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 第七章の「永遠の否定」、その「永遠の否定」に主人公のトイフェルスドレックという教授が達する前の二章が非常に大切であります。この二章をきちんと説明しなければ、「永遠の否定」に入るその内容がわかりません。「トイフェルスドレック教授が「永遠の否定」になったこと」、これは実は第五章から始まります。第五章は、トイフェルスドレックがブルーミーネという女性との恋愛が失敗したことに始まり、それによってトイフェルスドレックは若い人間としてのプライドを失い、「最後の審判」において、無限の轟音が起こった如く、暗闇のように厚い帳が彼の魂を覆ってしまったわけです。恋愛による失敗、それに加えて彼の職業的な立場の困難、これが彼をして人生に第一歩の傷、いわゆるつまずきを強いたわけです。そして、彼はあたかも宇宙の中、廃墟の中を奈落に向けて落ちていったというような感じを受けたのでした。
 そういう中で、第六章では「トイフェルスドレックは、しかかりの仕事を直ちに片づけて静かにつえを取り上げ、地球上の遍歴回遊を始めたのです」。ここでトイフェルスドレックは遍歴を始めるわけです。それによって、「この世界巡遊を企て、かつ行ったかについて名づけることのできぬ」これは不安が発生し、不安が彼を駆り立てたが、外面的なこういう運動、旅行によって一時的な偽りの慰藉、慰めを得ようとするにすぎないものであったということ。「彼は依然として寂しかった。そして、力強い内面的な憧れが、みずから終始幻影をつくり出した」、幻をつくり出した。「逃げていっても心の飢餓は始終彼の傍らについて離れず、地獄の悪魔羅刹がことごとく彼の後ろからやってくる。あてもなく急いであちこちに歩き回らなければならなかったのである」これが第七章に入る前における第六章の“トイフェルスドレックの悩みという問題"になります。
 第七章に入りますと「トイフェルスドレック教授は悩みの果てに全く希望から閉め出され」つまり、世界を漫遊しながら得られたものは何か。実際、希望はないということ、人間に最も大事な希望を失ったということ。「黄金色の東の空を望むこともなく、ぼんやりと四周を見渡して地震と旋風とをはらんだ暗闇の銅色」つまり、銅の色をした空をのぞき込んでいるのである。そして全く無宗教だ。こんなようなときになったら、もう宗教というのはない、もう信仰がなくなってしまう。「懐疑の色はだんだんに濃くなって不信仰となった。彼はそのころ、不思議な孤独の中に生きていたのである」全く個人だけを信用している。そういう個人的な、閉じ込められた個人の中に自分を生きてきた。「彼は間断のない、漠然とした、骨身を細るような恐怖の中に生きていたのである」。
 「彼は戦々恐々として何とも知れぬものを怖がっていた。あたかも天地間のすべてのものが私を害しようとしているかのように、あたかも天地は人を食う怪物の無辺際のあごであり、私はその中でビクビクしながらパクつかれるのを待っているにすぎないかのように思われた。かようにして「永遠の否定」は私の存在の、私の自己のあらゆる隅々を通じて厳かに響き渡った」。これはつまり、私の否定、我々個人から見た場合においては無信教になる、不信心になる、誰をも信じなくなる、孤独になる、自分だけが存在する。このような状態がいわゆる「永遠の否定」の状態である。その「永遠の否定」からいかにして逃げ出すかという問題、「その全自己を持って生まれた、神様がつくりたもうた威厳を持って立ち上がり、そして力強くその抗辯を記録したのは、さらに「永遠の否定」、悪魔の永遠の否定はと言ったのである。
 「見よ、汝は父なく、寄辺なく、宇宙は我が物(悪魔のもの)であると。それに対して私は全自我を持ってこれに答えた。「私は汝のものではない、自由である」」、非常に大切な言葉、「自由である」。決して悪魔にとらわれて、悪魔のものではない。「私は汝のものではない、自由である。そして永久に汝を憎む」、悪魔を憎むと。「このときからこそ、私は精神的な新生、霊智、魂の知恵の火の洗礼が始まったとしたい。おそらくその後直ちに一人前になり始めたと思う」、これはつまり、自己の否定から、いかに永遠の否定から抜け出す第一歩であるということです。
