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プラグマティズムと評価力
 王様から「ご褒美(ほうび)をやるから、どちらでも好きなほうを選べ」と言われた人が、大きくて重い箱のほうを選んだら中味はつまらないものだったという話は、アラビアンナイトにも舌切り雀の話にもある。どちらも「外見だけで評価するな」という教えだが、しかし中味は見えないのだから、大きいほうを選ぶのは当然のことである。質よりも量である。
 
 評価にはこんな失敗が多くて、議論は「評価基準は何か」とか、「評価の目的は何か」のほうへ移っていく。それからは評価者の欲や先入観を排除するために、「何のために何を評価するのか」を冷静に書き上げてみたり、第三者に評価を委託したり、が行われるので、手間がかかる世の中になった。そんなひまにどちらかの箱をもらえばいいと考えるのはプラグマティズムである。
 
 さらによいことをどんどん実行して再度ご褒美をもらうほうが実際的だ、との考えになる。逆に、評価に手間ひまをかけるのが好きな人は、(一)時間をかければよい評価ができる、(二)第三者など評価者をふやせばよい評価に近づく、(三)自分より英明な人が世の中にはいる、(四)自分の責任を最小にするのが重要と思っている、(五)評価の世界にとどまっていれば実行しなくてすむから楽でよい、(六)評価を文章にするのはインテリの本務である、(七)いや、そうではない。文章はごまかしが多いから、そういう質の議論を量の議論にするテクニック(=評価の数値化)を考案すべきで、それはいかにも科学的で近代的だと思っている、などの特徴がある。
 
 アメリカの本に書いてあったが、(一)一番頭がよい人はプラグマティズムの世界に入ってどんどん実行する。富が得られる、(二)その次に頭のよい人は学者か官僚になる。名誉が得られる、(三)その次に頭がよい人は評論家になる。評価基準は手づくりなので多少の自己満足が得られる、(四)その次に頭がよい人は検査役になる。人に嫌われるが、実務を免れる得がある。多少の裁量権が楽しい――という次第でこの著者はアメリカ人らしくプラグマティズムに立脚していることが分かる。
 
 ところでドイツの哲学者カントは『純粋理性批判』と『実践理性批判』の二冊の本を書いた。主役は理性で、理性には道徳を評価し、その当否を判別する力があると説いているが、『純粋理性批判』のほうは難解で『実践理性批判』のほうは明決である。それは「時間」を考慮にいれたためで、プラグマティズムの世界には「時間」という簡単な答がある。
 カントはこんな例を挙げている。主命で道をいそいでいる従者の目の前で子供が川に落ちたとする。主命か人命かという二者択一に悩んでいる従者に、やがて「決定的瞬間」が訪れる。今ならどちらか一つは達成できる。今を逃すと両方が不可能になる――というときは善悪・当否・損得を論ずることなく「どちらかをやれ!」で、早く言えば理性は無用になる。つまり、実生活には時間の制限があるが、しかし理論の世界には時間がないから学者の議論は堂々巡りをするというのである。
 
 これを戦国時代の日本では、「軍議は戦わず」と表現した。御前会議を開くと不思議に不戦論や事態静観論が勝つ。(=外務省的、官僚的、学者的選択)
 多分、味方が受ける損害はアカウンタブルだが、敵にあたえる損害は未知数だからで、評価の会議を重ねると結局その国は評価力まで弱くなってほろびる。強くなる国は、決定的瞬間にはワンマン独裁を認めて家臣は主命に従い、主は全責任を負って、負けたときは自決するというやり方の国だった。
 
 それが、アカデミズムとプラグマティズムの総合で、それを会議ではなく一人の人にまかせるのである。そのため若君には「帝王教育」や「リーダー教育」があった。
 若君にはアカデミズムを教える儒学者と、プラグマティズムを教える老臣の両方がつき、さらにその統合を一人でするために禅僧が果断実行の精神を教えた。
 
 今の日本にはそういう訓練を受けた人がいないらしく、官やマスコミの評価にふりまわされる人が多すぎる。
 自分で自分を評価できない人に大事をまかせてはいけない。
 喝!
(二〇〇六年六月「評価力」)
 
