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【新教育課程ではモチベーションを高める】
 次に基礎学力です。これは、今までは一斉画一主義で分からない子を切り捨ててしまったのを、全員に分かる授業をするのがテーマです。習熟度別の指導を導入し、一人ひとりに合わせる。切り捨てられてきた3割ないし5割の子供たちは、少なくとも今までよりは力がつくようにやる訳ですから、基礎学力の総体は上がらなかったらおかしい。それはまた学力低下論者も認めているところで、「落ちこぼれに少しぐらい力がついたってどうする」とおっしゃる方がいるのは、落ちこぼれに力がつくことは認めていらっしゃる訳です。
 問題はあとの2つの学力です。受験学力は、私たちははっきり必要がないと宣言している。確信犯的に受験学力をつけるのは、もう公教育の仕事ではありません。それに合わせるように高校入試、大学入試を変えるというのは、また別の話になります。受験学力はいらないのだから上げなくてもよい。それを上げろという人は見解の相違です。ですから、クリアな論点としては、応用学力が上がるか下がるかという議論をしなければいけない。それには2通りあると思います。
 今までのやり方で上がってきたのだから、今までのやり方でやれという意見。そして、私たちのように、勉強しないと食べていけないとか、勉強しないと学校に行けないとかいう、北風を吹かせることによって勉強へ駆り立てた時代はもう終わってしまっているので、無理に学校の中でだけ北風を吹かせても仕方がないではないかという意見です。
 藤沢市の教育センターは40年間、中学生を対象に、勉強する意欲、時間を調査していますが、いずれも40年間ずっと下がり続けているのです。この40年の前半20年は、学ぶことをどんどん増やし、詰め込んだ時代です。後半の20年は、詰め込み教育批判から、ただただ減らしてきた時代です。しかし、増やしても減らしても、意欲は下がる一方だったのです。ということは、画一的にやっていることに問題があるのではないかと考えるべきではないか。皆が同じことに興味を持って勉強する気持ちになれ、国語も算数も理科も社会も、同じだけ興味を持って同じだけ勉強しろ、というのは不可能なのです。
 分かる授業を徹底するというのは、「おもしろい授業」をやっていけばいい。おもしろいというのは、興味が湧く授業ということです。ただし、おもしろいというのは主観ですから、全員が必ずおもしろがるということはありえない。自分のやりたいところをどんどん進めるようにしていく、チョイスできるように変える。あるいは、一人ひとりに合わせる教育制度に変えることで、学ぶモチベーションをつくれると私たちは思っている。
 これが、そんなことでは生ぬるいと考える人たちと対立するのは明らかです。これは水掛け論で、今の段階では結論が白黒つけられないので、結果できちんと検証していかなければならない問題です。
 総合的学習というのは、ただ知識の使い方を教えることにだけ意味があるわけではなく、使い方を学ぶことによって、こういう風に使えるのなら貯めようと思う要素もあります。
 総合的学習は教科書がない。教科書は、簡単なことから順番に段々難しいことが書いてあって、系統的に勉強していく。総合的学習の時間はいきなり、学校の前の川は汚いけれど、どうやったらきれいになるだろうかというところから始まり、系統もへったくれもない。しかし、目の前には自分で触れる川がある。この川をきれいにするにはどうしたらいいだろうかというところから逆算していくと、こういう知識が必要だ、こういう技術が必要だということが分かる。
 今までの教育は、「学んでおけば、いつか使うことがあるから」「大学を卒業したら使うかもしれないから」と言って、やってきたのです。総合的学習では、貯めている一方のところと使うところとがどこかで繋がっていることを知ってもらいたい。
 こんな豊かな狭い国の中で、そこの中にまた階層をつくって上だ下だと言っているような時代はもう終わらなければいけない。自分の考えを持つこと、外国の人や色々な人たちとコミュニケーションをすること、違う価値観、違う宗教、違う民族と共存していける力というものが不可欠だろうと思います。
 
【マンガも映画も小説も人間力】
 最後に、子供を取り巻く環境とマンガの話をちょっとさせていただきます。私は、小学生ぐらいの時にマンガがウワーッと広がった世代です。