 その次に第八章の「無関心の中心」に入ると、「彼の「霊智の火の洗礼」の後、彼の不安はかえって増したが、しかし、もはや全く希望のない不安ではなかった。今後はそれが少なくとも回転すべき一定の中心を持ったことを推察し得るのである」混沌とした、こういう時代の中に一定の中心を持ち始めた。「トイフェルスドレック教授はさんざん火に焙られたあげく、とうとう「私はいわば生石灰化されてしまった」」と。生石灰されたというのは非常に中立化した、鎮静化されたような状態に入る。「いや、むしろ、世間によくあるように、かなくそになってしまわねば仕合わせというものだ」、物が焼かれた後における灰という、そういうものになった。むしろ、生石灰という中性的なことで終わってしまった。
 「しかし、とにかく単なる経験のおかげで」、これを「練習」と訳している本があります。私が今言っているのは大体岩波文庫の翻訳した部分で、その中では「練習」と翻訳しておりますが、むしろ、「経験」と言ったほうがいい。「この経験のおかげで、私は多くのことになれてしまった。不幸は相変わらず不幸であった。しかし、私は今やそれを幾分か見抜いて軽蔑することができるようになった」、世の中は何かということがわかるようになった。「このつまらない人生においては、どんな貴い人間も影を追う人、または影に追わるる人でなかったか。そうして、彼の華やかな衣服の裏を見透せば、随分惨めなものではなかったか」、表面的にはよく見えても、実は心の中では実際惨めなものであったと。
 「あまりにも重きを負えるトイフェルスドレックよ。しかし、彼のきずなは解けつつあるのだ。いつの日か彼は重荷を彼から遠く放り捨てて、そして自由に、そして再び若返って躍り出るであろう。「こういうのか」と彼は言う、「私の今到着した無関心の中心で、だれでも否定の極から肯定の極の旅行するものはぜひそれを通過しなければならぬのである」と。つまり、永遠の否定、自我を中心にしたものがいかにして離れて、一方的に永遠の肯定に入り込むこの中心が、いわゆる無関心の中心である。これを通過しなければ我々は脱出できないということを表現してくれている。
 第九章、最後の章は第十章で結論ですが、一応、第九章がこの『衣裳哲学』という書物の第二巻の終わりになるでしょう。「永遠の肯定」に入ります。「無関心の中心を通過すると彼は言う。「我々の生涯は必然に取り囲まれている。しかし、人生そのものの意義は自由にほかならない」」、私たちのところへもう一度振り返っていかなくちゃならないというのは、国も同じく自由でなくちゃならない、人民も自由でなくちゃならない。ここで人間の、いわゆる本当の意義はここに存在する。「人生そのものの意義は自由にほかならない、意志力の力にほかならない。「汝ら善を行いて働け」という神より与えられた命令が我等の行為に輝き出るまで、少しの休息をも許さないのである」。ここに初めて衣裳から、空想から、本当の現実に戻ってきて、いかにして神によって与えられた命令は、我々の行為と結びつくかということが初めてわかってくると。
 「しかし、確信は幾ら立派なものでも、行為に移されるまでは何の役にも立たない」、非常に大切な言葉です。このような言葉というのは大抵『聖書』に出ています。自信があっても行為がなければ完全でない。こういうような聖書の言葉というのが、ここでは具体的に、ここにおける認識の一文になってくる。「いや、本当を言うと、確信はそれまではあり得ない。何となればすべての思辯は本来果てしがなく、形が定まらず、渦巻きにすぎないからである」と。つまり、我々は論争を言い、そして論理を言い、いろいろな理屈を並べる。実際にこの思弁は本来果てしがない、結論がつかない。渦巻きにすぎないのです。「ただ、経験して疑うことのできぬ経験の確実性によってのみ、それは回転すべき中心を見いだして、みずから体系を形づくることができるのである」、非常に難しい言葉ですが、つまり、我々が実際に実行し、体験して初めて疑うことのできぬこの経験の確実性を得て、初めて我々は物事の真相を得ることができると。
