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個人主義時代の家族力
 少子化の根本原因は家族主義が崩壊して、個人主義の時代がきたことである。
 今にはじまったことではないが、個人主義に目覚めた人は昔からこう言っていた。
 「産んでくれと頼んだ覚えはない」(親子)
 「あわせものは、はなれもの」(夫婦)
 「兄弟は他人の始まり」(兄弟)
 そこで家族から離れて個人になって暮らすと、多少でも才能がある人にはいろいろ良いことがあった。
 
 高度成長期の日本では毎年三十万人の少年・少女が故郷を出て東京へ働きにきた。大阪、名古屋その他を合計すれば毎年百万人以上である。この人達は家族を離れて自分一人の力で暮らしを立てた。「ふるさとは遠くにありて想うもの」であり、「あのふるさとへ帰ろうかな」と歌では歌うが、実際に帰って住めるところはもうなかった人達である。
 家族には頼らず、一人ひとりで就職し、やがてそうした少年・少女同士が結婚して子供をつくり、共かせぎで働いて日本経済と大都市をつくったが、さて、その後彼等はどんな家庭をつくり、どんな子育てをしたのだろうか。
 
 都会では田舎のような家族生活を再現することはできないし、高度成長による税金の自然増収で豊かになった政府は親の仕事の大部分を代行してくれた。子供の弁当づくりは学校が給食し、故郷の父母への孝行や仕送りは社会保障制度と地方交付税がやってくれた。
 大都市の住宅街の環境整備は市役所が至れりつくせりにやってくれるので、昔のように近所の世帯主が集まって相談し、子供を総動員して行う大掃除やドブさらいや夜まわりはなくなってしまった。親はサラリーマンなので、親の仕事の手伝いもなくなった。
 家族の連帯はなくても、経済・社会・都市・地域は個人と公共団体の力で動くようになったのは、大成功のようだが、家庭の中はどうなっていたのかと考えると、そうとも言えない影響が次の世代に現れた。
 
 家族生活の良さを知らない子供達は、成人しても家族をつくろうとしないのである。三十代の独身者に未婚の理由をきくと、「必要がないから」と答える。「お母さんが元気なんだろう」ときくと、「そうです」とニコニコしている。古くからの家族主義の恩恵の下で自分の個人主義を満喫しているらしい。「老後は淋しいよ」と言うと、「五十歳になった頃、考えようかな」と答える。孫がない母の淋しさでなく、自分のことだけを考えている。
 
 いずれ将来、新婚旅行はお互いに退職金をもらって六十歳位になった人がする――という時代がくるらしい。子供がない家庭のことを“エンプティ・ネスト(空巣)”というが、それだらけの日本になるのかも。
 スペンサーというイギリスの大哲学者は老後、自分の著作集を膝の上にのせて「この重さより孫一人の重さのほうが良いのに・・・」と言ったらしいが、そう思う日がくるのかこないのか。
 
 知・情・意の三拍子のうち、知ばかりを重んじるとその子供はやがて個人主義になる。それでは人口は減少するし、国家は活力が低下する。但し、個人は自由が満喫できる。自由の満喫はやめられない。――ではどうする。
 知に偏った人向きの、知の含有率が高い家族主義や国家主義を見つけることができるかどうか。そういう社会をつくれるかどうか。
 
試案その一、イギリスを真似て十二歳の頃、インテリ向きかどうかの全国適正試験をする。
 合格者は人口の五%で十分。
試案その二、男子には徴兵の義務を設ける。国際常識により二年間とし、免除はない。
 兵隊生活の中味は新しく考える。
試案その三、出産適齢期の若い女性を雇用する会社には二年間、重い雇用税をかける。
 徴兵とのバランスである。
試案その四、出産と育児を終えた女性は国立大学その他へ優先入学できるとする。
 その権利は生涯有効で奨学金つきである。
 
