決断力の根源
“決断力”はいつも礼賛される。
では、決断力にはどんな効用があるか。
第一は、時間の節約である。
第二は、チャンスにのることである。
だが、それ以上の効用は思いつかない。
成功も失敗も決断を通して得られるが、しかし良い決断が良い結果を生むとか、悪い決断が悪い結果を招くとかは言えない。
話はむしろ逆である。
結果が良ければ良い決断だったと思うだけのことである。
多くの人が決断力の賜物と思っているのは、実は決断力の成果ではなく、
第一は、運で、
第二は、カンで、
第三は、事前の準備である。
こんなことは麻雀をたくさんやった人は知っている。
株の売買をたくさんやってみても分かる。
決断を下す瞬間の自分の気持ちを素直にふりかえれば、すべての決断は「これがよい」と思って行われる。
つまり良い選択だと思ってするが、結果はときどきウラ目に出るのだから「良い選択をせよ」と説くのは空論である。
そんなことを説く解説者や評論家は多分麻雀をしたことがないか、あるいはおチャラケの解説をしているのである。
そこで結論に進もう。
「あの人は決断力がある」と言われる人は、何はともあれその結果が成功している人で、その原因は運とカンと事前の準備である。
そして事前の準備とは「問題の研究」と「自分の決意」である。
この二つがない人には人生を運とカンだけで暮らすようになるので“おチャラケ人生”と言われるが、それは解説者でも学者でも政治家でも経営者でも同じである。
つまりそういう人は事前の決意がないのが一番の問題で、これについては羽野水産会長・羽野重雄氏の名言がある。
「決断の前に決意をしておくことが重要である。決意には理由が必要だが、決断に理由はいらない。決断はタイミングをみるだけのことだから容易である」
どうです、目からウロコの名言とは思いませんか。
“理由ある決意”が決断力の根源だと羽野氏は言っているのである。
“理由なき決意”のパフォーマンスの横行ではこまる。
そう言えば麻雀をしているとき、迷っているとよくこう言われた。
「おそい、早くしろ」
「あらかじめ考えておけ」
“所信断行”と言うとおりで、所信がない人に断行を求めてはならない。
所信づくりにつながるような政策研究をしよう。
(二〇〇四年九月「決断力」)
「若い人達は二十一世紀の議論はもうあきたから我々は二十二世紀の話をしようと言っているが、日下さんは二十二世紀をどう思いますか」
とあるラジオ番組で聞かれたのでこう答えた。
「二十二世紀には英語はほろびているでしょう。その代わりに広く使われるのは日本語です」
誰もあとをつづけて発言してくれない。いきなり結論を言われては迷惑千万と推察する。
多くの人の思考は事物を直視しないところから出発する。
一、まず他人の意見を集める。
二、つぎに客観的データの裏づけはないか、と探す。
三、一般の空気はどの意見に対して好意的かを考える。
四、自分の立場上、どの意見が無難でしかも有利かと熟慮する。
つまり、単なる自分の足場固めで事物を直視しない。
その人が事物を直視して自分の意見をつくりはじめるのはようやく第五段階からである。
五、この問題の本質は何か。
六、このまま放置すればどんなことになるか。
で、この直視段階に入ったら研究者は一気に「論理の階段」を登らねばならぬ。
三菱自動車は潰れるとか、中国共産党の支配は終わるとか、アメリカの帝国主義はつづけられないとか、の予測が階段の先に見えてくる。
これは現実を直視する力と論理的思考力がなせるところで、これをこのまま発表するかどうかは別問題である。
それから、こういう未来予測の仮説を日頃からたくさんもっていると眼前の現実を観察する力が飛躍的に向上する。
仮説を検証する観察は関係者の「自浄力」の有無に向けられる。
「自己改革力」と言ってもよい。
それが測定できてはじめて未来予測が完成する。第二幕まで読める。
英語が国際言語ではなくなって日本語に代わるという予測は大分変っているが、その根拠はある。私なりにではあるが、事態を直視した結果の予測だから、人々の反対が多いくらいでは変えられない。
「それでも地球はまわる」
と言うガリレオの心境だが、多少譲歩して「英語まじりの日本語になる」としてもよい。
スタジオを出たとき言語学の渡部昇一先生が、
「中世ラテン語が一気に全ヨーロッパから消えたことがありますからね・・・」
とフォローして下さった。
(二〇〇四年一〇月「直視力」)
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