 「ある賢人」、実はこれはゲーテのことなんです。これは「賢人」といっていますが、「ゲーテが我等に教えてくれているように「どんな種類の疑惑でも行為によらなければ、これを除くことはできない」ということは甚だ真実である。汝が義務なりと知る「最も手近の義務を為せ」、汝の第二の義務はそのとき既に明らかになっているであろう。しかし、人間の魂は自然と同じように創造の初めは光である」、これは聖書の創世記に出てきますが、結局、光がなければ天地ははっきりできない。創造の始まりはまず光から始まる。「眼が見えるまでは四肢五体が縛りのうちにある」と。つまり、ファウストに出てくる「わがよる目に早く浮かびこそあるものよ、こたびこそは汝らをとらえん」という、あの言葉の中に出てくる、いわゆる我々の認識、我々が理解して本当に目を持って、はっきり物をつかむことができるか。これが今言わんとするこの経験によるものである。
 「かつてむやみにごった返していた混沌の上に言い渡されたと同様に、嵐にもまれている。霊の上に「光あれ」という言葉が言い渡されたときこそ、神聖なる瞬間である」と。つまり、人間はこれによって救われたという。お釈迦様もこの言葉に救われ、そして、出家もその弟子の中でも親鸞和尚は、私はすべてがよかったんだというこの一心でこの世の中を去っていく。これがいわゆる「永遠の肯定」に入るわけです。「私もまた私自身に言うことができた。もはや混沌であるため、世界になれ、どんな小さな世界でも構わない。つくり出せー、つくり出せー、どんなつまらない、微塵よりも小さい製作物のかけらでもいいから、神かけてそれをつくり出せー、それはおまえの根かぎり精いっぱいなのだ。それならそれを出せ、立て、立て、何でもおまえの手でつくることを全力をもってなせ。今日と言われる間に働け。夜が来ればだれも働くことはできないだろう」。「今日と言われる」というのは、現在生きている間です。ところが、「夜が来れば」、つまり、暗くなって死んでしまった後は何もできなくなる。
 「そして、汝が求めているものは既に汝のところにあるのだ。ここ以外にはないのだ」、理想、理想に燃えた、理想は彼方にありはしないと。我々は今ここのところにあるのだ。「ここ以外にはないのだ。ただ、汝が見ることができないだけだ」、これが「永遠の肯定」になった瞬間であり、理想であり、その理想というのは何かというと、理想は現実だ。現実の中に立って初めて自分を生かして、そこに初めて「永遠の肯定」が得られると。
 最後に、我々はこれらの三章を通じて、ここにこそ、トイフェルスドレックと同じく読者の我々も精神的な成年期に初めて達したと言えると思います。我等は今後一人前の大人の気迫と明瞭なる目的とをもって「善を行いて働く」のを見ることができるのである。そして、我等が求めていた理想の仕事場は、我等がこれまで長い間、その中でつまずき続けてきたこの現実の設備の悪い仕事場にほかならぬことを発見したのである。現実の中に我々の理想を発見する。天国を我々の現実の社会に見つけ出す、これが最も大切なことなんです。人生のすべては肯定的な態度で人々のために働く。人々のために働く。決して自分のためにじゃない、私利私欲ではない。人々のために働く。それが神より与えられた使命なのである。私の若き人生はこれによってまた救われ、そして、いわゆる人間の生きる意義というのは何かということを教えたのがこのトマス・カーライルの、いわゆる『サーター・リザータス』、これによって私も救われ、そして人生の生きがいを見いだすものであります。