 その当時、“カバゴン”こと阿部進先生の『現代っ子採点法』と『現代子ども気質』という本がものすごいベストセラーになりました。片方は手塚治虫先生、片方は石ノ森章太郎先生の表紙と挿絵でした。実は私は、小学校の4年生の時に親父の本棚にあったのを、中身は難しい本なのですが、石ノ森先生の絵や手塚先生の絵が描いてあるから何かおもしろそうだというので全部読みました。
 最近、その2冊の本が1冊のハードカバーで復刻されたので、もう一回読んでみたのですが、このごろの子は親の言うことを聞かないとか、この頃の子はマンガばかり読んでいるとか、この頃の子は計算高いとか、今の子供たちが言われているようなことを40年前の私たちも言われていたのです。それで40年経ったこの私が、この頃の子供はけしからんなんて、恥ずかしいことはよう言わんなと思いました。
 実は今日初めて告白しますが、私は少女マンガを読んでいました。中学生ぐらいの時には、デビューなさったばかりの里中先生の作品を読んでいました。思春期の男の子が少女マンガを読んでいるなんて、恥ずかしくて人には絶対に言えませんでしたが、妹に買ってこさせて読んでいました。
 このフォーラムの何回目かにご登場になる、ちばてつや先生のマンガが私の人格形成、人間形成にどれだけの影響を与えたかというのは、多分2時間ぐらい話ができるのではないかと思います。もちろん、映画からも小説からも、あるいは学校の勉強からも影響は受けています。つまり、人間力を育てるために何をしたらいいかという時に、一通りの方法ではないということを考えなければならない。
 「この頃の子供はテレビを見る時間が増えた」というけれど、どのテレビなんだと言いたくなる。「シリーズ・課外授業」を見ているのは、いわば勉強しているも同然じゃないですか。自然ドキュメンタリーはどうか。番組の中身も見ずに、テレビを見ていると言う。私はゲームも好きですが、ゲームのすべてが子供の教育に悪いとは思わないです。でも、ゲームはよくない、アニメはよくない、と言われている。では、小説だったら、いかがわしい小説でもいいのでしょうか。
 媒体が何かということで議論をする時代はもうとっくの昔に終わっているのです。大人が中身を精査しようとしないのは面倒くさいからです。マンガの中身を見る手間を惜しんで、「マンガはけしからん」と言うか「マンガを読んでもいいよ」と言うかの二分法だと楽だからです。そうではなくて、子供はどんなマンガを読んでいるのかを知る。あるいは、マンガについて子供と語るような時間を持っていけるか、という問題なのではなかろうかと思います。
 ところで、コミュニケーション技術というのは、決して語学が上手になるとか、国語の勉強をするということだけではありません。総合的学習の時間にレポートさせると、子供たちは、マンガでレポートしたり、ニュースキャスターのまねをしてレポートすることがあります。それは単にニュースキャスターのまねをしているのだけれど、ニュースキャスターのレポートの仕方が自分には合っていると思うからやっている。つまり、そういうものなんでしょう。
 学校というのは型にはめたがる社会ですから、いかに型にはめない授業を先生方にしてもらえるようになるか。少なくとも、1割の総合的学習の時間だけは型にはめないでやってくれないかな。それをやってみると、先生方も、残りの9割の時間も型にはめない方が、自分もやっていて楽しいな、子供たちも食いついてくるな、という風に、徐々に感じていただけるのではないかと思っております。
 
 谷川――学力については、本当に正解がなくて、私は学生が「学力について卒論を書きたい」と言うといつも、やめろと言うんです。正解が出ないので、やっても物にならないからです。
 私の学力論をちょっとお話しさせていただきますと、寺脇さんと根本的に似ているところがありまして、今の低学力論に対しては反対の立場です。低学力論というのはきわめて単純な発想で、算数ができない、漢字の書き取りができない、県名も言えないという、そういうレベルの話なのですが、私は2つの学力論があるのではないかと思っているんです。
 1つは、鉄棒式学力というものです。鉄棒というのは、バーがありまして、そこに子供が飛びつこう、何とかそこに到達しようと努力をする学力です。日本の社会や、政治的、国際的な問題を考えた時に、最低ここまでは知っておいて欲しいというもので、これは寺脇さんの言われる基礎学力に繋がっていると思います。
 日本の学校は、戦後、戦前を通じて、基本的に鉄棒式学力でレベルを上げようと考えてきた訳ですが、これが今、ある種の破綻をきたしている部分があり、それだけでは駄目だというのが私の考え方です。