 いかがでしょう、皆さん。
 「人間は家庭づくりが先で、勉強は後からでもできる」と言っているだけなんです。
(二〇〇六年八月「家族力」)
 
寛容と精神と牽引力
 牽引力と言えば誰でも思いつくのはリーダー論である。一般大衆の運命は、「何事もリーダー次第である」と前提して諸問題解決の責任はリーダーにあるとする。
 だが、現実の一般大衆は必ずしもリーダーについてゆかない。ついてゆく気にさせるのもリーダーの責任であるとして、それを牽引力と言うらしい。
 
 孟子は君主がもつ牽引力を二種類に分けて、それが軍事力の場合は「覇道」、人徳の場合は「王道」の政治と名づけた。そのどちらもなくなったとき、民衆は立ち上がって君主を放伐(ほうばつ)するとした。これが有名な「放伐論」で、テロ、ゲリラ、内乱、革命蜂起による新政治体制の樹立を孟子は肯定した。
 
 ところでこれが儒教の教えになると、
 「ほろぼされた過去の政治は悪である」
 「だから過去に対して許しはない」
 「許すものがいればそれは悪人である」となる。
 
 靖国神祉のA級戦犯問題はこう考えればよく分かる。
 儒教の世界には許しがないのだから、日本人が考える許しとか、寛容とか、相互理解とかを基礎にした対中外交は失敗するに決まっている。空振りの三振つづきが当然である。
 
 つまり日本は中国に対して牽引力がない。中国も日本に対してない。お互いに自分自身の理念を堅持して深くは交流しないのが、現実的な友好親善の道である。
 実際、日本と中国は二千年間「政冷」を基礎にときどき経熱する関係でやってきた。これからもそれがよい。
 
 ただし、この地球上には、「国際社会」という新しい共同体が誕生しつつあって、それは許しや相互理解や、または忘却が基盤にある。特に経済は未来が大事だから、経済共同体はそうなる。そうした経済共同体からスタートした政治共同体が成立しつつあって、儒教とか、ユダヤ教とか、回教とか、「許し」がない宗教をもつ国は国際社会づくりへの参加がどうしても一歩遅れている。そうした国は国際社会での牽引力がなく、テポドンや国連での拒否権だけが頼りの外交になる。
 
 今回、国連やサミットをリードしたのはアメリカと日本だが、キリスト教と神道の両国には許しの思想がある。両国が新しい国際社会づくりの牽引力になっているのは、単に軍事力や経済力が強大なためだけではなく、思想にも原因がある。
 
 塩野七生さんは、「ローマがエンパイア(多数の異民族を統合支配する大帝国)になれたのは、“寛容”の精神があったからだ」と書いている。
 中西輝政さんは、「アメリカは帝国になれない単なる強国だ」と論じられたが、多分アメリカの単独行動主義には寛容の精神がローマよりは不足だと感じておられるのである。
 
 では、日本はいかにあるべきか。
 安倍普三氏と麻生太郎氏の強力でフレッシュな二人組の力で得た今回の「北朝鮮非難国連決議」主導の成功を、世界は新しい日本の牽引力として歓迎している。
 
 「日本はいつもアメリカの後ろをついて歩く」、「日本は問題先送りの国だ」、「日本は自分の本心を言わない国だ」、「もしかしたら本心がない国だ」、「おどかせば、何でも出す国だ」、「日本は頼り甲斐がない国だ」、「しかし何はともあれ、日本とつきあっていれば不思議にトクをする」エトセトラ。
 以上は、日本に対する悪口雑言として言われてきたことだが、メガネを変えてみれば日本はたいへん「寛容」な国で、その精神を他国は理解できなかったのだと言える。
 
 覇道のメガネでは王道の勝利は見えない。
 日本はこれから王道の実行国として国際社会の舞台に上り、自然な成りゆきとしてエンパイアになるのである。
(二〇〇六年九月「牽引力」)


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