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不幸の予防と幸福の開拓
 次は第二番目の、情です。情のパワーと価値を知る人になる。情はみんなに備わっているから、特に教育する必要もない、増やす必要もないと思われています。けれども、このごろだんだんわかってきたことは、お母さんが愛情たっぷりに育てなければ情は育たない。情愛欠如症という人間になる。情愛欠如症の人間は情緒不安定症になって、過剰反応をするようになり、周りの人と暮らしていけない。会社に入って、周りの人が優しく教えてあげても、それを曲がってとる。素直にとらない。扱いにくい人になります。情愛が欠けている人に対してそれを補うのは大変です。ほとんど不可能に近い。もう一回赤ん坊からやり直してもらわないといけない(笑)。
 そういう情愛欠如症の人間がアメリカに大量に発生した。これはアメリカの不幸であり、また世界の不幸である。それはなぜかというと、スポック博士が『科学的育児法』という本を書いて、ベストセラーになった。博士が言うなら間違いないと、その手抜き肯定の育児法を実行したら、赤ん坊はみんな変になってしまった。二十年後にそういう人が社会に出てきて、会社経営がやりにくくなって、スポック博士を死刑にしろという運動が一時ありました。科学者というのをあまり信用してはいけない(笑)。
 日本にもそういう人は増えたと思います。特に昭和四十何年ごろからマイホームができたとき、個室をつくるのは近代的でいいことだという流行がありました。私は当時、住宅産業の本を書く人間でしたから、「子供に個室をつくってはいけない。子供の勉強は、茶の間におりてきて、お母さんが台所で働いているのを見ながらするのが一番いい。個室にこもって勉強がうまく進むなどとは信じない。それは十九、二十歳ぐらいになってからの話である」と、孤軍奮闘した思い出があります。
 情が豊かな人間になりますと、不幸とは何ぞやがわかる、幸福とは何ぞやもわかる。わかるということは、不幸を予防し、幸福を開拓することについて、新しい方法を考えられる人になることです。そして、人の情愛に共感できる人間になる。共感から始まる世界をつくれる。理屈から始まる世界ではない。
 
情が人を動かす力の大きさ
 東京財団に佐々木良昭さんという中東研究家がいます。雑談していると、おもしろいアラブの冗談を教えてくれるのですが、臓器移植のために脳みそも売っている。ほんとうは売っていませんが、冗談でそういうマーケットがあると思ってください。「この前頭葉は優秀だよ。買いなさい。日本人の前頭葉だよ。ただし使い過ぎて、古くなっている。安くしとくよ」(笑)。「こちらのは?」「あっ、こちらはエジプト人」。アラブ人はエジプトと仲が悪いですから、「こちらは全然使っていないから、新品同様。高いよ」という冗談が、アラブではやっているそうです。
 つまり日本人の前頭葉は使い過ぎで、ちょっとくたびれている。それはうまい使い方を知らないのだと思います。情、意、行動などとセットでないといけない。知だけ、前頭葉だけでやっていると、おかしくなる。これは養老孟司さんが毎回言っていることです。ただし、「脳の働きはすばらしい」というほうで世の中にデビューした。「使い過ぎはいけない」というほうはお呼びが少ないらしい。実際は、あまり脳だけを使っていると発狂してしまいます。
 それはともかく、あることに興味を持ってやめられないというのは、アカデミズムをやる人の性質です。それが突然大化けすることがある。その辺をある程度わかる金持ちがいて、この資金と設備を使いなさい、と提供する。こういうことで人類のサイエンスは進歩してきた。
 それと同じことを社会主義や官僚主義のもとでやれますか。やれないでしょう。例えば文部科学省に科学技術会議というのがある。ここの委員になるとたいへん名誉らしい。何百億円かの予算があって、これを大学へ配る。集まっている人を見ると、ノーベル賞すれすれという人がずらっといる。そこに専門外の私が一人いるのは、今だと女性を一人混ぜておこうというのと一緒だと思いますが。そこの委員をしていて私が「まだ世に出ない天才というのがある。そういうのを見つけ出して、お金を配ろうというので我々はやっているんでしょう」と言うと、みんな深くうなずく。
 ところが実際に話が進むと、そんな精神はどこかへ行ってしまって「彼は自分の弟子だ」とか、「これはアメリカで褒められている研究だ」とかになるから、どこがアカデミズムなのかわからない。
 そういう経験がありますから、まずは大金持ちをつくって、その大金持ちが「よし、おまえに頼む」と言わなければ、思い切った研究のスタートはできないものだと思っています。そして思い切れる力は、知だけでは出てこない。前頭葉だけでは出てこない。情と意が必要です。ところが、情をどうしていくかというのはあまり教えていない。
 そして、情がない研究は行き詰まる。情がない行動は失敗する。情が人を動かす力はほんとうに大きいのです。不思議なことですが、誰かがある研究をしていて、お金をくださいと言って歩くとき、情に訴えるとお金が出ます。「これは大変いい研究です」といくら言ったって、相手は専門的過ぎてわからないのだから。それよりも人情で訴えないと仕方がない(笑)。
 