 そこで、もう1つの学力論は、雪だるま式学力と言います。雪だるまというのは、どんな大きな雪だるまでも、最初は小さな雪玉から転がして転がして作っていく。つまり、あるがままの子供の姿をふくらませていくということで、実はこれが教育の一番のポイントなのだけれど、その部分が今までの学校教育では十分できていなかった。
 教師の発想と母親の発想を比べてみると、教師は2、3年しか担当しませんから、鉄棒式学力で考え、母親はもっと長いスパンで子供の成長をみるんです。このことは実はものすごく大事なことなのです。
 大江健三郎さんは、最近、小学生、中学生向けの作品を書きたいとおっしゃっています。ご存じのとおり、大江健三郎さんの息子さんは障害者です。大江夫妻はものすごく苦悶し、小学校3年生ぐらいの時に、出身の愛媛に3人で帰りたいと思って「帰るか」と言ったら、光くんが「いや、僕は帰りたくない。学校には友達がいるから」と言ったそうです。つまり、友達がいることによって彼は支えられていた。ですから、大江さんは「つなぐ」という言葉をすごく大事にするんですね。ネットワークなどというと格好良すぎてしまうけれど、人間と人間が繋がっているから生きていけるんだということです。
 大江さんは、今の子供たちに何を言いたいのかというと、「自立」ということだというんです。自分の足で歩いて自分で判断して生きていける子供。アップスタンディングと言うそうですが、人間が自分の力でやっていける力が必要だということです。
 文科省はこの10年来、「生きる力」ということを言ってきましたが、低学力論者は、生きる力については何も言っていません。今の子供たちに生きる力がなくなっていることは事実なのに、そのことが低学力論者には分からないのです。
 今、障害者の話を出したのは、実は里中先生の30周年記念パーティの時、会場でやったゲームで集まったお金を東京都の特殊教育協会に寄付するというお話があり、なぜマンガと特殊教育が関係あるのかと思っていたら、里中先生が最後の挨拶でこういうことをおっしゃったのです。今でこそテレビの下にテロップが出ますが、昔はテレビに文字が入らなかったので、聴覚障害の方はテレビを見ても分からない。ところがマンガというのは、例えばドアをノックする時に「コツコツ」というのを文字で書くから分かるという訳です。
 それで私は目からうろこが落ちた思いがして、マンガが障害者問題と非常に深い拘わり方をしていることに気づかされ、その辺りからマンガの世界にずっと引き込まれていった経緯があるのです。
 私はゼミでマンガのことをやっているのですが、学生に一番思い出のある、自分にとって意味のあるマンガを挙げさせた時、『うしおととら』というのが出てきました。私は読んだことがないのですが、藤田和日郎さんという作者の、蒼月潮という中学生が大妖怪と出会う話だそうです。
 大学2年生の男の子は、こう言っています。
 「高校の時、僕は部活でキャプテンをしていたが、人を引っ張ることが苦手な性格だったため、プレッシャーを感じて精神的にかなりまいっていた。学校そのものが嫌になって、ほんの少しだけ死のうかとも考えた。そんな時、うしおの父親が不登校の中学生に言った、『トンネルってよう、嫌〜な時みたいだなあ。一人きりで寒くてよう。でもな、いつかは抜けるんだぜ』という言葉のお蔭で、僕は頑張ることができた。この重圧の先にもきっと光があるんだ。キャプテンなんて、たかが1年間じゃないか。1年何とかすればトンネルを抜けられるんだと思い始めてから、キャプテンとしての仕事もきちんとこなせるようになり、楽しめるまでになった。もし『うしおととら』がなかったら、きっと僕は完全に押しつぶされていただろう。うしおの父には感謝してもしきれない。」
 こういう風な理由を書いて、『うしおととら』を紹介しているのですが、こういうパターンが結構多いのです。中学生とか高校生は一番苦しい時期、特に男の子は性発達段階的にも非常に苦しい、悩む時期です。そういう時に救ってくれるのは、学校の先生ではないんです。中学生のアンケートをとったら、「悩みがあった時に誰に聞くか」というと、先生は女の子も男の子も2%です。本当に苦しい時に救ってくれているのは、意外とマンガというようなこともあるのかなと感じています。
 それでは、里中先生に、今一番おっしゃりたいこと、文部科学省関係の委員その他、色々な活動をされておりますが、そんなことを含めてお話しいただきたいと思います。


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