負けるが勝ち ―武士道から考える対決力―
 武士道ブームだが、武士道の教えは初期・中期・後期で三種類に分かれている。初期は勇武第一で、中期は智謀賞揚、後期は人格礼賛である。
 
 常山紀談にこんな話がある。時代は江戸初期で三種類の武士道が混在していた時期である。「松平(黒田)筑前守忠之の家臣林田左門は戸田流の剣の使い手で足軽二十名を預かる身分だった。あるとき足軽達が口論して六名の者が同僚一名を斬殺して逃亡した。左門は直ちに馬を駆って追いつき一人対六人の対決になった」。(さて、この対決はどういう展開になったでしょう)
 
 足軽のうちの一人が言う。「我々を斬りにこられたのか。だとすれば容赦はせぬぞ」と六人が多数をたのんで刀の柄に手を掛ける。
 左門は右手を上げて、「早まるでない。拙者が追ってきたのは役目柄でござる。上司として殺人の理由を聞いておかねばならぬ。もしかしたら斬られたほうにも非があるやも知れぬ」。(武士は行政官になりかかっている。対決は話しあい型に移行しはじめている)
 「今さら我々に問い質したところで何になる。追いつけなかったことにしてこのまま帰られたらどうじゃ。我々も他国で口外せぬ」。(足軽でも形づくりの司法取引をする智恵がついている)
 
 だがその間にも左門は陽を背にしてじりじりと間をつめている。それに気がついた一人が「たばかられるでないぞ」と叫んで刀をぬいて切りかかるが、一対一では瞬時に左門が勝つ。それでも左門は相変わらず右手を前につき出したまま、「静まれ、静まれ」と対話継続の意志を示しつつ接近する。また一人が斬りかかるが、「まてと申すに」と言いながらこれを倒す。結局、こんなことをくりかえして順次四人を斬り、二人を縛して連れもどった。
 
 さて、この左門氏の対決力は点をつければ何点でしょうか。
 二十一世紀に生きる今の日本人のお考えはどうでしょうか。
 
 当時の武士社会がつけた評価は最高点である。「これにより左門の剣名は大いに上り、筑前一円の士の多くはその門人となった」とある。
 
 ところで藩中に馬爪源五右衛門という士がいた。彼は鉄砲の名人で勇武の人だったが、なぜか左門の剣を学ばず、その理由を聞かれてもただ笑って答えなかった。
 時を経て左門はある事件を起こして死罪となるが、そのとき源五右衛門は友人にこう話した。「林田左門の剣は兵法と言うより奸智だと思った。いずれ人の道を誤るかも知れないと思って、近づかなかった。拙者は愚か者だが、入門しなくて良かった」。
 
 武士道は人格や道徳を尊ぶ時代へいつの間にか移行したのである。この話は現代にも応用ができる。アメリカとイランの対決。中国と台湾、日本と北朝鮮。あるいは村上ファンドと阪神、将棋界では名人戦をめぐる朝日と毎日。それからポスト小泉では安倍と福田。などなどだが、いずれの解説を読んでも程度が低い。解説どころかまず鑑賞力がない。
 
 多分、個人的にも対決の経験がない人だらけになったからで、対決のドラマのはじまりと終りは報道してくれるが、途中の丁々発止の面白さを教えてくれる人がいない。多分見えていないのである。対決する両者がもっているそれぞれの武器、兵力、作戦、最終目的、背後の事情、秘密の弱点、・・・エトセトラ、エトセトラが絡みあってえがき出す対決ドラマが見えてない。
 
 対決の結果がでるとつぎは評価の出番だが、これが借り物の評価である。武勇で評価するか、智謀で評価するか、それとも人格や人徳で評価するか。対決力を論じる人はそこまで見ないと、ある対決についての勝者をきめることはできない。評価基準が変われば、負けるが勝ちということもある。したがって、日本人が考える対決力の中にはうまく負ける力もあるとは意味深長である。
 
 源五右衛門は「拙者は愚か者」と言いながら、最終的な勝利は人格や人徳にあると分かっていたのである。
(二〇〇六年七月「対決力」)


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