行動の重要性を体得する
 次は第三番目、行動しなければいけない。行動の重要性を体得することです。体得が伴わない理屈だけではだめです。それは行動すればわかることですが、この新規範発見塾では座学方式なので、仕方がないから行動の成功例を教える。そうすると、たいていは「わかった、聞いた」で終わりなんです。でも、時々は自分も行動してみようかなという人がいる。
 「機能快」という言葉を教えてくださったのは渡部昇一さんですが、多分もともとのドイツ語があるのでしょう。それは人間の体にはいろいろな機能が備わっている。その機能を発揮すると快感がある。筋肉がある人は筋肉を使ってみたい。跳べる人はちょっとでも高く遠くへ跳んでみたい。跳べたら快感なんです。そういう機能快というのがある。
 それは、さっき言った前頭葉も同じなんです。前頭葉にも機能快がある。
 それから、集団行動の機能快。人が集まって、太鼓をたたいて踊っているような状態がそうです。集団機能快という。みんなとリズムをそろえて運動していると、大変な快感を感じます。集団行動の集団麻痺現象、集団催眠術現象というのがあります。
 これを日本人は広げます。動物と共生するとか、植物と共生するとか。地球の生き物はみんなつながっているといったように、日本人は考えが広がっていきます。ところが、ヨーロッパ人は広がらない。これは聖書が悪いんです。聖書の中に、神様は人間を特別につくったと書いてある。人間と動物とは違うとはっきり線を引いていますから、その影響がずっと常識の世界にまで来る。
 集団行動の機能快で、日本人は線を引かない。みんな一緒くたであいまいで、総合的に考えるから、日本社会はいろいろな面倒を起こさないでこうやって暮らしていくことができる。それは「一神教はだめです、多神教のほうがいいです」とか、「あいまいのほうがいいです」とかの話になりまして、これが一番上の知のほうへ行くと、知を追求するときに何でアナリシスだけでやるのかという話になる。アナリシスというのは分析ですね。分けて、分けて、分けて考える。それも一つの方法です。
 
入ってしまうと日本は世界で一番自由
 ソクラテスの頃から物事を知る方法は二つある、それはアナリシスとアナロジーである。アナロジーで物事を知ることができる。ただし、これはうまく言えないときもある。
 アナロジーとは、「あいつはオオカミみたいなやつだ」というような表現です。譬え話ですね。これでピシャッとわかることがある。しかしオオカミを見たことがない人にはわからない。あるいは、日本のオオカミは大して怖くないが、ヨーロッパのオオカミは怖いとか、そういうふうに話がこじれていきます。それならもうちょっとはっきり分析して、箇条書きに書いていったほうが通用するというのがアナリシスであり、サイエンスであり、インテリジェンスとか知の世界になっていきます。
 日本人は、それもやったのです。やらないわけではない。やったけれど、邪魔くさい。ケジメを立てると真実から離れると考えて、みんなが「なんとなく、そうだ」と言ったら、それで答にする、という社会をつくった。それは、もともと同じような人間ばかりで暮らしているからです。これがまた良いことか悪いことかと言うと、よその国とつき合ったときには悪くなる。日本の中だけでつき合っていればこれでいい。
 アメリカはどうか、中がいろいろ混ざっている。だから、他の国とつき合うときは具合がいい。それから外国人がアメリカに行くと「住みやすい」と言う。日本の野球選手もアメリカに行くと結構住めると言う。だけど本当は、アメリカの中は住み心地は悪いのです。周りが違った人だらけですからね。だから、クラブをつくって、住んでいる場所も変えて集まる。アメリカに行って旅行すると不愉快なのは、エグゼクティブクラスの人はこちら、ファーストクラスの人はこちらとか、やたら人間を分けるでしょう。ああいうことをしなければ暮らせないとは気の毒だが、そうすればいろいろな国から他人が入ってきても暮らせる。
 日本は他人が入ってくるときは大変厳しい。入国審査は日本が一番厳しい。しかし入ってしまうと日本は世界で一番自由がある。アメリカは入国審査は自由です。ところが、入ったらものすごく規制が厳しくて、まるでヒトラーのドイツヘ来たような気がする。例えばアメリカヘ入ってから、「ブッシュは嫌いだ」とは言えない。そんなこと言ったら大変なことになる。「ジャップ、冗談じゃない。あっちへ行け」と言われてしまう。すぐ入れるが、中ではお行儀よくしていないといけない。日本は入るときちょっと厳しいが、入ってしまうと、この国は何を言ってもやってもいい。
 さて、これをどう考えればいいと思いますか。この答は知で出そうと思っても、なかなか出ないと思いますね。情で出すと、私は日本人だから、「日本がいい」と言います。ただそれだけのことです。そのように人間の粒をそろえるところから国づくりをしたからです。
 ところが第二次世界大戦以降、「アメリカの価値観が最高である。だから世界中こうなるべきである」というのをやり出すと、軍事力があるものだから、それが通ってしまいます。金もあるものだから、普及宣伝活動をいたしまして、そうかなと思った人が日本人の中にもたくさんできてしまった。これを、どうしますか? このままで行きますか、巻き返しますか。
 この二、三年の日本を見ていると、反発も湧いてきた。これから当分、反発期ですね。英語を使うなと言っているでしょう。安倍首相の施政方針演説に、わけのわからない片仮名を言うなと反発が強い(笑)。
 前回、ケンブリッジ英語とアメリカ英語を使いこなせる友人の話をしましたね。結論は「日本式英語を使っているのが、先方にも自分にも一番よい」ということでした。この話がピンと来るというのは、英語とか、普遍主義に対する疑問が出てきているからです。


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