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日本には「許し、世間様、お上」がある
 欧米には自我があり、インドには輪廻があり、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教には最後の審判があるが、日本にはないという話をしました。
 では日本には何があるか。まず許しがある。過去は水に流してしまおう、そして現在を楽しく暮らそうじゃないかという知恵と技術と思いやりは、世界最高に発達している。これが世界最高に発達しているということを、特に近頃の外国人はわからなくて、封建的だとか、非合理的だとか、あいまいだとか、なれ合いだとか不透明だとか、手持ちの悪口を日本にぶつけてくる。
 ところが、江戸時代、明治時代に来た外国人は、長く住み着いたから、そんな手持ちの悪口では当たらないと理解した。だから長く住んだらわかる。長く住まなければわからない。これはやはり長い歴史とか伝統とか、島国だからということがある。
 それからもう一つ、日本人の常識の中には、ありとあらゆる世界の思想と宗教が入っている。全部ミックスされて、ハイブリッド化されている。いいところだけとって、少しずつ入って、五目飯になっている。それを外国人はわからないだろうし、こちらもわからせるのはくたびれます(笑)。
 許しの次は世間様というのがある。先ほどから言っているように、世間様のほうが一人ひとりの個人よりも大事である。人間関係が大事です。これが一番よくあらわれているのは、襲名制度です。五代目菊五郎とか言うでしょう、お父さんは四代目菊五郎。私が五代目を継ぎまして菊五郎ですと言うと、周りは安心します。ああ、お父さんと一緒か。人間は入れかわったけれど、社会的役割とかつき合いは全部引き継いでいる、と思う。だから安心してつき合えます。四代目菊五郎とつき合っているときに、金を貸しておいても、次が返してくれるなと安心できる。四代目によくしておいたら、またその次が返してくれるという、長い縦の決済関係ができます。
 この襲名制度というのは、外国でもないことはない。リチャード三世、リチャード四世とか。しかし日本では、一般国民にまでそれがある。私の友達でも、中小企業の社長が悩んでいた。親父の名前を継ごうかどうか。菊五郎商店という名前の会社で、親父が死んで社長になったら、やはり菊五郎にならないといけない。なっておけば、古くからの得意先、地元の人はみんな安心するというのはわかるが、自分にも多少は自我があるから・・・という悩みでした。
 養老孟司さんが辛らつなことを言っていましたが、襲名制度に似ているのは名刺であるという。日本人は名刺が大好きですぐ出します。何々局何々課長であるというのを見せる。見るほうは、名前のほうはどうせまたすぐ変わるからと、あんまり見ていない。何々局何々課長のほうを見ている。だったら名刺のつくり方を変えて、何々局何々課長だけ大きく書いておけば、名前なんかどうでもいい。隅っこに小さく書いておけばいい。真ん中に職名を大きく書いておいたほうがいい、と、養老さんが言っていました。
 たしかに、そういうことがあります。つまりこれは世間様があるということです。
 
「しゃくし定規ではない日本のお上」が意味するもの
 日本にあるものは、許しである、それから世間様がある。
 その上にお上というのが乗っかっている。お上は合理主義による制度です。人情はシャットアウトして“決まり”の管理をする制度です。これを立てておかないと、大規模集団はもたない。ある権力制度を長い時間をもたせるには決まりが必要である。
 たとえば大宝律令などが、中国のマネをして聖徳太子のころ日本に入ってくる。これでお上の決まりをみんなが承知した。承知したが、なるべく守らないからだんだん消えてしまう。消えたらまたつくるのです。決まりにも新陳代謝がある。お上の中身も少しずつ新陳代謝するわけで、そこがまた日本がうまくいっているゆえんだと思います。
 この間、元裁判所の所長さんを虎ノ門DOJOにお呼びして、裁判のやり方を話してもらいました。懲役三年以上にすると執行猶予がつかなくなる。そこでどうしても執行猶予をつけてあげようと思ったら、三年以上にはしないで懲役二年半になる罰をさがし出して当てはめる。それ以上の罰は探さないそうです。それはインチキだと思って質問したら、「お上にも涙はある、法にも情けはあるのです」と、たいへん日本的なことを言っていました。
 判事が直感的に決めた刑罰から犯罪の事実を逆算するとは変ですが、私はそれでもいいと思っているんです。社会は日進月歩でいろいろですから、法律が追いつかなくても当然です。ただ、時折変な偏った判事が出ると困る。それをチェックするために日本は一審、二審、三審まである。それから裁判は公開で傍聴を許す。だからそこで傍聴した人が意見を言えばいいわけです。それが間もなく導入される裁判員制度です。また、マスコミがもっときちんと論評しなければいけない。そういういろいろなチェック方法があっての決まりなんです。
 ソクラテスが死刑になった。その罪名は、若い者を惑わした罪です。いろいろなことを話して若い者を惑わしたから、死刑という判決が下った。そして、ソクラテスはほんとうに毒を飲んで死んだ。そのころの実状をある本で読むと、死刑囚はいくらでも逃亡できたのだそうです。牢屋の番人にちょっとワイロをやれば、すぐ鍵を開けて逃がしてくれた。だから気安く死刑の判決を出したらしい。
 しかしソクラテスは、意地っ張りで逃げ出さずに死んだ。どうもあれは当てつけに死んだらしい。という目で見ると、確かにそういう言葉を残しています。最後の言葉は「長くもない時間を待てずに、自分に死刑の判決を下した。私はもう年老いている。もうすぐ死ぬのに、市民はなんで死刑の判決を下すのか」と、意地悪市民への当てつけを言ってもいます。どうせ長くないのだから、法を守る英雄になろうと考えたのかもしれません。
 ともあれ、そういういろいろな社会の実状があり、その上にお上がある。日本のお上はあまりしゃくし定規ではない。それをみんなが認めているということに、日本精神とは何かが現れていると思います。
 我々の心の中に、昔からのセンスとか常識とでも言うしかないいろいろなものが残っていて、それが今、地下のマグマから噴き出してきたのではないかというのが、今日の結論です。ご清聴ありがとうございました。


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