャラクターも、ディズニーアニメに見られるような、まず人間を写したフィルムから動きをトレースして、キャラクターに自然な人間の動き、顔立ち、体つきを当てはめる描き方ではなく、いきなり突拍子もないバランスのキャラクターを登場させる。マンガが下地にあるから、アニメにおける多様なキャラクターが生まれる訳です。
 人間の現実のかわいい子をアニメーションのキャラクターにしたような絵が海外のアニメーションだと思ってください。日本の場合は、最初から思い切りのデフォルメから始まったので、人間のかわいい顔とアニメやマンガのかわいい顔は違う訳です。だから、どんな設定のキャラクターでも自由な発想で生み出すことが出来るのです。
 ポケモン・シリーズのあの多様なキャラクター造形も、決していきなり生まれたものではなくて、日本の長い間の文化と、私たちが知らず知らずに持っているデフォルメする能力から生まれたものだと受け止めてください。
 マンガもアニメも、何となく世界に受け入れられた訳ではなくて、底知れない私たちの力、蓄積された日本人の色々なイメージの処理能力、表現能力が生きたものだと思っていただければ幸いです。そういう目で教育におけるマンガ・アニメの活用ということも考えていただければ、余計嬉しいと思います。


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