 そして最初に私が言ったように、現在の私は、そのときのこの得られた「永遠の肯定」という事を思想的影響として今でもそういう考え方を持っている。そして台湾のために一生懸命努力している次第であります。(拍手)
中嶋】 ありがとうございました。
 今、お聞きになりましたように、李登輝さんが若き時代に非常にたくさんの哲学書に接せられたということを私も存じ上げておりますが、このトマス・カーライルの『衣裳哲学』、あるいは「衣服の哲学」という訳し方もあるそうですけれども、ここに示された非常に深遠な一種の人生観を得られたということが今日の李登輝さんをつくっているんでしょうね。
 この本は、今、日本では岩波文庫というのがありますが、日本教文社からトマス・カーライルの全集が出ているし、私が最初に読んだのはそちらで、とにかくかなり難しいです。今、こういうものを果たして読むべきか。私は、今、中央教育審議会という文部科学省の審議会委員で「教養教育のあり方について」という答申を一昨日出してきたばかりです。新聞にも取り上げられていました。日本の高等教育において教養というのがいかになくなってきて、李登輝さんの場合は台北高校ですけれども、特に旧制高校的な教養がほとんど今の大学にはなくなり、大学にはそんな学者がいなくなったと同じように教養がなくなってきている。それと同じような中で、李登輝総統がこのトマス・カーライルの『サーター・リザータス』を若き日に読まれたことに私は心を強くいたしました。
 しかし、これはなかなか難しいんです。トマス・カーライル自身が自分で語っているわけでもなくて、この小説はいわば架空の教授に託して、しかも、この名前も非常に皮肉というか、「悪魔の糞」という意味の名前をあえて主人公につける。そして、トイフェルスドレックとしてカーライルの哲学なりを語らせていく。それを李登輝総統が若きころに読まれた。この『衣裳哲学』というものが李登輝さんの精神形成の上で大きな意味を持つだけではなくて、今日でもそれが生きているというところに非常に意味があるような気がします。今、李登輝さんがおっしゃったように、カーライル自身もあまり満たされた青春ではなかったんです。なかなか、生業につくことができずにいた。しかしながら、最後は大学の学長になる。トイフェルスドレックを通じて、その青年期までの悩みを表現する。
 それはカーライルも言っているように、青春期に『若きウェルテルの悩み』でもってゲーテはすべての未熟な、それだけ生々しい自分自身の苦悩を書くんです。それからやがて解き放されて次の人生へのステップを進んでいく。そういう人生があって、そしてまだ不安な時期、自分が何になるかもわからない、そういう過渡期―常に苦悩に満ちているそういう苦悩の過渡期を経て、しかし、ある種の絶望「永遠の否定」を通して、逆にすべての全自己が持って生まれ、新しくよみがえった。初めから非常に恵まれた状況ではなかったという、その「永遠の否定」というところまで行って、そして新しい自己が生まれる。
 そして、李登輝さんがおっしゃった「永遠の肯定」というところに行くんですが、私は特に李登輝さんのこの本に共感するところ、こんなに深遠な哲学が最後は形として「永遠の肯定」、実行、行為に移されて初めて意味を持つというところに立ち至るんですね。そのときに希望ができてきて、だから、「立て、立て、何でもおまえの手でできることを全力をもってなせ。今日と言われる間に働け。夜が来ればだれも働くことはできない」、まさに今の李登輝さんの姿を彷彿とさせるのではないかとう思います。
 そこで、次に金美齢さんから今の話とある面通じる台湾について『台湾論』。おそらく司馬遼太郎さんが書いたような、台湾人に生まれた悲哀という中から、まさに、それはある意味では「永遠の否定」かもしれませんが、そこから新しい「永遠の肯定」が生まれるわけです。それを表現された、小林よしのりさんの『台湾論』に触れてくださると思います。では、金美齢さん、お願いします。


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